第12話 破滅呼ぶ覚醒
そして迎えた2回表。
マウンド上の鳳陽斗は、普段のポーカーフェイスをわずかに崩した。
瞳を強く閉じ、ぐっと溜めを作ってから大きく開眼する。深く息を吸い込み、息を止めた。
「――フッ!!」
強く、短く息を吐き出す。
ドジャースブルーのキャップから見える少し乱れた黒髪、やや切れ長で長い睫毛の優しい瞳。シャープな輪郭とわずかに引き結ばれた唇――少年らしさを残しつつ、冷たい気迫を宿したその顔は、サムライの4番と対峙し、自らの出力をもう一段階引き上げた。
先頭打者としてバッターボックスに入ったのは、日本が誇る不動の4番、筒鳥だった。
前年、日本球界で打率と本塁打の二冠王に輝いた最強バッター。圧倒的な長打力だけでなく、どんな球にも対応できる驚異のコンタクト力を併せ持つ左の強打者だ。しかし、その威圧感を前にしても、マウンド上の陽斗に気負いは微塵もなかった。
やや脱力したノーワインドアップのフォームから、滑らかに足が上がり、大きく踏み出す。強靭に鍛え上げられた左半身が壁となって身体の開きを極限まで堪え、溜め込んだエネルギーを一気に指先へと伝達させる。右腕から放たれたアウトローへの初球は、比喩ではなく文字通り〝白い閃光〟となってグランダルのミットを激しく叩き上げた。
――バァァン!!
キャッチャーミットが重い衝撃に弾き飛ばされそうになる。
直後、バックスクリーンの電光掲示板に白いデジタル文字が点灯した。『100.8 mph』――マイル表示から換算して、実に162.2km/h。ここでついに、陽斗は己の壁を打ち破り、実戦の場で自己最速記録を更新してみせた。
球場中から感嘆のどよめきが沸き起こる。しかし、それはここから彼が見せる殺戮の、ただの前触れに過ぎなかった。
ざわめきが収まらぬ間に投じられた2球目は『101.0mph』(約162.5km/h)を計測。慌てて手を出した筒鳥のバットが、無情にも空を切った。
続く3球目。アウトハイに唸りを上げて襲い掛かった『102.1mph』(約164.3km/h)の強烈なバックスピンで切り裂くフォーシームを前に、二冠王のバットは虚空をむなしく切り裂き、スイングアウト。異次元の球速による完全な3球三振に仕留められた。
もはや日本の打線云々ではなく、野球の物理次元が違いすぎた。続く5番、中武も100mph超える異次元のフォーシームに全く対応する事できず、3球で空振り三振。
強打者二人をまったく当てさせない圧倒的な投球でツーアウトを奪い、迎えた6番・青野のバッターボックス。珍しく高めのボール球を振らされて追い込まれ、迎えた3球目―――――
――――呼吸、体重移動、重心、捻り、リリースポイント、手首のスナップ――肉体のありとあらゆるパーツが、これ以上ない〝奇跡の最適解〟を生み出していた。
「――ぐうぅっ!!!」
腹の底から絞り出された咆哮が、マウンドに響き渡る。極限まで引き絞られた肉体の反発力を、余すところなくボールに叩き込んだ瞬間――弾丸が発射された。
————ズバァァン!!!
凄まじい破裂音がスタジアムを揺るがす。青野はバットを出したが、完全に振り遅れ空を切った。
三者連続3球で空振り三振。スリーアウトチェンジ。
観客の意識は、打者の敗北などよりも、電光掲示板に表示された信じられない〝三桁の数字〟へと一斉に釘付けになっていた。
『105.6mph』(169.94km/h)――。
大歓声を通り越し、あまりの超常現象にスタジアム全体が凍りついたように息をのんだ。メジャーリーグの長い歴史においても、あの〝人類最速の男〟A・チャップマンが記録した105.8mph(170.2km/h)に肉薄する、次元を超越した数字。まだ骨格も関節も成長過程にあるはずの16歳の少年が、いとも容易く叩き出した歴史的なスピードに、球場は地鳴りのような熱狂の渦に包み込まれた。
スリーアウトチェンジ。大歓声とスタンディングオベーションの中、マウンドを降りてダグアウト(自陣ベンチ)へと戻る陽斗。
しかし――ベンチの手すりにすがりつくようにして彼を出迎えたデーブ・ロバーツ監督の顔には、歓喜の色など微塵もなかった。ただ冷や汗とともに、底冷えするように血の気が引いていた。
(……なんて無茶苦茶な出力だ。105.6マイルだと……? いくら柔軟な肉体とはいえ、まだ成長途中だ……! あんな限界を超えた投球を続けていたら、肩と肘の靭帯がもたない……! 自分の動作の反動だけで断裂しかねない……!)
