第25話 大西と鳳
実況ブースでも、中継アナウンサーが完全に身を乗り出していた。
球場のファンは手拍子のテンポを極限まで速め、総立ちでラストボールを待っている。
バックネット裏のVIP席。
エレンも一切の瞬きを許さず、極限の集中力で、これから生まれる歴史的瞬間をこの目に焼き付けようと視線を送っていた。
マウンド上の陽斗。
深く沈んだ呼吸。
静かに投球動作に入る。
――はあぁっ!!!!
鋭い呼気が吐き出され、大地のエネルギー、しなり、重心——すべてが完璧に同期した右腕から、究極の白球が閃光のように放たれる。
空気を裂き、キャッチャーミットが上へと激しく押し上げられる重低音。
ソラーテのバットは完全な後追いで空を切り、膝を突くような体勢でもつれ倒れた。
Strike three!!!
そして――。
打者の絶望的なスイングアウトから、コンマ数秒後。
中継のテレビ画面、およびペトコ・パークの巨大なバックスクリーンに、その計測結果が叩き出された。
【107.1mph 】
表示された、白く発光するデジタル数値。
それは、長らく人類の限界として君臨してきたチャップマンの記録105.8mphを、わずか2球前の投球であっさりと超越したばかりの陽斗自身が、106.0、106.6と1球毎に己の叩き出した世界新記録を、さらに超越したことを意味していた。
他者の残したメジャーの歴史どころか、十数秒前の自分の限界すらも瞬く間に過去へと置き去りにしてしまう——。
狂気にして神聖なる、三桁の刻印。
あまりの非現実的な球速の跳ね上がり方に、数万人の観客が自らの目を疑ってスタジアム全体が凍りついた。
その直後——。
爆薬に火がついたかのような、ペトコ・パークの土台を物理的に揺るがすような地鳴りのような大歓声と悲鳴が爆発した。
「OHHHHH, MY GOODNESS――――!!!!! HE DID IT !!」
アナウンサーが半狂乱になって実況席のマイクに向かって絶叫する。
「HISTORY IS MADE!! THIS IS NOT A DREAM, LADIES AND GENTLEMEN !! ONE-OH-SEVEN POINT ONE!!!」
歴史が塗り替えられました!皆さんこれは夢じゃない! 107.1マイルです!!
「Haruto Ohtori just threw the FASTEST pitch in the history of Major League Baseball !!! A stunning 107.1 miles per hour !! We are witnessing something utterly incomprehensible right here in San Diego !!!」
ハルト・オオトリがメジャーリーグ史上最速のボールを投げたッ! 脅威の107.1マイル(172.36km/h)!! 我々は今夜、ここサンディエゴで全く理解の追いつかない規格外の伝説を目の当たりにしている!!
直後、テレビ中継の画面には、通常の球速表示に加え、超高精度トラッキングシステム『Statcast』による高度なピッチング・メトリクスがオーバーレイで表示された。
【Velocity(球速): 107.1 mph(約172.4 km/h)】
【Spin Rate(回転数): 2,780 rpm】
【Induced Vertical Break(ホップ成分): 23.8 in(約60.4 cm)】
【Horizontal Movement(横変化): 5.1 in(12.9cmの利き腕方向への横変化)】
表示された前人未到の『107.1mph』という数値の裏には、さらなる異常性が潜んでいた。
通常、メジャー投手のフォーシームの縦変化(ホップ成分)は平均16インチ(40.6cm)前後だ。
しかし陽斗の直球は23.8 in(60.4cm)。極端に落下しにくい軌道を描いている計算になる。
