第5話 エレン・サクラ・ミラーの慧眼
2017年1月中旬。
アリゾナでの春季キャンプインを約1ヶ月後に控えた、ある冬の日。
ロサンゼルス・ドジャースの球団事務所の一室に、不思議な緊張感が漂っていた。
応接ソファに腰を下ろしているのは、鳳陽斗と、彼の担当代理人マイク。そしてドジャースの育成担当部門のスタッフだ。
テーブルを挟んで彼らの対面に座っているのは、タイトなスーツを着こなすミステリアスで知的な女性。落ち着いており気品も感じられる。
ロサンゼルスに拠点を置くレザー製品の高級ブランドMillerの経営幹部である、エリザ・サクラ・ミラーだった。
「―――お会いできて光栄よ、ハルト。あなたの大活躍の噂はロサンゼルスの街にまでちゃんと届いているわ。」
「光栄です。ミセス・ミラー。」
日本人の血を引いていると思われるサクラというミドルネームを持つミラー氏は、洗練された滑らかな英語で陽斗に微笑んだ。
ここ最近、アメリカ国内の老舗グラブメーカーを買収し、新たなブランドEllen sportsを設立して野球ギア市場に本格参入するという業界ニュースが流れていたのは記憶に新しい。
その第一歩として、彼女が自ら球団事務所まで足を運び持ちかけてきたオファー。
それが、真新しい漆黒の特注レザーグラブをテーブルに置きながら語った、鳳陽斗とのアンバサダー契約だったのだ。
「私たちが開発する新しい野球ギア、その立ち上げの〝顔〟(アンバサダー)になってほしいの。グラブやバットの完全無償提供に加えて、ブランドからの年間スポンサー料を支払う用意があるわ。」
非常に魅力的なオファーだった。
昨年150万ドルの契約金から税金を引かれた実質の残高と、アメリカの凄まじい物価、生活費を不安視していた陽斗にとって、用具代の無償化とスポンサー収入は喉から手が出るほど欲しい。
が、陽斗はやはり疑問に思う。
「……ミセス・ミラー。非常に魅力的なお話ですが…ひとつ質問させてください。」
陽斗はまっすぐにエリザの目を見据え切り出した。
「どうして〝俺〟なんですか?」
「と、いうと?」
「俺はまだ16歳の、いちマイナーリーガーに過ぎません。全米…いや世界に中継されるメジャーの舞台に出る保証は一つもなく、スポンサーのロゴを宣伝する露出効果も現時点ではゼロに等しいと思います。自社のスポーツギアブランド立ち上げの看板に据えるなら、コーリー・シーガー氏やクレイトン・カーショウ氏のような、誰もが知るメジャーリーガーを起用する方が絶対にビジネスとして正しいはずではないですか?。どうしてルーキーリーグで少し結果を出しただけの、いちマイナーリーガーである俺と、巨額のアンバサダー契約を結ぶのですか?」
「……その論理的思考、あなた本当に16歳なの? ええそうね、あなたの言う通り弊社のマーケティング会議でも初めはスター選手の起用が推奨されたわ。でも、ある強硬派の意見が取締役会の承認を覆したのよ。絶対にあなた(ハルト)に投資すべきだってね。」
「…その強硬派というのは、優秀なアナリストか何かですか?」
陽斗の質問にエリザは少しいたずらに満ちた笑顔で首を横に振った。
「――私の娘よ。14歳のね。」
「え……?は……? 娘さん?」
「エレンという名前の、我が家のちょっと厄介なお転婆娘よ。彼女、筋金入りのドジャースファンなのだけど、普通の子とちょっと視点が違ってね……セイバーメトリクスやマイナーリーグの各種スタッツ(指標)の分析に熱心なのよ。」
その時の様子はこうだ
「ママ、今すぐこの選手にフルベットして!今はまだ一部の指標マニアにしか知られていない底値だけど、三年以内に絶対にメジャーに定着して、ブランド価値は今の1000倍に跳ね上がるわ!!彼はマイナー史上最高の過小評価資産よ!!」
