第29話 国家存亡の危機
第一王子レノウィウスが西部国境の視察へ向かってから、しばらくが経った。
王都レクィエリアでは、普段と変わらない日々が続いていた。
王宮では政務が行われ、学院では授業が続き、領地へ戻っていた貴族たちも、それぞれ帰還の準備を進めている。
少なくとも――この時までは、そう見えていた。
変化が訪れたのは、ある日の午後だった。
「エクィトゥム王国から使節が到着しました」
報告を受けた国王は、わずかに眉をひそめた。
エクィトゥム王国から正式な使節が送られてくること自体は珍しいことではない。だが、この時期に、しかも第一王子が西部国境の視察へ出ている最中に到着するとなれば、話は別だった。
「目的は?」
「まだ判明しておりません。ただ、国書を携えているとのことです」
「……分かった。王宮へ通せ」
ほどなくして、エクィトゥム王国の使節団は王都レクィエリアへ入り、王宮へ案内された。
使節が持参した国書には、厳重な封蝋が施されていた。
国王はそれを受け取ったものの、その場で開くことはしなかった。
すでに夕刻が近い。
そして、まだ多くの領地貴族が王都へ戻ってきていなかった。
この状況で重要な外交案件を一部の重臣だけで処理することはできない。
「明日の御前会議で開く」
そう決められ、国書はそのまま保管された。
◆
翌朝。
王宮の御前会議室には、国王と王妃、宰相、各軍の重臣、そして王都へ戻っていた有力貴族たちが集められていた。
第一王子レノウィウスは、まだ西部国境の視察中で不在。
そのことを、この場にいる全員が把握している。
しかし、誰もその不在が、この日の会議にどれほど大きな意味を持つことになるとは考えていなかった。
「エクィトゥム王国より、正式な使節が参っております」
宰相がそう告げる。
使節団の代表が前へ進み、深く一礼した。
「エクィトゥム王国国王陛下より、アンティクイランド王国国王陛下へ」
国書が差し出される。
国王はそれを受け取り、封蝋を切った。
そして、書面へ目を通す。
一行。
二行。
三行。
読み進めるうちに、国王の表情が変わった。
「……宰相」
「はっ」
「読み上げろ」
宰相は国書を受け取り、広げた。
◆
「近年、エクィトゥム王国西方海域において、海賊による商船襲撃が相次いでいる」
会議室に静かな声が響く。
「これに対し、フェルゼンハルト公爵軍およびグランツェン辺境伯軍は共同して海賊討伐を実施した」
ここまでは、すでに報告されている内容だった。
「討伐作戦の過程において、海賊の拠点より、アンティクイランド王国中央軍で使用されているものと同型の武具が発見された」
その言葉に、貴族たちの間でざわめきが起こる。
だが、宰相は止めない。
「発見された武具は、鎧、剣、盾、その他の装備品に及ぶ」
「エクィトゥム王国は、これらの武具が偶然海賊の手に渡ったものとは考えていない」
「アンティクイランド王国が海賊に武器を供給し、エクィトゥム王国の海上交易を妨害しているものと判断する」
ざわめきが大きくなる。
「これらは、エクィトゥム王国に対する破壊工作であり、事実上の海上封鎖に等しい」
「このまま海賊による襲撃が続けば、港湾都市の商業活動だけでなく、王国全体の経済に重大な損害を及ぼす」
そこで、宰相は一度言葉を止めた。
会議室の全員が、その先を待っている。
「さらに――」
宰相は続きを読み上げた。
「エクィトゥム王国は、この件についてアンティクイランド王国へ正式な説明を求めたが、満足すべき回答は得られなかった」
そこで初めて、会議室の空気が変わった。
海賊への武器供給。
海上交易への妨害。
説明要求。
そして回答。
一つ一つを繋げれば、エクィトゥム王国が何を理由にしているのかが分かる。
「……そんな命令を我が国が出した事実はない」
誰かが呟いた。
「海賊への武器供給など、政府は承知していない」
「ならば、この武具は何だというのだ?」
別の声が返る。
「それだけで我が国の関与を証明できるわけではない」
「だが、向こうはそう判断した」
議場が一気に騒がしくなる。
国王は黙って使節を見る。
「使節」
「はい」