172km/hもの信じられないスピードで飛んできたボールが、バッターの手元で想定より沈まない。
重力に逆らうかのように、数インチ分浮き上がるかのように見えるのだ。
まさしく打者にとっては、常識がねじ曲がっていくような、救いのない感覚だった。
爆音と大喝采。
ペトコ・パークの観客席も、両軍のベンチも関係ない。
純粋な狂気の記録の前に、スタジアム全体が揺れる大熱狂がしばらく巻き起こっていた。
――――――
熱狂渦巻くサンディエゴ・ペトコパークから太平洋を隔てて西へ、およそ5,600マイル(約9,000km)離れた日本・千葉県。
日本標準時で9月2日の午後1時34分のZOZOマリンスタジアムのビジターロッカールーム。
この日はマリーンズとのナイトゲーム。球場入りしていたファイターズの選手たちは、着替えの手を完全に止めたまま、設置されたテレビモニターに釘付けになっていた。
「おい、今の……っ!? ひゃくなな……172キロって出とったぞ!!」
「イカツ過ぎる……えぐいえぐいエグイ……やーっば……」
「あいつが……これから人類最速の称号を背負うのか……マジで?」
メジャー中継を見ていた選手たちがどよめき、口々に感嘆と絶望がないまぜになった悲鳴を上げる。
この春、侍ジャパンとしてロサンゼルスに滞在し、ドジャース戦で直接対峙した中武などは、呆然と画面を見つめていた。
「アイツ……あれからさらに進化してんな……」
中武が自信を失ったような痛切な声の直後だった。
それまで喧騒に包まれていたロッカールームに、奇妙な静寂がすっと滑り込んだ。先輩から若手、裏方たちに至るまでが、誰からともなく言葉を失い、視線だけを静かに後方へと流したのだ。
全員の視線の先――ロッカールームの最後列にいる〝 一人の男 〟に向けて。
彼らが無意識にそうしてしまうのも無理はない。自分たちと同じチームでしのぎを削り、誰よりもその背中を見てきた男。彼こそが、不可能とされた『二刀流』という道を日本球界で現実にし、世界に飛び立とうとしている絶対的至宝だからだ。
同じ投打の二刀流でありながら、海の向こうでデビュー戦でこれ以上ない活躍を見せる17歳の同胞の眩い活躍に、彼はいったい何を思い、どんなリアクションを見せているのか。自分と同じように自信を喪失しているのか、驚いているのか、闘志を燃やしているのか――――誰もが内心気になって仕方がない。
だが、彼らはただの一人として「なあ翔平、とんでもない化け物が出たな」、「お前でも今の球は、さすがに打ち返せねぇだろ」、と気安く茶化したり、声をかけたりすることはできなかった。
その時の彼から滲み出ている雰囲気が、あまりにも異質だったからだ。安易にその世界に足を踏み入れることが出来ない程に、痛烈に研ぎ澄まされ、張り詰めた『気』が全身から放たれていたからだ。
大西翔平
パイプ椅子に深く腰掛け、一人静かに、瞬きすら忘れたように液晶を見上げている青年。
(……鳳陽斗)
大西は顎のラインにタオルを当てたまま、瞳孔を限界まで開いて、画面の衝撃的な数値を食い入るように凝視していた。
あの春、侍ジャパンとの練習試合で叩き出されたチャップマンに次ぐ、105.6マイルの投球。
大西自身も、その時の衝撃的な映像は当然ながら何度も何度も何度も確認し、解析データと共に穴が開くほど見つめていたのだ。
『とんでもない後輩がアメリカに現れた』ということは分かりきっていた。
同じ二刀流として、あんな怪物を退屈なマイナーに閉じ込めているなど、球界の損失だとさえ思っていた。
だが——鳳陽斗はマイナーでのこの半年の間、無意味な隔離をされていたわけではなかったのだ。
磨き続けていたのだ——その土台と、研ぎ澄まされた武器を。
打席では剛腕ラメットから打球速度117.6mph(約189.3 km/h)という規格外の打球を、力学の極致ともいえるスイングで場外に叩き込んだ。
マウンドでは、抑え気味の力で102マイルを正確無比に制球し、ゴーサインが出た瞬間にリミッターを外し——
