第13話 野球ファンが失望した日
2017年3月21日火曜日、アメリカ西海岸の太平洋標準時刻は21時30分を回った頃、ロサンゼルスの夜空には、重く湿った霧雨のような空気が立ち込めていた。
WBC2017――。野球の世界一を決める国際大会において、王座奪還を至上命題としてアメリカラウンドへ乗り込んだ侍ジャパンの挑戦は、準決勝という壁の前にまたしても儚く散った。
舞台は、あの熱狂渦巻くドジャー・スタジアム。
薄暗くなったグラウンドにはアメリカ代表が勝利の余韻に浸る姿があり、一塁側ベンチでは日本選手たちの多くが、呆然と無念を噛みしめていた。前回2013年大会に続き、二大会連続ベスト4敗退。その言い逃れのできない結果は日本の野球界に深い断絶を突きつける結果となった。
試合後、敗戦の将はインタビューと記者会見に応じ、大会総括とともにこの大会限りでの代表監督退任を表明した。
そして会見後ロッカールームでは、一人静かに佇む姿があった。
侍ジャパンを率いる指揮官、中久保裕紀監督。目を血走らせ、深い徒労感に沈むその表情には、敗将としての重い疲労が刻まれていた。
(……メジャー組の投手を招集できなかった以上ここが限界だったのか……。いや、誰を責めることもできない。選手、スタッフ達は文字通り死力を尽くして戦い抜いたし、追加招集に応じてくれた青野には感謝しかない。だが……。)
中久保の脳裏にあるのは、埋めがたい圧倒的なフィジカルとパワー、そして……〝揃うことのなかった歯車〟に対するジレンマだった。
日本野球界において、スター選手は次々と海を渡りメジャーリーグへ挑戦する時代。それはとても素晴らしいことである反面、こういった国を背負う国際大会において、出場保険の承認が取れず、所属球団の制止又はシーズン前の調整を最優先とし、メジャー組が軒並み参加辞退を表明してしまう事態を引き起こしていた。事実、今大会において本来召集したかった日本人メジャーリーガーたちはアストロズの青野以外怪我や辞退で合流することが叶わず、文字通りの最強の侍にはほど遠いロースターで臨まざるを得なかった。
――最強の日本野球。世界一緻密で誇り高き、日本の野球。
屈指の投手力とスモールベースボールを掛け合わせたそのアイデンティティは、アメリカの本気や強国たちによる、物理的なパワーの前に崩れ去ろうとしていた。戦術やチーム力で補える範囲を凌駕するほどに、世界の個人のフィジカルは劇的に進化しているのだ。
(強くて速く、何者も寄せ付けない理不尽なまでの暴力的なスペック。……理屈を超越した怪物がいなければ、この先日本は二度と頂点には立てない……!)
フィジカルとパワーに押し切られ、日米の差を痛感するという痛切なジレンマ。思考の底へ沈みかけたときだった。中久保の網膜に突然――落雷のような鮮烈な残像がフラッシュバックした。
わずか数日前に行われたLAドジャースとの練習試合。背番号29、鮮やかなブルーのユニフォームを纏い、マウンドに君臨した怪物の姿だった。
(…………鳳陽斗。)
代表の打者6人を相手に完全制圧。
出塁はおろか、バットの芯で捉えることすら一切許されなかった悪夢のような時間。2イニング目には、空気を切り裂く閃光のようなボールに掠ることさえできなかった無残な3者連続の3球三振。
合計4つの奪三振。そしてスタジアムを沸かせた異次元の『105.6mph(169.94km/h)』という凄まじい数字――。それは、中久保たちがこれまで盲信し誇ってきた日本野球の常識をいともたやすくへし折る、絶望的な破壊力を孕んだスピードボールだった。
―――――なぜ、この最強の怪物が我々の代表チームにいなかったのか?
違う、チャンスはあった。中久保はそれを思い出すたびに、胸を焼くような強烈な後悔に苛まれていた。
――数ヶ月前。日本代表編成会議の場。
特に投手陣について、今回もメジャー組の招集が厳しいかもしれない。という重苦しい空気が漂う中、中久保は場を和ますための軽い話題の一つとして、こう切り出した。
「――ドジャース傘下の鳳くんはどうだろうか。」
もちろん当時の中久保自身も、鳳陽斗を代表級の選手などとは微塵も思っていなかった。単なる息抜きのネタ、場を和らげるための冗談めかした一言に過ぎなかった。
当然のように、その提案はあっさりと却下された。
しかし今、中久保は激しく後悔していた。
あのとき本気で推薦していれば——いや、自身の今後のキャリアを賭してでも押し通していれば、あの怪物をこの舞台に連れてこられたのではないかと。
しかし肩書と国内外の実績を偏重する空気の中で、「ま、2021、2025に期待としましょう」と誰かが笑い飛ばし、議論はそこで終わってしまった。16歳という若さといまだMLBでの登板も打席もゼロのマイナー選手という肩書きが、すべてを封じ込めたのだ。
なんと浅はかで、傲慢だったことか。
国を懸けた真剣勝負に挑むための、唯一無二の世界最上級の剣を、自分たちの小さな常識と物差しで、一顧だにせず捨て去った。あの少年に、侍ジャパンのストライプのユニフォームを着せ、マウンドと打席へ送り出していれば——―――
「……あれほどの怪物が、純然たる日本人の血を引いているのだからな……。しかも俺たちは、そんな至宝を……メジャー実績がないという理由だけで、自分たちの手で選考から弾いてしまった……。」
薄暗いロッカールームの片隅で、敗将の独白が虚しく反響した。
後悔と激しい自嘲を帯びたその声には――何れ世界の頂に君臨するだろう少年への、狂気じみた畏怖の念が静かに込められていた。
「いつか、あの怪物が二刀流として本物の完成を迎えた時……世界中が膝をつくことになるんだろうな……。」
野球ファンが酷く失望した、冷たく暗い夜だった。
しかし中久保の胸の奥底には、敗北の痛みとは対極にある奇妙な昂ぶりが、確かに熱を帯びていた。
日本の血筋を持ちながら日本を経由せず、今まさにアメリカで孵化しようとしている16歳の怪物が、やがてそう遠くない未来に、メジャーリーグを……。
——否、世界の頂点をもその足下に平伏させるだろうという、狂気に満ちた期待に。




