第71話 感触
帝国南西部方面軍第二師団第一歩兵連隊に所属する少尉ヴァルは、親友のジェルとともに、それぞれの小隊を率いて市街地を進んでいた。
第二師団が戦場へ移動させられて以来、第一歩兵連隊には常に不運がつきまとっていた。先陣を任されることになった彼らは、第二師団が進出するたびに最も危険な場所へ送り込まれ、既に幾度となく敵の激しい抵抗に直面している。これまでの戦闘でも少なくない犠牲を出しており、ヴァル自身も何度か命の危険を感じる場面を経験していた。ようやく生き残ったと思えば、次の戦場でも真っ先に敵と交戦させられるのだから、第一歩兵連隊の兵士たちにとって、戦争が始まって以来、安息の時間などほとんどなかった。
今回も例外ではない。第一防壁の城門へ進出した第一歩兵連隊は、アイティクィランド軍の激しい抵抗を受けながらも、どうにか城門を確保し、守備兵を撃退することに成功していた。もっとも、それは彼らが圧倒的な戦力をもって敵を一方的に押し潰したという意味ではない。相手も必死に抵抗しており、城門をめぐる戦闘は双方にとって大きな負担となっていた。ヴァルとジェルも、それぞれの小隊を率いて戦闘に参加し、部下たちを率いながら、何とか目前の敵を退けたのである。
ようやく城門を突破した第一歩兵連隊は、そのまま市街の大通りへ進出していた。第二師団の先陣を任されている以上、後続部隊より先に前進し、敵の抵抗を排除しなければならない。ヴァルたちは疲労を抱えながらも、周囲への警戒を怠らず、敵の姿を探しながら大通りを進んでいた。
「まったく、どうして俺たちばかりがこんな目に遭うんだろうな」
ジェルが周囲を警戒しながら、隣を歩くヴァルに愚痴をこぼした。彼もまた、これまでの戦闘で幾度となく危険な状況に陥っており、今回もまた先陣を任されたことに不満を抱いているようだった。
「それを俺に聞かれても困る。第二師団の先陣を任されるような連隊に所属しているんだから、諦めるしかないだろう」
「お前は随分と諦めがいいな。これだけ何度も死にそうになっているんだから、もう少し文句を言ってもいいと思うんだが」
「文句を言ったところで、俺たちの任務が変わるわけでもないだろう。それに、こうして生きているだけでも十分に幸運だと思うぞ」
ヴァルはそう答えながら、少しだけ肩をすくめた。実際、これまでの戦闘で生き残れたこと自体、運に恵まれていたといっても過言ではない。第一歩兵連隊の先陣という立場は、敵と最初に接触する機会が多いだけでなく、後続部隊の進出を支えるために危険な場所へ投入されることも多かった。そのような任務を繰り返しながら、今もなおジェルと並んで歩いていられることは、彼自身にとっても不思議なくらいだった。
「まあ、確かにそうだな。お互い、よく生き残っているものだ」
ジェルも苦笑した。二人は同じ戦場で何度も命の危険にさらされてきたが、それでも今日まで生き延びてきた。いつどこで敵の攻撃を受けるか分からない以上、油断はできないものの、こうして冗談を交わせる程度には余裕を取り戻していた。
しかし、その余裕は長く続かなかった。
大通りを進んでいたヴァルは、前方の様子に違和感を覚えた。暗闇に包まれた街路の向こうから、何かがこちらへ迫ってくるように見えたのである。最初は帝国軍の後続部隊か、あるいは戦闘の混乱によって生じた何らかの光だと思ったが、目を凝らすにつれて、それが単なる灯火ではないことに気づいた。
碧色、水色、そして赤色の光が、夜の大通りの向こう側から近づいてきていた。光の正体までは分からないものの、それらは明らかにこちらへ向かっているように見える。ヴァルは進軍の足を緩め、前方を注意深く観察した。周囲にいた兵士たちも、彼の変化に気づいたのか、次第に警戒を強めていく。
「おい、ヴァル。あれは何だ?」
ジェルもまた、前方から接近する光に気づいたようだった。彼は目を細めながら、ヴァルと同じ方向を見つめていた。
「分からない。だが、普通の兵士が持つ灯火とは違うように見えるな」
ヴァルはそう答えたものの、光の正体を判断するには情報が不足していた。碧色や赤色の光が何を意味するのかは分からず、あれが敵の兵力なのか、あるいは何らかの魔法によるものなのかも判然としない。ただ、前方から迫るものが、これまで大通りで交戦してきた敵兵とは異なる可能性があることだけは明らかだった。
やがて、その光の一つがはっきりとした姿を現した。水色の光をまとった兵士たちが、こちらへ向かって進んできていたのである。その動きや身なりから、ヴァルは彼らがアイティクィランド軍の騎士であると判断した。これまで交戦してきた歩兵とは異なり、騎士たちは周囲の兵士とは明らかに違う存在感を放っていた。
「アイティクィランドの騎士だ!」
