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氷の奇公子 ~変人王子の生存術~  作者: 岸田減税
最終章 第二次ルイーナエ大戦
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第72話 王の在り方

ヴァルは、目の前の光景を理解できずにいた。


 国王を討ち取るために振り抜いた剣が、銀髪の青年ではなく、突然飛び出してきた少女を斬りつけていたのである。しかも、その少女は国王を庇うように身体を割り込ませており、苦しそうに顔を歪めながらも、なお目の前の青年を守ろうとしていた。


「……王妃?」


 ヴァルは、ようやくその言葉を口にした。


 金髪に紅色の瞳。帝国軍が事前に得ていた特徴的な髪色を思い返せば、目の前の少女がアイティクィランド王国の王妃ティアであることは明らかだった。彼女は国王のすぐ傍らに立ち、ヴァルの剣撃を受けながらも、倒れることなく彼を守ろうとしていたのである。


 しかし、ヴァルにとって、それ以上に衝撃的だったのは、自分が斬りつけた相手が王妃だったという事実だけではなかった。目の前にいるのは、どう見てもまだ若い少女だった。戦場に身を置き、敵国の国王を討ち取るために剣を振るったとはいえ、その刃が一人の少女を傷つけてしまったという現実は、ヴァルの想像を超えていた。


 先ほどまで、彼は国王を討ち取れば英雄になれると確信していた。幾度となく危険な任務を任され、死にそうになりながらも生き残ってきた自分にとって、敵国の王を討ち取るという功績は、これまでの苦労を報いるものになると考えていたのである。しかし、実際に剣を振るった結果、目の前で苦しんでいるのは国王ではなく、その身を挺して彼を庇った少女だった。


 自分は何をしてしまったのか。


 そう考えた瞬間、ヴァルの胸に強烈な罪悪感が押し寄せた。彼女が敵国の王妃であることは理解している。それでも、目の前で苦しそうに顔を歪めている少女を見れば、先ほどまで抱いていた功名心など、たちまち消え失せてしまった。


「くそっ……!」


 ヴァルは思わず声を漏らしたが、後悔している余裕すら与えられなかった。


 国王と王妃の周囲にいたアイティクィランドの護衛騎士たちが、すぐさまこちらへ反応したからである。先ほどの攻撃によって王妃が負傷したことを確認した騎士たちは、ただちにヴァルたちを敵と認識し、剣を構えて接近してきた。彼らの動きには一切の迷いがなく、国王と王妃を守るためならば、目の前の帝国兵を一人も逃がすつもりはないという強い意志が感じられた。


「退け! 敵が来るぞ!」


 ジェルの声が響いた。


 ヴァルは、その声に反応して周囲を見渡した。いつの間にか、二人の小隊はアイティクィランドの護衛騎士たちに包囲されかねない状況に置かれていた。正面には国王と王妃を守る騎士たちがおり、背後では第二歩兵連隊とアイティクィランド軍の交戦が続いている。しかも、第一歩兵連隊の大部分は先ほどの氷によって戦死したと考えられ、これ以上の援軍を期待することも難しかった。


 国王を討ち取るどころか、このままでは自分たちまで全滅しかねない。


 そう理解した途端、ヴァルの身体から血の気が引いていった。目の前の騎士たちは、先ほど大通りで帝国軍の小隊を蹴散らしていた者たちであり、通常の歩兵が正面から対抗できる相手ではない。さらに、彼らが守ろうとしているのは、先ほど大規模な氷を生み出した国王である。再び同じような魔法を使われれば、今度こそ逃げることさえできなくなる可能性があった。


「ヴァル、ここはもう無理だ! 今すぐ逃げるぞ!」


 ジェルの言葉に、ヴァルは即座に頷こうとした。しかし、周囲を見渡した彼は、すぐに別の問題に気づいた。二人の小隊が身を隠していた家屋から大通りへ飛び出したため、今から全員で後退しようとしても、護衛騎士たちの攻撃を避けながら安全に離脱することは難しい。少数ならば家屋の裏手へ回り込んで逃げられる可能性はあるが、二十人全員がまとまって移動すれば、それだけ敵に発見される危険も高くなる。


