4話 洗礼の儀
儀式の当日の朝、レーネマリアが早い時間に訪ねてきた。
「ニコラ様、準備はできていますか?」
何も知らないレーネマリアは、優しく微笑みながら私を見た。
思わず視線を逸らしてしまう。
彼女はその様子を見て、訝しむように首を傾げた。
「ニコラ様?」
これから彼女に伝えなければならないのだ。
気付けば、袖を握る手に力が入っていた。
私は何も言わずに彼女を部屋の中に招き入れ、テーブルの上に畳まれた正装を少しだけ広げて見せた。
途切れた刺繍と、仮止めのまま取れかけた飾りが見える。
レーネマリアの目にそれが映った瞬間、耐えられずに目を閉じてしまう。
彼女はどんな反応をしているのだろう。
わからない。
けれど一つだけ小さな溜息が聞こえた気がした。
握っていた袖が、小さく震えた。
「ニコラ様」
しかし、次にかけられた彼女の声は、思ったよりも優しげだった。
浅い呼吸を繰り返しながら、ゆっくりと目を開く。
レーネマリアは聖女のような笑みを浮かべていた。
「安心なさって、大丈夫ですから」
頼りがいのある言葉に、小さく息を吐く。
彼女は少し待っていてくださいと言い残して、その場を去った。
大丈夫。
その言葉を頭の中で何度も繰り返す。
レーネマリアの『少し』という言葉が永遠に感じられる。
何度目かの大丈夫を繰り返した後、彼女に連れられて、トワイノールがやって来た。
「トワイノール様?」
「話はレーネマリア様から窺いました。わたくしの正装であればお貸しできますよ」
「いいんですか?」
「儀式は万事つつがなく行われなければなりません。それにわたくしはもう一着準備がありますから」
そういって彼女は、正装を差し出した。
ここ数日、胸の奥につかえていた息が、ようやく通った気がした。
急いで正装を着て、儀式の準備をする。
トワイノールの正装は、体型が近いおかげか、私の身体に合っていた。
袖丈も肩幅も、ほとんど違和感がない。
これならば、借り物の正装を見て、あからさまに不恰好だと笑われることもないだろう。
飾り紐や、袖口の布も、私が用意したものとはまるで違っていた。
細かな金色の刺繍が布地の上を走り、紋章が胸元に縫い込まれている。
これが高貴な方が着る衣装なのだと一目でわかる。
助かった。でも豪華すぎて落ち着かない。
鏡に映る私の姿は、まるで服に着られているようだった。
儀式が始まると、直前のトラブルなどまるでなかったかのように、彼女たちは自然な笑みを浮かべていた。
「新たなる魔女候補生――ニコラ・クラリスタ入場」
名前を呼ばれて心臓が跳ねた。
落ち着け。大丈夫だ。
そう言い聞かせながら、深く息を吸う。
けれど、胸元の刺繍が妙に重く感じられた。
合図に合わせて礼拝堂に入場する。
大人数を収容する巨大なホールには、領地の有力者や大聖堂の祭司たちが勢ぞろいしているらしい。
「ニコラ様。真っ直ぐ前を向いて歩いてくださいね」
レーネマリアは、一度だけこちらを見て、ニコリと笑った。それから堂々とした佇まいで歩き始めた。
彼女に先導され、私も礼拝堂の中央を歩く。すべての視線がこちらへ向いているように思えた。
彼女に言われた通りに真っ直ぐ前を向く。
赤い絨毯はどこまでも続くように真っ直ぐに敷き詰められている。
その先の祭壇の上には、魔女が立っていた。
袖口の飾りが、歩くたびに小さく揺れた。
不恰好ではない。大丈夫だ。
そう思おうとした。
「あの紋章は……、あれはトワイノール様の正装ではないか?」
どこからともなく飛んできた言葉に、びくりと肩が震えた。
顔を伏せ、咄嗟に胸元に手をやる。
そうだった。
紋章を見れば、誰の正装かすぐにわかる。
隠せていなかった。
何一つ。
静寂だった礼拝堂にざわめきが広がった。
「何故、新しい魔女候補生が、トワイノール様の衣装を?」
「借り物、ということか」
一つ一つは決して大きな声ではなかった。
けれど、その言葉は確かに、私の耳の奥へ刺さっていく。
前を向けと言われたのに、顔を上げることができない。
「ローリン様が補助金の手配までなさったと聞いたが……」
補助金のことまで知られている。
違う。そう言いたかった。
けれど、何が違うのかわからなかった。
補助金を用意してもらったのは本当だ。
店を教えてもらったのも本当だ。
仕立て屋を紹介してもらったのも本当だ。
それでも今、私が着ているのは、私の正装ではなかった。
「衣装一つ、まともに手配ができないのか」
逃げ出したい。
このままへたり込んでしまいたい。
けれど、まだ儀式は始まったばかりだ。
視界が歪んだ。気付けば、床に水滴が零れていた。
あれだけ準備してもらったのに。
期待しておりますね、と言われたのに。
私は何も出来なかった。
「建国の神々の威光高きこの良き日に。こうして新たなる魔女候補生を迎え入れられることを深く感謝いたします」
床に落ちた水滴を拭う間もなく、魔女の声が礼拝堂に響いた。
儀式は止まらない。
私がどれだけ恥ずかしくても、泣いていても、何事もなかったかのように進んでいく。
私は魔女の前に跪いた。胸元の紋章が、また視界の端に入る。
私のものではない正装のまま、彼女の言葉を聞くしかなかった。