ヴァルは、そう判断するや否や、すぐさまジェルに目配せした。正面から迎え撃つには、相手の数も実力も分からない。ここまでの戦闘で疲弊している小隊を、正体の分からない騎士たちへ不用意に突撃させるわけにはいかなかった。
「ジェル、全員を近くの家屋へ退避させろ!正面から戦うのは危険だ!魔術で強化された剣で斬り裂かれるぞ!」
「分かった。お前の小隊も一緒に隠れさせるぞ」
二人はそれぞれの小隊に指示を出し、素早く周囲の家屋へ兵士たちを退避させた。ヴァルの小隊十人とジェルの小隊十人、合わせて二十人が、付近の家屋へ身を隠す。敵の騎士たちが大通りへ進出してくる前に、全員が姿を隠すことができたのは幸運だった。ヴァルは家屋の陰から大通りの様子をうかがい、敵の動きを確認しながら、部下たちに不用意に姿を見せないよう指示した。
ほどなくして、後方から進んできた別の小隊が、大通りへと姿を現した。彼らはヴァルたちが退避したことを知らず、そのまま前進を続けていたようだった。水色の光をまとったアイティクィランド騎士たちが、その小隊を視認すると、間を置かずに一気に距離を詰めた。
大通りで正面から対峙した両者の間に、激しい戦闘が始まった。帝国軍の小隊は抵抗を試みたものの、騎士たちの進撃を食い止めることはできず、次々と隊列を崩されていく。敵の騎士たちは勢いを緩めることなく前進を続け、帝国兵はその圧力に耐えきれず、散り散りになっていった。
家屋の陰からその様子を見ていたヴァルは、思わず息をのんだ。もしも、先ほどまでの勢いのまま大通りを進み続けていれば、自分たちもあの小隊と同じように騎士たちの攻撃を受けていた可能性が高い。正体の分からない光に気づき、すぐに身を隠した判断は、結果として小隊全員の命を救うことにつながったのである。
「危なかったな。あのまま進んでいたら、俺たちも同じ目に遭っていたぞ」
ジェルが、小声でヴァルに話しかけた。彼もまた、目の前で繰り広げられた戦闘を見て、自分たちが退避した判断の重要性を理解していた。
「ああ。まさか、あれほど強い騎士が出てくるとは思わなかった。少なくとも、あの連中と正面から戦うのは避けたほうがよさそうだ」
「まったくだ。今日ばかりは、お前の判断に感謝しておくよ」
「いつも感謝してくれてもいいんだぞ」
ヴァルが冗談交じりに返すと、ジェルも小さく笑った。自分たちの小隊が無事であることに安堵し、ひとまず危険を避けられたことを互いに喜んでいたのである。もっとも、敵の騎士たちが依然として大通りにいる以上、ここで安心しきることはできなかった。それでも、少なくとも目の前の危険からは逃れられたと、二人は考えていた。
ところが、その直後だった。
大通りの向こうから、これまでに経験したことのない異変が起こった。
ヴァルが異変に気づいたときには、既に大通りの空気が変わり始めていた。周囲の音が奇妙に遠のき、肌に触れる空気が急激に冷たくなったように感じられる。最初は夜風によるものかと思ったが、次第にそれが単なる気温の変化ではないことを理解した。大通りの石畳が白く染まり、城門へ続く道のあちこちに氷が広がり始めたのである。
その変化は、瞬く間に大通り全体へと広がっていった。城門付近にいた帝国兵も、先ほどまで交戦していた兵士たちも、そして大通りに立っていた騎士たちまでもが、突如として発生した氷に包まれていく。兵士たちが逃げる間も、状況を確認する間もなく、城門から大通りにかけての広範囲が、凍てついた光景へと変わってしまった。
ヴァルは、その光景を目の当たりにして、しばらく言葉を失った。つい先ほどまで激しい戦闘が繰り広げられていた大通りが、今では一面の氷に覆われている。そこにいた帝国兵たちも例外ではなく、氷に閉じ込められたまま動きを止めていた。
その規模は、ヴァルがこれまで見てきた魔術とは明らかに異なっていた。武具を強化したり、戦闘を補助したりするために用いられる魔術とは違い、目の前で起こった現象は、大通りそのものを覆い尽くすほどのものだった。これほど大規模な氷を一瞬で生み出せる存在など、帝国軍の中にもそう多くはいないはずだった。
「おい、ヴァル……。今のは何だ?」
ジェルの声には、隠しきれない驚きがあった。彼もまた、目の前の光景が通常の魔術では説明できないことを理解していたのだろう。
「分からない。だが、あれは魔術でも何でもないのは事実だ。」
ヴァルはそう答えながらも、目の前の光景から視線を逸らせなかった。城門から大通りにかけての広範囲が凍りつき、そこにいた帝国軍の兵士たちは、ほとんど身動きが取れない状態になっている。先ほどまで自分たちが進んできた道も、今では氷によって覆われており、第一歩兵連隊の兵士たちがどうなったのかさえ、正確には判断できなかった。