 しかも、ジェルの小隊には、既に護衛騎士たちが接近していた。ヴァルの小隊もまた、敵の攻撃を受ける危険にさらされており、全員が一斉に逃げようとすれば、その途中で誰かが取り残される可能性は十分にあった。


「ジェル、どうするつもりだ?」


 ヴァルが尋ねると、ジェルは周囲を一瞥した後、険しい表情を浮かべた。


「俺がここに残る。お前は逃げろ」


「何を言っているんだ!」


 ヴァルは思わず声を荒らげた。


 ジェルが言っていることの意味は、すぐに理解できた。誰かが敵を引きつけなければ、残った兵士たちが逃げることは難しい。そこでジェルが殿を務めれば、ヴァルと少数の兵士たちが家屋の陰を利用して離脱する時間を確保できるかもしれない。しかし、それは同時に、ジェルが生きて戻れる可能性をほとんど捨てることを意味していた。


「お前一人で残ったところで、どうにもならないだろう!」


「それでも、誰かが残らなければ全員がやられる。今の状況が分からないわけじゃないだろう?」


「だからといって、お前を置いていけるか!」


 ヴァルは、ジェルの判断を受け入れられなかった。これまで何度も同じ戦場を生き延び、互いに助け合ってきた親友を、今度は自分の命を守るために置き去りにしなければならない。そのことを考えるだけで、胸の奥が締めつけられるようだった。


 だが、ジェルは迷っていなかった。


「ヴァル。ここで全滅したら、俺たちがこれまで生き延びてきた意味までなくなる。少なくとも、お前だけでも逃げ延びろ」


「ジェル……」


「それに、国王を討ち取る機会はまだあるかもしれない。だが、今ここで全員が死んだら、そんな機会を考えることすらできなくなる」


 ジェルはそう告げると、剣を構え直した。護衛騎士たちは既に目前まで迫っており、これ以上悠長に話し合っている時間は残されていなかった。彼の表情には恐怖がないわけではなかったが、それ以上に、残された時間を自分が何に使うべきかを理解している者の覚悟が表れていた。


 ヴァルは、ジェルを説得しようとした。しかし、相手が既に決意していることは、その表情を見れば明らかだった。ここで無理に連れて逃げようとすれば、結局は二人とも護衛騎士たちに捕まり、命を落とすことになりかねない。


「……分かった」


 ヴァルは、苦渋の末にそう答えた。


 それがジェルを見捨てることだと分かっていても、彼にはほかに選択肢がなかった。親友を置いて逃げるという決断は、これまでの戦場で経験したどの危険な判断よりも重いものだったが、今はその選択をしなければならなかった。


「すまない、ジェル……」


「謝るな。お前は生き延びろ。それだけでいい」


 ジェルは、いつものように笑ってみせた。しかし、その表情がどこか無理をしているように見えたことを、ヴァルは忘れられなかった。


 ヴァルは少数の兵士たちに合図を送り、家屋の裏手へ向かうよう指示した。先ほど身を隠していた際、周囲の構造を確認していたことが幸いし、裏口と思われる場所があることは把握していた。そこから逃げれば、大通りを通らずに敵の包囲を抜けられるかもしれない。


 しかし、ヴァル自身はすぐには動けなかった。目の前ではジェルが護衛騎士たちを引きつけるために前へ出ようとしており、その姿を見ていると、どうしても足が止まってしまう。


「早く行け!」


 ジェルの怒鳴り声が響いた。


 その声に、ヴァルはようやく身体を動かした。彼は振り返ることをためらいながらも、少数の味方とともに家屋の裏手へ向かい、やがて裏口らしき場所から外へ出た。背後では、ジェルが殿として護衛騎士たちと交戦を始めていたが、ヴァルにはその様子を見届ける余裕はなかった。


 ジェルを置き去りにしたという事実が、いつまでも胸に残っていた。これまで何度も命の危険をともに乗り越えてきた親友を、最後の最後で見捨ててしまったのである。どれほど自分に言い聞かせようとも、その罪悪感が消えることはなかった。


 それでも、ヴァルは逃げ続けた。今ここで捕まれば、ジェルが稼いでくれた時間まで無駄になってしまう。彼が殿として残った意味を失わせないためにも、少なくとも自分は生き延びなければならなかった。


