第24話 太平洋の向こうには
日本標準時。2017年9月2日、土曜日。午後1時30分。
アメリカ西海岸、サンディエゴのペトコ・パークが熱狂の坩堝と化しているその時——
太平洋を隔てた日本の大阪、ある名門高校の野球部ミーティングルームでも、別の熱を帯びた静寂が支配していた。
大型テレビに映し出されているのは、公共放送局のBS中継。
昼休みの延長として組まれたミーティングで、丸刈りの球児たちが食い入るように画面を見つめている。
夏の甲子園を3回戦敗退で終え、2年生を中心とした新チームとして始動したばかりの彼ら。
目指すは春のセンバツ連覇、そしてその先の春夏連覇という偉業だ。
だが今、彼らの視線は一時的に〝甲子園〟という夢の舞台ではなく、そこから遠く離れた異国の地——世界最高峰のメジャーリーグベースボールに向けられていた。
『――さあ、ノーボールツーストライクと追い込みました。165キロのストレートを2球見せられた後の3球目、何で来るか……!』
『落としたっ! 空振り三振!! 150キロのチェンジアップ! バットが完全に空を切りました!!』
画面の中で、パドレスの3番打者ピレラが無残な空振りを喫し三振に倒れる。
「……えぐっ。なんや今の落ちる球。ストレートの軌道から完全に消えた……」
画面の最前列で息を呑んだのは、新チームの主将を任された中海だった。
「チェンジアップやのに150キロ出てるって、どういうことやろ……。俺らのMAXより速い……」
エースナンバーを背負う柿本が、信じられないものを見たように目を剥く。
彼らが見つめる画面の中で、涼しい顔をしてキャッチャーからの返球を受け取っている背番号29の鳳陽斗。
同学年——日本の学制で言えば、まさに今、彼らと同じ高校2年生の年代である。
「さっきの打席のホームランも……あれ、エグすぎやろ。ビル越すとか……。スイングスピードヤバイし、メジャリーガーと同じ身体しとる。」
不動の1番打者・藤田が、自身の拳を握りしめながら唸る。
「パワーもだけど……あのバットの出し方、下半身の使い方の柔軟さ……。同い年とは到底思えんわ」
強打の山内も、感嘆の吐息を漏らす。
そして、誰よりも食い入るように画面を見つめていたのは、チームで投手と野手の両方をこなす二刀流選手、根来だ。
「……102.7マイル(165km/h)のストレートを要求通りのコースに投げ込んで、打者としても特大のホームランを打つ。同じ二刀流でも、レベルが違いすぎる……これが……世界……」
根来の瞳には、絶望ではなく果てしない高みを見つけた純粋な野球少年としての、強烈な憧れと闘志がメラメラと燃え上がっている。
そして……点球児たちの後ろで、腕を組んで壁に寄りかかっていた男——
この名門高校を率いる超有名監督は、静かに画面の向こうの少年を見つめていた。
(……あの時、ウチの誘いを断って直接アメリカに渡ったんが、正解やったっちゅうわけか……)
2年前の冬、鳳家の小さな客間で、まだ中学生だった陽斗と交わした会話が脳裏に蘇る。
『高校には進学しません。卒業すぐに渡米して、国際アマチュアFAでどこかの球団とマイナー契約を結ぼうと考えています』
それを聞いた時は、耳を疑った。U15で世代のエースを張っていた少年の全能感から来る、到底無謀な夢だとさえ思えた。
親元を離れ日本の高校やNPBを経由せず、過酷なマイナーリーグの底辺から這い上がることの困難さを説いた。
だが、少年は自身の人生を完璧に設計して海を渡り、夢の舞台に立っている。
(甲子園優勝……そのずっと先――見てると言うとったが……まさか、たった2年も経たずにホンマにメジャーのマウンドに立ちよるとはな)
監督は、画面の中で落ち着き払ったマウンド捌きを見せる陽斗の姿に、思わず口角を上げた。
高校球児たちの最大の夢である〝甲子園〟。
それは間違いなく素晴らしい舞台であり、彼らもその頂点を目指して血の滲むような努力をしている。
だが、その枠から自ら降り、世界中から本物の化け物たちが集い、しのぎを削るメジャーリーグという〝別の夢の舞台〟で、17歳の少年が堂々と渡り合っているのだ。
「お前ら」
監督が低く、よく通る声で呼びかけると、部員たちが一斉に振り返った。
「全員よく見とけよ。お前らと同い年のあいつが今、世界で一番厳しいマウンドでバッターを三振に取っとる。甲子園のその先……本物の世界っちゅうのは、ああいう化け物がウヨウヨおる世界や」
部員たちの顔つきが、一瞬にして引き締まる。
「あいつは15歳で『その先』を見とった。お前らも甲子園優勝をゴールにするな。もっと高い場所を見据えて今から野球に取り組め。そしたらな、春夏連覇なんて勝手に通過点になっていくんや、わかったな?」
「「「はいっ!!!」」」
ミーティングルームに、腹の底から絞り出したような球児たちの声が響き渡る。
テレビの中では、陽斗が続く4番マイヤーズからスライダーで連続の空振り三振を奪い、スタジアムをさらに熱狂の渦に巻き込んでいた。
遠く離れたアメリカの地で、人類未踏の領域へと踏み出そうとしている一人の若き怪物。
その投球は、ペトコ・パークの観客を熱狂させただけでなく、日本の高校球児たちの心に、決して消えることのない猛烈な闘志の炎を燃え上がらせていたのだった。