「Yes! Yes! Yes! ハルト! 最高の球だぞ!」
「はははっ! 見たかよ、日本のサムライ共のその顔を!」
沸き返るチームメイトたちが次々とハイタッチを求めて陽斗に群がる。興奮の坩堝と化したベンチの中で、陽斗だけが静かにベンチの定位置に腰を下ろした。だがその様子は明らかに普段と全く違っていた。
陽斗の視線はグラウンドのほうを向いたまま、焦点が完全にずれていた。いつも冷静沈着でベースボールマシーンとまで揶揄される陽斗の瞳孔は限界まで見開かれ、熱に浮かされたように虚ろに輝いている。日本のトップ選手たちとの極限の真剣勝負が呼び覚ました莫大なアドレナリンが、中枢神経を支配し、痛みも疲労も肉体のブレーキを完全に麻痺させていた――いわゆる〝上の空〟の状態だ。
ロバーツやグランダル、コーチたちは即座に異変を察知し、慌てて駆け寄る。
「おいおい……ハルト。大丈夫か?」
ロバーツとグレンデールが顔を覗き込むようにして声をかける。 陽斗はピクリと眉と瞼だけを動かし、ゆっくり瞬きをしてから監督を見上げた。
「……はい……大丈夫です。…………次も、いけます……。」
平坦で、何かの暗示にかけられたようなぼそぼそ声。
自分の右腕の繊維が、悲鳴を上げる一歩手前の悲惨な状態にあることを、アドレナリンに支配されたこの16歳の怪物は微塵も自覚していない。
その言葉の響きと狂気に触れた瞬間、ロバーツはゾッとして総毛立った。
「――――!!」
(次も、だと? 馬鹿を言うな…! 今すぐにアイツのエンジンを物理的に止めなきゃダメだ!)
これ以上のオーバードライブは、未来の殿堂入り選手を自壊させてしまう。首脳陣の保護責任者として、これ以上の続投など絶対に許されるはずもなかった。
ロバーツは毅然とした、有無を言わせぬ強い口調で命令を下す。
「……ハルト、素晴らしいピッチングだった……だが、ここで降板だ!」
「……え、待っ――待ってください!」
まだ球数制限には到達していない、とでも反論しようとしたのだろう。陽斗がハッとして何かを言いかけたが、それを制するようにロバーツは言い放つ。
「何を言おうが決定だ! DHの解除も無しだ! 野手としての出番も今日明日はダメだ! ……すぐに奥のトレーナー室へ入って腕と肩のアイシングに行ってくるんだ。さあ、すぐに行け!」
非情なまでのストップ命令。
それでも指揮官の強烈な眼差しを前に、陽斗はふらつくような動作で一度大きく息を吐き出すと、
「……はい。了解しました、Skipper.」
と熱病から少しだけ覚めたように呟く。
熱狂渦巻くグラウンドに後ろ髪を引かれながら、まだアドレナリンが燻り続ける体をなだめるように、陽斗は裏のトレーナー室へと消えていく。
日米の威信をかけた舞台の前哨戦に立ち、世界の次元を一変させてみせた短い〝閃光〟の時間。
この日、日本のサムライたちに向けられた圧倒的で絶望的なオーラはアメリカ、MLBはおろか、サムライ達にも強烈すぎる光として伝播していく事になるのだった。