 そして、ヴァルは一つの考えに行き着いた。


 ジェルの無念を晴らすためには、国王を討ち取るしかない。


 先ほどは王妃を斬りつけてしまい、国王を討つことには失敗した。さらに、親友を置き去りにして逃げるという決断までしなければならなかった。しかし、だからこそ、ここで何も成し遂げずに終わるわけにはいかなかった。ジェルが自分を逃がすために命を懸けたのなら、その犠牲を無駄にしないためにも、国王を討ち取るという目的を果たさなければならない。


 ヴァルは、胸の奥に残る罪悪感を押し殺しながら、前を向いた。少数の味方とともに、敵の目を避けて逃走を続ける。その先にどのような危険が待ち受けているのかは分からないが、今はただ生き延び、次の機会を得ることだけを考えていた。


_______________________________________


 俺は、目の前で起こったことを理解できずにいた。


 ティアが飛び出してきたことも、その身体が俺を庇うように重なったことも、すべてが一瞬の出来事だった。先ほどまで目の前にいた帝国兵が剣を振り抜き、次の瞬間にはティアが俺の前に立っていた。何が起きたのかを理解するよりも早く、彼女の身体が大きく傾き、その表情が苦痛に歪んだのである。


「……ティア?」


 自分の口から出た声が、ひどく遠く聞こえた。


 ティアは、俺を守るように抱き込んでいた。ティアの背中には、帝国兵の振るった剣による傷が生じており、その身体から力が抜け始めていた。それでも、ティアは俺を庇う姿勢を崩さず、何とか俺の身体を支えようとしていたのである。


 俺は、その姿を目の前にしても、すぐには動けなかった。


なぜ、ティアが俺を庇わなければならなかったのか。そして、目の前で何が起きているのか。頭の中でいくつもの疑問が浮かんでいたが、そのどれにも答えを出すことができなかった。


 つい先ほどまで、俺たちは帝国軍の進撃を遅らせるために平民街へ向かい、第一軍団とともに戦場へ出ていた。魔法によって帝国軍の大軍を押し返し、後退する部隊を援護するために、できる限りのことをするつもりだった。だが、その戦闘の最中に、ティアが俺の目の前で負傷するなど、考えてもいなかった。


「陛下と王妃殿下をお守りしろ!」


 護衛騎士の声が響き、ようやく俺は周囲の状況へ意識を向けた。先ほどまで家屋の陰に潜んでいた帝国兵が、ティアを斬りつけた後も、その場にとどまっている。さらに、少数の帝国兵が殿として残り、護衛騎士たちと交戦を始めていた。


 しかし、俺には帝国兵の動きなど、どうでもよかった。


 目の前でティアが負傷している。その事実だけが、頭の中を支配していた。


「ティア?」


「陛下! 王妃殿下の傷を確認いたします!」


 第一軍団の護衛騎士が、急いで俺たちのもとへ駆け寄ってきた。その声を聞いて、俺はようやくティアの身体を支える手に力を込め直した。今は怒りに任せて行動するよりも、彼女を助けることが先決だった。


「すぐに手当てをしろ! 傷の状態を確認して、直ちに第二防壁へ後退させろ!」


「承知しました!」


 護衛騎士たちは、ティアを支えながら応急処置に取りかかった。背中の傷を確認し、これ以上負担をかけないように慎重に身体を支える。周囲の兵士たちも、帝国軍の動きを警戒しながら、彼女を安全に移動させるための準備を始めた。


 俺は、その様子を見守りながら、ティアの顔を見つめていた。彼女は苦痛に顔を歪めていたが、それでも俺が無事であることを確かめようとしているようだった。俺は何か声をかけようとしたものの、言葉がうまく出てこなかった。


 彼女を守るつもりでここまで来たはずだった。第一防壁からの後退を成功させるため、俺自身が魔法で援護し、少しでも多くの兵士を救おうとしていた。ところが、実際にはティアが俺を庇い、傷つくことになってしまったのである。


