第14話 オクラホマシティ・ドジャース
2017年3月末
スプリングトレーニング最終日の午前9時。
アリゾナのキャンプ地、キャメルバック・ランチのクラブハウスに、重く冷ややかな緊張感が漂っていた。
「ヘイ、サム。元気でな。上で待ってるぜ。」
「ああ、お前もな……。」
スポーツバッグに荷物を乱暴に詰め込み、肩を落としてメインのロッカー室から去っていく選手が、一人、また一人と姿を消し始めた。まさに〝運命のロースター・カット〟の朝だった。
スプリングトレーニングはサバイバルの場である。
32人もの招待選手やマイナー有望株たちが、この最終段階で監督や編成部門の人間から個別にオフィスへ呼び出され、無慈悲に上か下かを宣告される。
開幕ロースターに残れるのはわずか25人だけだ。戦力外や降格を通告された選手は、即座にマイナーリーグ施設へと荷物を移さなければならない。
陽斗が自分のロッカー前でスパイクの手入れをしていると、クラブハウスの奥にある会議室のドアが静かに開いた。先に呼ばれていたコディ・ベリンジャーが出てきた。
その顔には渋い表情が浮かんでいたが、どこか割り切ったような薄い笑みが混じっている。陽斗と目が合うと、ベリンジャーは静かな目をしてゆっくりと歩み寄ってきた。
「ハルト、次はお前の番だ。……俺の行き先は3A、オクラホマシティに決まったよ」
「……コディ、あなたがですか? あの成績で?」
陽斗が思わず眉をひそめると、ベリンジャーは少しわざとらしく掌を上に向け、ややコミカルにおどけてみせた。
「まあ、大人のビジネスってやつさ」
声を潜めた言葉には、諦めと皮肉が滲んでいた。彼は陽斗の肩をポンと叩くと、慣れた手つきで荷物をまとめ始めた。
資本の力学がすべてを握るメジャーリーグにおいて、超有望株のFA権取得を遅らせるためのこの〝操作〟は、非情だが避けては通れないビジネスの常識だった。
「Ohtori、GMがお呼びだ」
スタッフの声に促され、陽斗は静かに立ち上がると、重厚な会議室のドアをノックした。
ドジャース球団オフィス内の戦略的会議室、通称〝War Room〟巨大な一枚板の古木の執務机を挟んで、ロバーツ監督、ザイディGM、フリードマン編成本部長。
——ドジャースを統べる首脳陣が、どこかビジネスライクな表情で座っていた。
「素晴らしいキャンプだったよ、ハルト。結果は非の打ち所がないパーフェクトと誇っていいだろう。」
フリードマン編成本部長が温かく、しかしどこか重々しいトーンで語りかける。
陽斗は真っ直ぐに首脳陣を見据え、静かに次なる指令を待つ。
「……ありがとうございます、事前の編成プランでは、俺の今シーズンは2Aからのスタートだと伺っていましたが、そのままの認識でよろしいでしょうか?」
陽斗の冷静な問いに対し、ザイディGMは手元の分厚いレポートに目を落としながら首を横に振った。
「いや、計画は変更だ。本来なら君の年齢と未熟な経験を考慮し、2Aでじっくりと実戦を積ませるプランだった。だが……オープン戦と侍ジャパン相手に見せたあの制圧力は、我々のスカウティングモデルの限界を完全に超えてしまっている。君の現段階の実力は、2Aレベルではもはや練習にすらならない。」
ザイディGMはペンを置き、陽斗の顔を真っ直ぐに見た。
「よって君は、飛び級で開幕から3Aに合流することになる」
「3A……メジャーの一歩手前ですね」
極めて異例な特急昇格の通達だった。陽斗の瞳に、静かな闘志が宿る。
「承知しました。そこで、首脳陣が求める一定のスタッツを残せば、シーズン中の早急なメジャー昇格――コールアップも視野に入ると捉えて……」
「――そこが問題なんだ、ハルト」
陽斗の言葉を遮るように、フリードマン本部長がスッと身を乗り出した。
「君の配属先は3Aになるが、メジャー昇格の時期については一切期限を設けない。どんなに圧倒的な成績を残し、全米のメディアが君をメジャーに呼べと騒ぎ立てたとしても……我々は絶対に早急に君を上げることはしない。完全なる〝無期限〟の足踏みだ。」