しかし、この様子を見れば、第一歩兵連隊はほぼ全滅したと判断してもおかしくはない。先陣を任された連隊は、城門を突破して大通りを進んでいたが、突如として発生した氷によって、その大部分が戦闘不能に陥った可能性が高かった。ヴァルとジェルの小隊が家屋に身を隠していたため、少なくとも二十人はこの異変を免れていたものの、連隊全体の状況は絶望的だった。
それでも、ヴァルは氷の発生源を確認しようと、大通りの様子を慎重にうかがった。これほど大規模な現象を引き起こした以上、その中心には何らかの原因が存在するはずだった。氷が広がった方向や、その周辺で起こっている変化を確認していくうちに、彼は一人の人物へと視線を向けることになった。
そこにいたのは、銀髪と碧眼を持つ青年だった。
その容貌は、帝国軍がこれまでに得ていた情報と一致する。アイティクィランド王国の第三代国王、レノウィウス・ゲンス・デイ・アイティクィランド。目の前の青年こそ、帝国軍が攻略を進めるレクィエリアを守る王だった。
ヴァルは、その姿を確認した瞬間、先ほどの異変の正体を理解した。大通りを覆い尽くすほどの氷を生み出したのは、目の前にいる国王に違いない。通常の魔術では到底説明できない現象を目の当たりにした以上、彼が特殊な力を持っていると考えるほかなかった。
しかも、その国王は、ヴァルたちが身を隠している家屋のすぐ隣で足を止めた。距離は決して遠くなく、家屋の陰からわずかに様子をうかがえば、その姿を確認できる位置だった。ヴァルは思わず息を潜め、周囲にいる兵士たちにも、物音を立てないよう目配せした。
目の前にいる青年が、帝国軍の攻略対象である国王だという事実は、ヴァルにとって大きな意味を持っていた。これまで先陣を任され続け、何度も命の危険にさらされてきた第一歩兵連隊にとって、敵国の国王を討ち取ることができれば、戦局を大きく動かす戦果となる。それだけでなく、国王を討ち取った兵士として、帝国軍の中でも特別な功績を認められる可能性があった。
しかし、ヴァルはすぐに飛び出そうとはしなかった。目の前の国王が、先ほどの大規模な氷を生み出した張本人であるならば、迂闊に接近することは危険だった。相手がどのような能力を持っているのか、どれほどの範囲に影響を及ぼせるのか、まだ十分に把握できていない。何より、家屋の陰に身を隠している二十人の兵士たちを危険にさらすことは避けなければならなかった。
その一方で、帝国軍の後続部隊も、徐々に大通りへと進出してきていた。第二歩兵連隊が到着し、アイティクィランド軍との交戦を開始したのである。先ほどの氷によって大通りの状況が一変したため、後続部隊にとっても予想外の事態だったはずだが、それでも彼らは進撃を止めず、目前の敵に向けて攻撃を開始した。
帝国軍とアイティクィランド軍の間で再び戦闘が始まると、大通りの状況は一層複雑になった。第二歩兵連隊が前進することで、国王の周囲にも新たな動きが生じていく。ヴァルは、その様子を家屋の陰から観察しながら、いつ行動すべきかを慎重に見極めていた。
国王の周囲にいる兵士たちは、第二歩兵連隊の進出に対応するため、次第にそちらへ意識を向け始めていた。ヴァルは、その変化を見逃さなかった。敵の注意が分散し、国王の周囲に一瞬の隙が生まれたのである。
今しかない。
そう判断したヴァルは、ジェルに目配せすると、家屋の陰から一気に飛び出した。ジェルもそれに続き、二人の小隊も後に続いて大通りへと躍り出る。目標は、すぐ隣に立つアイティクィランド国王レノウィウスだった。
ヴァルは、目の前の青年へ一気に距離を詰めた。先ほどの大規模な氷を生み出した人物である以上、相手の能力を軽視することはできない。それでも、今この瞬間であれば、第二歩兵連隊との交戦によって生じた隙を突き、国王へ攻撃を仕掛けることができると判断したのである。
これまで何度も命の危険を経験し、先陣として危険な任務を任され続けてきたヴァルにとって、敵国の国王を討ち取る機会など、そう何度も巡ってくるものではない。もし、ここで国王を討ち取ることができれば、第一歩兵連隊の壊滅的な損害を埋め合わせるほどの功績になるかもしれない。何より、自分自身が国王を討ち取った英雄として名を残せるのだと、ヴァルは確信した。
剣を振り抜いた瞬間、何かが視界の端から飛び出した。
次の瞬間、ヴァルの剣には、国王とは別の誰かを斬りつけた感触が伝わっていた。目標としていた銀髪の青年ではない。突然、間に割り込んできた何者かを剣が斬りつけたのだ。
ヴァルは、とっさに目の前へ視線を向けた。
そして_
そこにいたのは、金髪の髪を持ち、紅色の瞳を苦しそうにゆがめている一人の少女だった。