「新たなる魔女候補生ニコラ・クラリスタ。あなたは秘奥の継承者として、大いなる務めを最大限遂行することを誓いますか?」
「――誓います」
喉の奥が詰まる。
「原初の魔女の崇高なる意志と理念と奇跡を擁護することを誓いますか?」
「――誓います」
そう答える以外の選択肢など、どこにもなかった。
「宣約に従うならば祈りましょう。
『今こそ、この真意を捧ぐ。
いつか帰るその時まで、郷愁は海の底。
役目を果たし、懐かしき日々の終わり。
あなたは非才の身なれど、生き様に焦がれて欲す。
その御霊、別たれようと、一つとなりて輝く宝玉なり。
願い給え。叶え給え。
その奇跡を以って原初の魔女の偉業とす――天命清算』」
直後、赤い炎が私を包んだ。
* * *
儀式の後、控室の隅で縮こまっていた私に、エイダが駆け寄ってきた。
「わたくし、あのように心無いことを口にした方へ抗議して参ります」
彼女は私を庇うように憤慨していた。
あれだけ沢山上がった言葉の中で、どの言葉のことを指しているのかわからない。
けれど、感情表現豊かな彼女らしい言葉に、少しだけ慰められていた。
まもなく、他の五人も控室に戻って来る。
レーネマリアは、心配そうに入口に立っていた。
アドミリアは、気まずそうに窓の外を見ていた。
ローリンは、静かに私を見つめていた。
トワイノールは、悲しそうに眼を伏せていた。
一番最後に戻って来たヴィヴィアンナは、すぐに私に近づいてきた。
「えぇ、エイダ様の言う通りです。事情も知らずに心無いことを言う方は、あまり好ましくありませんね」
彼女は私の前に立つと、ゆっくりと私の肩に手を置いた。
「今回の件は仕方ありません。初めから猶予は十日間しかなかったのだもの」
「でも、でも私。皆さんに色々教えてもらったのに……。ローリン様には補助金の準備をしてもらって、ヴィヴィアンナ様にも……」
その瞬間、ヴィヴィアンナに抱きしめられた。
思考が止まる。
「大丈夫ですよ。ここはたった一度の失敗で責められるような場所ではありませんから」
そう言うと彼女は、私から離れて正面から向き合った。
「ニコラ様は地方の出身ですもの。今はまだ都の勝手が分からないのも当然です」
そして、まるで聖女のような優しげな微笑みを浮かべ、手を差し伸べてきた。
「今度は共に都を回りましょうね。お店なら沢山ありますもの」
差し出された手を見つめ、私は彼女たちの優しさを思い出す。
確かに辛いことはあるかもしれないけれど、彼女たちと一緒ならやっていけるはず。
――今度こそ期待に応えられるように頑張らないと。
その手を取ろうとして、――途中で手が止まった。
確かに優しい言葉だった。
地方から来た私を気遣う、何もおかしなところのない慰めだった。
けれど、「お店なら沢山ありますもの」と、彼女は言った。
そうだ、沢山あるのだ。
なら、どうして私は、あの二つの店に固執したのだろう。
あの日のことが、頭の中に蘇る。
真っ先に思い浮かんだのは、ヴィヴィアンナから渡された地図だった。
広大な都の中に、ぽつり、ぽつりと示された真っ赤な目印。
他にも店があることくらい、わかっていた。
けれど、真っ先に向かおうと思ったのは、そこだった。
地図を示される前までは、自分で店を探そうとしていたのに。
気付けば私は、最初からあの店に行くものだと思い込んでいた。
臨時休業の札が掛けられたあの店に。
そして、その時にはもう、別の店を探そうとは思わなかった。
だってそれまで沢山歩いていた。
これ以上、知らない店を探して、都を歩き回る体力も気力もなかった。
だから、あの二つの印に縋った。
喉の奥が、冷たく塞がった。
紹介された店は臨時休業していた。
五日あれば仕立てられると聞いていた工房に、直前になって大口注文が入っていた。
すぐに差し出された、トワイノールの正装。
ローリンが手配してくれたはずの補助金の話を、見知らぬ官僚が知っていた。
一つ一つは、ただの偶然だ。
そう思っていた。
けれど、ヴィヴィアンナの言葉に違和感を覚えた瞬間、それらは単なる偶然ではなく繋がってしまった。
認めたくない。
彼女たちの優しさを、親切を、笑顔を疑いたくない。
けれど、もう違って見えてしまった。
偶然ではない。まして親切でもない。
それは私の足元に、いつの間にか敷かれていた一本の道だった。
――私は、その上を歩かされていた。
そう思った途端、涙は自然と止まっていた。
代わりに、目の前にいる聖女の形をした何かから、目が離せなくなっていた。
ヴィヴィアンナは、私の様子が変わったのを感じ取ったのか、手を下ろして微笑んだ。
そして、ゆっくりと振り返る。
私もそれにつられて視線を向けた。
レーネマリアがゆっくりと近づいてくる。
彼女も聖女のような微笑みを浮かべていた。
先程まで見せていた、私を心配するような様子は消えている。
「ニコラ様。洗礼、お疲れ様でした」
洗礼。
その言葉が、今さら違う意味を持って響いた。
聖学校で受けた露骨な悪意とは違う。
小説の悪役みたいに、わかりやすく種明かしをしてくれるわけでもない。
親切の形をした言葉の裏を読み損ねれば、それだけで簡単に破滅する。
「そして、ようこそ。新たな魔女の選別へ」
それが魔女候補生の流儀だった。




