第30話 軍事侵攻開始
第一王子レノウィウスの西部国境視察は、予定通り進んでいた。
王都レクィエリアから西へ進み、エクィトゥム王国との国境に近づくにつれて、景色は少しずつ変わっていった。
街道沿いには国境交易を行う商人の姿が増え、軍用の荷馬車も目立つようになる。
国境線には複数の砦と監視所が築かれ、その周囲には長年この地域を守ってきた兵士たちが配置されている。
その中でも重要な位置を占めているのが、ガイウシア子爵領だった。
ガイウシア子爵家は、エクィトゥム王国との国境に領地を持つ国境貴族である。
これまでにも幾度となくエクィトゥム王国から侵攻を受け、そのたびに領軍を率いて国境を守ってきた。
今回の視察でも、レノウィウスはガイウシア子爵から国境防衛について詳しい説明を受けていた。
「この街道が、エクィトゥム側からの主要な進路になります」
地図の上を、ガイウシア子爵の指が動く。
「敵軍がこちらへ進む場合、まず第一砦が正面から受けることになります」
「第一砦が落ちた場合は?」
「その後方に第二砦があります。さらにその後ろにも防衛線を設けています」
レノウィウスは地図を見る。
「三段構えか」
「はい。国境防衛では、一つの砦を守り抜くことだけを考えてはいけません。突破された場合に、次で止められるようにしておく必要があります」
「エクィトゥムは、これまでにも何度も攻めてきたんだろう?」
「小規模な衝突まで含めれば、数え切れません」
ガイウシア子爵は淡々と答えた。
「その度に、向こうの方が兵力では上でした」
「それでも退けた」
「地形と砦があったからです」
子爵は地図上の山や川を指した。
「正面からぶつかれば、こちらが不利になります。ですから、敵の進路を絞り、動きを遅らせ、こちらが有利な場所で戦う。それがこの国境で生き残る方法です」
「なるほど」
レノウィウスは説明を聞きながら、実際の地形を頭の中で組み立てていた。
その時だった。
遠くから、馬の蹄音が響いた。
ガイウシア子爵が顔を上げる。
「……?」
次の瞬間。
砦の方角から、騎士が一人、猛然と駆けてきた。
馬は汗に濡れ、騎士自身も明らかに動揺している。
「子爵!」
「どうした!」
騎士が馬から飛び降り、その場で跪いた。
「監視所より緊急報告です!」
「何があった?」
「エクィトゥム軍と思われる部隊が、国境へ接近しています!」
ガイウシア子爵の表情が変わった。
「規模は?」
「まだ確認できておりません。しかし――」
騎士が息を整える。
「国境外の街道に、軍旗を掲げた部隊が多数確認されています」
レノウィウスは立ち上がった。
「エクィトゥム軍が?」
「はい」
「使節や外交官から、何か事前の通告は?」
「ありません」
その一言で、空気が変わった。
ただの演習ではない。
通常の国境警戒でもない。
国境へ軍を動かしている。
「砦へ伝えろ」
ガイウシア子爵が即座に命じた。
「第一防衛線を警戒態勢へ移行。監視所からの報告を途切れさせるな」
「はっ!」
「街道の民間人を後方へ退避させろ」
「承知しました!」
騎士が走り去る。
だが――。
さらに別の騎士が駆け込んできた。
「子爵!」
「今度は何だ!」
「第一砦からです!」
「言え!」
「エクィトゥム側の部隊が国境線を越えました!」
一瞬。
誰も言葉を発しなかった。
レノウィウスは地図を見る。
そして、ガイウシア子爵を見る。
「……もう越えたのか」
「はい」
子爵は短く答えた。
その顔から、先ほどまでの視察を受け入れる領主の表情が消えていた。
国境を守る軍人の顔だった。
「第一砦へ伝令」
「はっ!」
「敵軍の規模を確認。独断で突出するな。必要なら第一砦を放棄し、第二防衛線まで後退していい」
「しかし――」
「いい」
子爵が遮る。
「この国境を守ることが目的だ。砦一つに兵を捨てるな」
「はっ!」
次々と命令が飛ぶ。
兵士が走る。
騎士が馬へ飛び乗る。
砦へ向かう伝令が街道を駆ける。
さっきまで静かだった国境が、一瞬で戦場へ変わった。
「殿下」
ガイウシア子爵がレノウィウスを見る。
「この先は危険です。王都へお戻りください」
「まだ何も分かっていない」
「だからこそです」
子爵は即答した。
「ここから先は、視察ではありません。戦闘です」
レノウィウスは国境の向こうを見る。
遠くに土煙が上がっている。
次第に数が増える。
一つではない。
二つでもない。
長い。
途切れない。
軍勢が動いている。
「……随分、多いな」
レノウィウスが呟く。
ガイウシア子爵も無言でそれを見る。
これまでの国境衝突とは違う。
小規模な襲撃でもなければ、威嚇でもない。
明らかな軍事侵攻だった。
第一王子の視察中に、突然始まった侵攻。
しかし、王都にはまだこの事実が届いていない。
エクィトゥム王国がなぜ攻めてきたのか。
宣戦布告が行われたのか。
外交上、何が起きているのか。
その全てが、まだ分からない。
分かっているのは一つだけだった。
国境を越えてきた軍勢は、本物だ。
「殿下」
ガイウシア子爵が再び口を開く。
「すぐに王都へ早馬を出します」
「頼む」
「殿下は?」
レノウィウスは少し考えた。
「俺はここに残る」
「殿下!」
「ここまで来て、何も見ずに帰るわけにはいかない」
「ですが――」
「もちろん、無茶はしない」
レノウィウスは、戦場へ向かう騎士たちを見る。
「ただ、国境を守る人間が何をしているのか、それくらいは自分の目で見たい」
ガイウシア子爵はしばらく黙っていた。
そして、頭を下げる。
「……承知しました」
「ただし、殿下の安全は最優先にします」
「ああ」
その直後。
第一砦の方角から、低い鐘の音が響いた。
一度。
二度。
三度。
国境の異変を知らせる警鐘だった。
街道を行き交っていた商人たちが足を止める。
兵士たちが武器を手に取る。
砦の門が閉じられる。
そして、国境の向こうから――。
エクィトゥム王国軍が姿を現した。
レノウィウスは、それを黙って見つめた。
まだ王都からは何も届いていない。
宣戦布告の報も。
国王からの命令も。
ただ、敵軍だけが先に来た。
その時。
西部国境で、一つの戦争が始まった。




