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氷の奇公子 ~変人王子の生存術~  作者: 佐藤湊
第2章 巡り合うには遠すぎて
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第38話 懐かしさ

 天幕を出た。


 周囲には、まだいくつもの焚き火が残っている。戦いに勝った兵士たちの笑い声や、酒を酌み交わす音も聞こえていた。


 それでも、今の俺にはその輪の中へ戻る気にはなれなかった。


 母上のこと。


 祖父のこと。


 学院での派閥争い。


 今日の戦争。


 そして――前世のこと。


 考え始めれば、いくらでも出てくる。


 俺は馬に跨がり、腰に剣を差し、クロスボウを手に取った。


 誰にも行き先を告げず、そのまま夜の森へ入った。


 何かをしたいわけではない。


 ただ、少しだけ静かな場所にいたかった。


 焚き火の明かりが遠ざかる。


 人の声も聞こえなくなる。


 やがて、周囲には木々と月明かりだけが残った。


「……少し遠くまで来るか」


 そう呟き、馬を歩かせる。


 しばらくして。


 風に混じって、かすかな声が聞こえた。


「……離して」


 俺は馬を止めた。


 男の声がいくつか。


 そして、女の声が一つ。


 俺はすぐに馬を降り、声のした方へ向かった。


 木々の向こうに、小さな開けた場所がある。


 そこには六人の男がいた。


 そして、その中央に一人の少女。


 淡い金色の髪。


 白い肌。


 澄んだ淡赤色の瞳。


 仕立ての良い外套。


 ただの平民ではない。


 おそらく、かなり身分の高い家の娘だ。


 男たちは少女に気を取られ、俺にはまだ気づいていない。


 なら――。


 わざわざ声をかける必要はない。


 俺はクロスボウを構えた。


 狙いを定める。


 一射。


 先頭の男が倒れる。


「な――」


 残った五人が振り返る。


 だが、もう遅い。


 俺は距離を詰め、剣を抜いた。


 一人。


 二人。


 三人。


 相手に考える時間を与えない。


 四人目。


 五人目。


 そして最後の一人が武器を捨てた。


「待て……!」


「降参か?」


「ああ!」


「なら動くな」


 男が頷く。


 俺は剣を収め、少女へ向き直った。


「怪我は?」


「……ありません」


 その声を聞いた瞬間。


 胸の奥に妙な感覚が走った。


 知らない声。


 初めて聞く。


 なのに――妙に懐かしい。


「名前は?」


 少女は一瞬だけ迷った。


 本当の名を名乗るわけにはいかない。


 グラーティア。


 それは王家の人間だと気づかれる可能性がある。


「……ティアです」


「ティアか」


「はい」


「俺はレノウィウス」


「レノウィウス……」


 ティアがその名前を繰り返す。


 そして、胸の奥が小さくざわついた。


 初めて聞いた名前のはずなのに、なぜか耳に馴染む。


「どうかしたか?」


「……いえ」


 ティアは首を振った。


「何でもありません」


 俺は周囲を見る。


 少し離れた場所に、騎士のものらしい武具が落ちている。


「護衛がいたのか?」


「……はい」


「今は?」


「……私だけです」


「そうか」


 それ以上は聞かなかった。


 状況を見れば、大体分かる。