「無期限、ですか。」
「そうだ。君もマイクから聞いているだろうが、FAの日数調整といった金やビジネスの話とは、まったく次元が違う。君という一人の人間の才能を徹底的に管理し、物理的な破滅から守り抜くためのプロテクトなんだ。」
それまで黙っていたロバーツ監督が、机に身を乗り出して陽斗の両肩に視線を走らせた。その瞳には、純粋な恐怖すら混じっている。
「率直に言おう、ハルト。もし今メジャーに昇格すれば、君は日本の代表を圧倒した時のように、アドレナリンに身を任せて105マイルのファストボールで大暴れするだろう。……しかし同時に、今のその完成されていない骨格だといくら球数や登板間隔を制限したとしても……半年以内にその右腕は限界を超えて破綻し、間違いなく肩か肘…最悪両方の靭帯断裂で崩壊する。」
「……」
「選手とは、あの身を焦がすような環境では無自覚にリミッターを外したくなる生き物だ。だが、まだ骨格も筋肉も完成していない16歳の身体で、メジャーの過酷なシーズン中に出力を暴発させ続ければ、即座に終わりを迎える。我々はその悲劇を絶対に許容しない。」
「ハルト。3Aでの君のミッションは無双することではない。『意図して出力を8割程まで落とし、100マイル付近のフォーシーム、変化球とそのコマンド能力だけで、あっさりアウトを取る術』を完全に身体に染み込ませることだ。自分の最大パワーを抑制しながら、その余裕の中で3Aの猛者たちを制圧し、牛耳れるようになった時。なおかつ、君の靭帯や筋肉が十分に完成しきったと医療チームがGOサインを出した時こそ――ドジャースの『背番号29』が世界の表舞台で真の解禁となる時だ。」
「現場もフロントも、すべてにおいて君のキャリアを最優先に考えている。全軍挙げて、お前を『神を超える存在』に育てるためにだ。」
ロバーツ監督が陽斗の手をガシリと握り、まっすぐに見つめて力強く説得した。
トッププロスペクトの運命は、通常、球団の都合によって安く消費されていくのがメジャーの常だ。しかし目の前の大人たちは、一人の16歳の肉体を守るために、これほどの熱量を注いでくれている。
陽斗の冷静な思考回路は、彼らが示した論理と愛情に、僅かな矛盾も感じなかった。
「……完全に理解しました。フロントの皆様の親切心と多大なるリスペクトに深く感謝します」
陽斗が椅子から立ち上がり、一切の不満もなく深い礼をして受け入れると、球団の中核を担う幹部たちはようやく安堵の吐息を漏らした。
(全力を抑え込んだ状態でマイナー最高峰を完全制圧か。……とても有意義な課題だ。完璧に制圧してやる。)
春の冷徹な宣告は、怪物にとってこの上なく理に適った成長の機会として授けられた。こうして、全米と日本を震撼させた16歳の怪物は、メジャーという華やかな光の世界に一度は手をかけながら、より切れ味鋭く、折れない刃を研ぐため、自ら暗闇に身を隠したのだった。
――――――
いい加減な補足。なぜベリンジャーが開幕マイナーなのか
現在、大リーグ機構において選手がFA権を獲得するには『メジャー在籍1年』を『6年分』満たす必要があるが、1年は『172日』のベンチ入りと定義されている。
仮にベリンジャーを開幕メジャーに入れてフル起用すれば、きっちり172日に到達し「1年」として計算される。だが、球団側が開幕から数週間だけ彼をあえてマイナーに落とし、172日にわずかに満たないように日数をズラして(操作して)昇格させれば――それは「0年目」扱いとなる。
そうすればドジャースは、未来のスーパースターの流出(FA権取得)を本来よりさらに一年長く引き延ばし、53万5,000ドル(約6,000万円)の安い給料のまま3~4年保有することができる。この『サービスタイムの操作』は、すべての球団が行う非情だが抗えないメジャーの権利でもある。