――過小評価資産。
「…娘さん……エレンさんは、俺のデータから何を見たのですか?」
「全てよ。下位グレードではあるけれど、14.18という高い奪三振率(K/9)に対して四球はわずか5という異常な制球力(K/BB)。OPS1.178で長打率は7割を超え、バレル率は19%。足は速いはずなのに走塁やクロスプレーにやや消極的で、50球に到達する前に交代する事も娘は感づいた。それらを踏まえて、あなたが出力を意図的にコントロールしているクレバーな選手だと彼女は見抜いてるわね。」
エリザは言葉を区切り、陽斗の大きな体を興味深そうに見つめた。
「ただ身体能力任せに投げ込んでいる6フィート5インチクラスの男なら掃いて捨てるほどいるけれど、自分を客観視し、徹底して最短ルートを歩もうとしている本物の怪物は彼だけよ。彼なら絶対に潰れない――うちの強硬派のアナリスト様はそこまで言い切ったわ。母親である私にはただの数字の羅列に見えたけれど、あなたのその何かを見通すような目を見れば、あの子の言う通りだと直感できるわ。」
そこまで見抜いていたのか。
陽斗は、まだ見ぬ14歳の少女に畏怖を抱く。自分を日本から来た話題の来客としてではなく、純粋にデータとクレバーさを評価し、ビジネスの対象として価値を見出してくれているのだった。
それは、徹底的な規律と自己管理。トレーニングのみを信じて海を渡ってきた陽斗にとって胸のすく賛辞だった。
「……恐れ入りました。優秀なアナリスト様に宜しくお伝えください。」
テーブルに置かれた漆黒の特注グラブを、陽斗はそっと手に取った。
指を入れた瞬間、最高級のキップレザーが掌に馴染んだ。ドジャースの青いステッチがあしらわれたそれは、激しい実戦を想定した緻密な計算で作られていることが、掌から瞬時に伝わってきた。
「品質も…本物だ。」
静かに呟くと、エリザは満足そうに微笑み契約条件を提示した。
「Ellen sportsとの年間アンバサダー契約。スポンサー料はベースとして年間10万ドル。グラブ、スパイク、バット、バッティンググローブ、トレーニングウェア等、年間数万ドルは下らない高品質なプロ用ギアをすべて、フルオーダーメイドで無償供給するわ。その代わり、そう遠くない未来……メジャーの舞台に立ちスーパースターになった時……我が社に独占交渉権を持たせてもらうわ。どうかしら?」
年間10万ドルの追加キャッシュインと、本来持ち出すはずだった多額の野球用具代が無償になるという僥倖。
家計簿アプリをしかめっ面で睨み、アメリカでの野球生活のリミットに頭を抱えていた陽斗にとって、それはまさに恵みの雨どころではなかった。
陽斗は隣に座る代理人マイクと短く視線を交わした。
マイクも深く頷き、「今すぐサインしろ。最高のディール(取引)だ。」と瞳で語っている。陽斗に断る理由は万に一つもなかった。
「ミセス・ミラー。」
グラブからゆっくりと左手を抜き、静かな瞳でエリザを見返した。
「素晴らしいグラブです。……この投資、絶対に後悔はさせません。お約束します。」
「あら、いい返事ねハルト。昇格したらあの子とドジャー・スタジアムに観に行くわ。」
こうして16歳と14歳の熱狂的指標マニアのお嬢さんという、予想しなかった奇妙な縁が繋がった。
純粋なデータのみを信奉する少女からの巨大なビジネス投資は、シビアな生存競争に身を置く若き怪物の歩みを、物理的にも金銭的にも強固に支えることになる。
ただ――14歳とはいえ、女の子の気持ちに寄り添うのには慣れていないという弱点を持つ陽斗は、この時まだ気づいていなかったのだ。
俺の価値を見出してくれた14歳の少女と、いずれアメリカの球場で厄介な出会いを果たすことへの心の準備など、一切できていなかったことに。