 その事実は、俺にとって何よりも重かった。


「陛下、応急処置は完了しました。王妃殿下を第二防壁内へ後退させます」


 護衛騎士の報告を受け、俺は小さく頷いた。ティアをここにとどめておくことはできない。傷の状態を詳しく確認するためにも、まずは安全な場所へ移す必要があった。


「頼む。絶対に無事に送り届けろ」


「はっ!」


 護衛騎士たちは、ティアを慎重に支えながら後退を始めた。俺は、その姿が第二防壁へ向かう道の向こうへ消えていくまで、目を離すことができなかった。


 彼女が無事にたどり着くことを願いながらも、胸の奥では怒りが消えることなく渦巻いていた。ティアが傷ついたのは、俺が帝国兵に襲われたからだ。彼女が俺を庇わなければ、少なくとも今のような傷を負うことはなかったかもしれない。そのことを考えるたびに、自分自身への怒りもまた強くなっていった。


 俺は、彼女の身体を支えながら呼びかけた。だが、ティアは苦しそうに顔を歪めたまま、すぐには返事をしなかった。背中に生じた傷がどの程度のものなのか、俺には正確に判断できない。先ほどまで俺を庇っていた彼女の身体が、今は明らかに弱々しく感じられた。


 その瞬間、ようやく俺は理解した。


 ティアは、俺を守るために剣を受けたのだ。


 俺が帝国兵に襲われた瞬間、彼女は迷うことなく間に飛び込み、その身を挺して俺を庇った。俺が無事でいられたのは、彼女が自分の身を危険にさらしてまで守ってくれたからにほかならない。


 その事実を理解した途端、胸の奥で何かが爆ぜた


 目の前でティアが傷つけられた以上、俺は帝国軍に対して冷静な判断を保つことは難しかった。


「許さない」


 俺は、思わず言葉を漏らした。


 目の前にいる帝国兵は、ティアを斬りつけた男を含めて、すべて敵だ。


 誰一人として許さない。


 俺の視界に入ること


 生きて家に帰ること


 この世に存在すること


 そのすべてを


 俺は、再び帝国兵へ視線を向けた。


「……死んでも許すな。」


 俺の声は、自分でも驚くほど低くなっていた。


 周囲にいた護衛騎士たちが、こちらへ視線を向ける。俺は彼らを見渡し、続けて命じた。


「ここに残っている帝国兵は、一人残らず殺せ。そして、原形をとどめぬまで斬り刻め」


 それは、国王として発する命令でありながら、これまでの俺の命令とは明らかに異なるものだった。通常であれば、敵の状況や戦場全体の利益を考慮し、必要以上の犠牲を避けるための判断を下す。しかし、今の俺には、そのような冷静さを保つ余裕がなかった。


 ティアを斬りつけた帝国兵に対する怒りが、周囲にいる兵士たちへも向けられていた。目の前で彼女が傷つき、苦しんでいる。その原因となった帝国軍を、今ここで許すつもりはなかった。


「陛下、敵の一部は後退を始めております!」


「追え! ここから逃がすな!」


 俺は、報告を受けると間を置かずに命じた。後退する敵を追撃すれば、こちらにも損害が生じる可能性がある。しかし、今の俺にとって、敵兵を逃がすことは許容できないことだった。ティアが負傷したという現実を前にして、敵の損害を抑える必要性を考える余裕は、もはや残されていなかった。


「陛下、第二防壁への後退を優先すべきではありませんか!」


 護衛騎士の一人が、慎重に言葉を選びながら進言した。確かに、第一防壁からの後退作戦はまだ完了しておらず、平民街での戦闘も続いている。ここで敵を追撃することに兵力を割けば、後退する部隊への援護が不十分になる危険もあった。


許せない気持ちがある。


だが、それ以上にティアが心配だ。


そして、自分の判断で戦況をこれ以上悪くすることは王として許されない。


「分かった。後退を優先する。」


俺には覚悟が足りなかったのだろう。


ティアという、何にも代えがたい大切な幼馴染を、恋人を、戦友を危険にさらす覚悟が。


王族は国の機能としてあるべきなのだ。


国の為、民の為


しかし、俺は国の機能になるか、人間でいるか、どっちつかずだったのだ。


俺はどうあるべきなのだろうか?

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