チャップマンどころか、彼自身がたった十数秒前に記録した人類最速さえも置き去りにする『107.1マイル』を世界に見せつける。
(――先に、やられた——)
大西の心に最初に広がったのは、チクリと胸を刺すような、純粋で鋭い悔しさだった。
自分が誰よりも信じて突き進んできた、投手と打者の『二刀流(Two-way player)』という道。
世界最高峰のメジャーリーグという分厚い壁に風穴を開け、誰も見たことのない景色を最初に作り出す〝パイオニア〟になるのは——この俺のはずだった。
だが、その設計図は、極東から単身アメリカへ渡り、マイナーの下積みを完璧な自己管理で踏み越えてきた、6歳も年下のの〝17歳の少年〟に先取りされてしまったのだ。
(メジャーの歴史どころか、自分の限界すら数秒で先に塗り替えるとは……)
信じられないような光景だった。
だが、不思議と大西の胸の内に絶望や焦燥感は湧いてこない。
逆に——彼の口元には、無意識のうちに武者震いを隠しきれない〝不敵な笑み〟が深く刻まれ始めていた。
(確かにとんでもない怪物だ。おそらく……いや間違いなく途方もない徹底した自己管理と周りが理解に苦しむくらいのトレーニングを積んでいる)
けど——まだアイツの二刀流の歯車は、組み上がったばかりで荒削りだ。
画面の中で冷静な表情でダグアウトへ戻る鳳陽斗の映像を見つめながら、大西の脳内は瞬時にアイツの長所と僅かな綻び、そして己の〝現在地〟を猛烈な勢いで比較・演算していく。
アイツが打席で放つスイングは冷徹で完璧に近い。
だが、極限までパワーをボールに乗せるインパクトへの天性の角度作りなら、絶対に俺に分がある。
アイツの魔球バルカンチェンジは驚異的だ。
だが、自分がいま磨き上げている高速スプリットと沈まないスライダーならば、より多くの空振りを奪い続けられる自信がある。
アイツの107マイルは確かに歴史を塗り替えた。
だが、あと数ヶ月で太平洋を渡り、新天地の環境と最先端のデータを徹底的に取り入れてトレーニングを積み、フィジカルの壁をあと一枚突き破れば――――
俺だって、必ず107マイル以上の景色に手が届く
(今はアイツが一歩、いや三歩くらい先を行っているかもしれない。だけど……届かない背中じゃない。すぐに追い越せる。絶対に追い抜いて、あの〝頂点の景色〟は俺が奪い取ってやる)
「………………」
大西の手の中で、無意識に固く握りしめられていたスポーツタオルが引き千切れそうになる。自分が無意識のうちに興奮で震えていることに気づき、大西は小さく息を吐き出してタオルを顔に押し当てた。
全身の血が激しく沸騰し、今すぐにでもグラウンドへ飛び出してバットを狂ったように振り回したくなる。ネットが千切れるほどの球を投げ込みたくなる。
(早く、海を渡りたい。早くアイツの投げる『107.1マイル』の前に立ち、俺の魂を乗せたフルスイングで、その球を真正面から粉々に打ち砕いてやりたい——!!)
(マウンドでアイツを迎えて、俺の一切の小細工なしのフォーシームで、バットを真っ二つにへし折ってやりたい——!!)
(待っていてくださいね……、鳳陽斗……くん)
自分に向けて遠慮がちに無言の視線を送っていた同僚たちのことなど、すでに大西の意識の外にあった。
誰にも聞こえない声で、ただ一心に、海を渡った怪物へと語りかける。
日本の誇る孤高の至宝は、太平洋の彼方で新たな神話を紡ごうとする17歳の伝説の新芽に向かって、静かに、しかし純度の高い熱と殺気を秘めた宣戦布告を口にした。
「すぐに追いついてみせる。同じマウンドとバッターボックスで、本気で勝負しようぜ」
いずれ必ず、世界一の頂を懸けて交わることとなる——
『追跡する傑物』と『超越する怪物』。
遠く離れた幕張の空の下、鳳陽斗が残した絶望的で特大な一撃は、
最強の追跡者の心に極上の着火剤となり、
途轍もない闘志となって強烈に響き渡っていた。