 戦場から逃げてきた。


 途中で護衛を失った。


 そして盗賊に襲われた。


「それで、どうしてこんなところまで一人で来た?」


「戦場から逃げて……」


「それは分かる」


 少し声が低くなる。


「でも、護衛を失った状態で戦場の近くを一人で歩くのは危険すぎる」


「……でも」


「でも、じゃない」


 ティアが俯いた。


「……ごめんなさい」


「俺に謝る必要はない」


「……」


「お前を守るために戦った人間がいたんだろ」


「はい」


「なら、その人たちのためにも、自分の命を軽く扱うな」


 ティアは小さく俯いたまま、しばらく黙っていた。


 やがて。


「……怒らないでください」


 俺は一瞬、言葉を失った。


 その言い方。


 少し困ったように声を落として、相手の機嫌を窺うような話し方。


 妙に懐かしい。


 前世の記憶が、ほんの一瞬だけ蘇った。


 美咲。


 叱られた時に、少しだけ困った顔をして。


 「怒らないでよ」と言って。


 それでも最後には、こちらの言うことを聞いていた。


「……怒ってない」


「怒ってます」


「怒ってない」


「でも、怖い顔してます」


「……お前な」


 思わず、昔と同じような言葉が出た。


「そうやって甘えれば、許されると思うなよ」


「……じゃあ、許してくれないんですか?」


 まただ。


 その少し拗ねたような言い方。


 叱られているのに、ほんの少しだけこちらへ甘えてくる。


 俺は思わず目を細めた。


 美咲も――こんなふうだった。


「……分かった」


「本当?」


「ああ」


 ティアの表情が、ぱっと緩む。


 その変化があまりにも分かりやすくて、俺は思わず苦笑した。


「ただし、次からは本当に気をつけろ」


「はい」


「本当に?」


「本当です」


「今の間は何だ?」


「ちゃんと反省してます」


「ならいい」


 ティアは小さく笑った。


 その笑顔を見た瞬間、また妙な懐かしさが湧いた。


 だが、俺はもう追及しなかった。


 美咲に似ている。


 そう思ったところで、どうなるわけでもない。


 そもそも。


 美咲はもう、この世界にはいない。


 一方で、ティアもレノウィウスを見ていた。


 叱る時だけ少し低くなる声。


 厳しいことを言うのに、最後には必ずこちらを気遣うところ。


 そして、結局は少し甘いところ。


 その全部が、前世の湊を思い出させる。


「……変なの」


「何が?」


「いえ」


 ティアは小さく笑った。


「レノウィウスって、少し昔の知り合いに似ています」


「俺もだ」


「え?」


「お前の話し方が、昔の知り合いに似てる」


「……そうなんですね」


 ティアは胸の奥で、ほんの少しだけ思った。


 ――それにしても。


 近くで見ると、やっぱり格好いい。


 戦場帰りだというのに姿勢は崩れていないし、淡々と話す時の目つきも妙に様になっている。


 前世の湊とは全然違う。


 ……いや。


 湊も、将来こんなふうになっていたのだろうか。


 そんなことを考えた自分に、ティアは少しだけ頬を膨らませる。


 何を考えているのだろう、自分は。


 助けてもらった相手だから気になっているだけ。


 たぶん、それだけ。


 なのに。


 ちらり。


 もう一度、レノウィウスを見る。


 ――きゃっ!イケメン


想いは一途でもやっぱりイケメンにはときめくティアであった...