「これはエクィトゥム王国政府の正式な意思なのか?」
「はい。国王陛下の命を受け、参りました」
「交渉の余地は?」
使節は首を横に振った。
「私に交渉の権限は与えられておりません」
「……そうか」
使節は一礼した。
「この国書をお渡しすることが、私に与えられた使命です」
そして、そのまま一歩下がった。
◆
使節が退室する直前。
宰相が国書の最後の一節を読み上げる。
その一文だけが、会議室の静寂を切り裂いた。
「エクィトゥム王国は、アンティクイランド王国に対して宣戦を布告する。」
扉が閉じられた。
静かだった。
誰一人、すぐには口を開かなかった。
だが、その沈黙は長く続かなかった。
「……宣戦布告だと?」
「武具を理由に戦争を始めるのか?」
「海賊への供給など、我が国は認めていない!」
「認めているかどうかは向こうには関係ない。あちらはすでに決めたのだ」
声が次々に上がる。
けれど、議論をしている時間はもうない。
「陛下」
軍務卿が立ち上がった。
「第一王子殿下は現在、西部国境を視察中です」
「分かっている」
「エクィトゥム王国が本気で侵攻するのであれば、殿下の安全確保を最優先にすべきです」
「……西部国境へ急使を出せ」
「はっ」
「第一王子殿下へも、ただちに知らせろ」
「承知しました」
しかし、それだけでは済まなかった。
軍務卿が続ける。
「陛下。第一王子殿下の帰還を待っている時間はありません」
国王が顔を上げる。
「理由は?」
「エクィトゥム王国は帝国に次ぐ大国です。人口は八百万人に届くと推定されています」
誰もがその数字を知っている。
だが、次の数字を聞けば、その差は明確だった。
「対して、我がアンティクイランド王国の人口は約百二十万人」
およそ六倍以上。
同じ大陸の国家でありながら、国力には大きな差がある。
「まともに国境軍だけで受け止めることはできません」
軍務卿の言葉に、誰も反論しなかった。
国王もすぐに判断した。
「……総動員する」
「はっ」
「諸侯軍を招集」
「承知しました」
「中央軍は現役部隊だけでなく、予備役騎士も召集する」
「はい」
「民兵もだ」
次々と命令が下る。
「傭兵も可能な限り雇え」
「兵糧を確保しろ」
「武器、防具、矢、馬、輸送用の荷車も急いで集めろ」
「西部国境の城塞へ増援を送れ」
「王都の守備隊も再編する」
つい先ほどまで、王都は平穏だった。
それが、一枚の国書によって変わった。
御前会議に集まっていた領地貴族たちも、すぐに自領へ戻る準備を始める。
軍を率いる者。
家臣を派遣する者。
領民から兵を集める者。
兵糧や馬を確保する者。
王都の倉庫からも、次々と軍需物資が運び出されていく。
命令が伝わる。
鐘が鳴る。
伝令が走る。
街道へ馬車が出る。
アンティクイランド王国全体が、わずかな時間のうちに戦争へ向けて動き始めた。
◆
だが。
この戦争には、もう一つの問題があった。
第一王子が不在なのだ。
しかも、視察先はエクィトゥム王国との国境。
宣戦布告を受けた直後に、敵国との国境へ取り残される形になっている。
「第一王子殿下を、必ず無事に帰還させろ」
国王の命令が下る。
国境軍には、敵軍への警戒と同時に、王子の安全確保が命じられた。
それでも。
誰もが考えていた。
勝てるのか。
人口は、約六倍。
国力も、比較にならない。
兵力差がどれほどになるのかも、まだ分からない。
長期戦になれば、より人口の多い国家が有利になる。
海上交易を巡る問題から始まったはずの争いは、いつの間にか国家そのものの存亡を左右する戦争へと変わっていた。
王都レクィエリアの空に、戦時を告げる鐘が鳴り響く。
その音を合図に、各地へ動員命令が送られた。
諸侯軍。
中央軍の予備役騎士。
民兵。
傭兵。
動かせる戦力は、可能な限り集められる。
百二十万人の小国が、八百万人規模の大国を相手にする。
誰が見ても、それは王国の存亡を懸けた戦いだった。
そして――。
まだ誰も知らない。
この戦争が、二人の王子と、一人の王女の運命を大きく変えることになるなど。
アエテリア大陸歴一三一二年、夏。
こうして――。
エクィトゥム・アンティクイ戦争が始まった。