 するとレノウィウスがこちらを見る。


「どうした?」


「何でもありません」


「今、見てただろ」


「見てません」


「見てた」


「見てませんって」


 ティアは笑って誤魔化した。


 自分でも少し可笑しかった。


 こんな状況なのに。


 こんなに危険な一日を過ごしたのに。


 どうして自分は、この人の顔を見て少しだけ安心しているのだろう。


 そして同時に。


 どうして、こんなに心が落ち着かないのだろう。


「それで」


 レノウィウスが馬の方へ歩いていく。


「歩けるか?」


「はい」


「なら乗れ」


「……いいんですか?」


「戦場の近くに置いていくわけにはいかない」


「ありがとうございます」


 レノウィウスが手を差し出す。


 ティアはその手を取った。


 一瞬だけ。


 その手の温かさに、胸が跳ねた。


 ――あ。


 ティアは自分で自分に驚く。


 何を緊張しているのだ。


 ただ手を借りただけなのに。


「どうした?」


「な、何でもありません」


「そうか?」


「はい」


 ティアは慌てて馬へ乗った。


 レノウィウスも後ろへ跨る。


 馬が歩き始める。


 しばらく、二人とも何も話さなかった。


 だが、妙なことに沈黙は苦にならない。


 レノウィウスも思っていた。


 この少女は不思議だ。


 話し方も。


 仕草も。


 時折見せる表情も。


 なぜか前世の美咲を思い出させる。


 そしてティアもまた、同じことを思っていた。


 この人の声も。


 注意する時の口調も。


 少しだけ笑う時の表情も。


 湊を思い出す。


 だからこそ、二人ともそれ以上考えなかった。


 そんな偶然があるはずがない。


 互いの正体など、知る由もない。


 レノウィウスは、ティアがエクィトゥム王国第三王女グラーティアだとは知らない。


 ティアも、レノウィウスがアンティクイランド王国第一王子だとは知らない。


 そして何より。


 目の前にいる相手が、かつて自分の人生で最も近くにいた幼馴染だとも知らない。


              ◆


 森の奥へ進むと、やがて開けた場所を見つけた。


 戦場からも、それほど離れていない。


 それでも木々に囲まれているおかげで、戦場の明かりも人の気配もほとんど届かない。


「ここで休むか」


 俺が言うと、ティアは頷いた。


「はい」


 俺は馬から降りる。


「ここから先は、別々で寝よう」


「……そうですね」


 戦場から逃げてきた少女と、森の中で偶然出会っただけの男。


 同じ場所で眠る必要はない。


 少し離れた場所に、それぞれ寝る場所を決める。


 俺は木の根元に外套を敷いた。


「朝になったら戻る」


「分かりました」


「火は小さくしておけ。煙が目立つ」


「はい」


 それだけ言って、俺は横になった。


 眠れるとは思っていなかった。


 だが、疲労は思っていた以上に深かったらしい。


 目を閉じると、ほどなくして意識が落ちていった。


              ◆


 夜が深くなってから。


 ティアもまた、少し離れた場所で横になっていた。


 けれど、なかなか眠れない。


 今日一日の出来事が、あまりにも多すぎた。


 戦場。


 敗走。


 盗賊。


 護衛との別れ。


 そして――レノウィウスとの出会い。


 ティアは暗い森の中で、静かに彼の方を見る。


 距離は十分に離れている。


 それでも、不思議と心細くなかった。


 近くに、あの人がいる。


 それだけで安心する。


「……変なの」


 小さく呟く。


 初めて会ったはずなのに。


 どうしてなのだろう。


 話し方。


 叱り方。


 少し困った時の対応。


 どれも、湊を思い出させる。


 それなのに。


 近くにいると、妙に安心する。


 それだけではなく――。


 さっき手を取ってもらった時のことを思い出すと、少しだけ胸が騒いだ。


「……もう」


 ティアは小さく顔を覆った。


 何を考えているのだろう。


 あれだけ格好良ければ、ときめくのも仕方ない。


 ……いや。


 仕方ない、で済ませていいのだろうか。


 自分でもよく分からない。


 ただ、前世の湊を思い出すからこそ、余計に複雑だった。


「……そんなはずない」


 ティアは目を閉じる。


 湊はもういない。


 あの人が、ここにいるはずがない。


 だからこれは、ただの偶然。


 似た人に出会っただけ。


 そう自分に言い聞かせる。


 そして、いつの間にか眠りへ落ちていった。


              ◆


 翌朝。


 木々の間から差し込む朝日で、俺は目を覚ました。


「……朝か」


 身体を起こす。


 思っていたより、よく眠っていた。


 昨日の疲労が一気に押し寄せたのだろう。


 俺は立ち上がり、周囲を確認する。


「ティア」


「……起きてます」


 少し離れた場所から声が返ってきた。


「大丈夫か?」


「はい」


 ティアも身体を起こした。


 髪を整え、外套についた葉を払う。


「行くぞ」


「どこへ?」


「本隊へ戻る」


「……分かりました」


 俺は馬のところへ向かう。


「乗れ」


「はい」


 ティアが馬へ乗る。


 俺も後ろから跨った。


 朝の森を、馬がゆっくりと進んでいく。


 昨夜と同じ道。


 だが、朝になれば景色はまるで違って見えた。


 しばらくして。


「ねえ、レノウィウス」


「何だ?」


「昨日のこと……」


「うん」


「助けてくれて、ありがとう」


「気にするな」


 少し間が空く。


「それと」


「何だ?」


「昨日、怒らせてごめんなさい」


 俺は思わず笑った。


「まだ気にしてたのか」


「……ちょっとだけ」


「なら、今度から気をつけろ」


「はい」


 やっぱり。


 その返事の仕方。


 どこか懐かしい。


 それなのに。


 昨日の夜、近くで見た顔を思い出すと、どういうわけか少しだけ妙な気分になる。


 俺はそれを、単なる疲れのせいにした。


 今はただ、この少女を安全な場所へ連れていけばいい。


 森を抜ける。


 やがて、遠くに味方の軍旗が見えてきた。


「見えたぞ」


「……本当だ」


 ティアが小さく息を飲む。


 なぜか、彼女の声には警戒の色が混じっていた。


 しかし俺は襲われたばかりなのだから当然だと考え、


 俺たちは、朝の戦場へ戻っていった。


 互いの正体を知らないまま。


 互いの前世も知らないまま。


 それでも。


 どこか懐かしくて。


 どこか安心できて。


 そして――少しだけ、相手のことが気になりながら。

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