第70話 出撃
王宮司令部に、第一防壁からの緊急報告が届いたのは、夜間の後退作戦が始まって間もない頃だった。
報告を携えた使者は、第一防壁で発生した事態を伝えるため、休む間もなく王宮司令部へ駆け込んできた。既に負傷兵の後退は完了し、予備兵力として温存していた第一軍団二千二百人、士官候補生部隊千百人、傭兵団の半数に当たる三千五百人、合計六千八百人が第二防壁に展開している。さらに、第四軍団と第二軍団も貴族街の軍港への後退を終えており、残る第三軍団、第五軍団、第八軍団、第九軍団、そして傭兵団の残り半数を後退させれば、第一防壁の放棄は完了するはずだった。
ところが、後退作戦の決行を迎えた夜、帝国軍が突如として中央から膨大な兵力を投入し、状況は一変した。さらに、傭兵団の一つが裏切り、第一防壁の城門を開いたことで、帝国軍は本来ならば守備側が維持しているはずの防衛線へ進出することが可能になったのである。第三軍団と第五軍団は、開かれた城門を奪い返そうとしたものの、帝国軍の大部隊は既に城門へ到達し、城壁にも梯子を掛けて侵入を開始していた。
第一防壁に残された部隊が、城門と城壁の双方から押し寄せる帝国軍に対処することは、もはや困難になりつつあった。
「陛下、第一防壁より緊急報告です!」
使者の声を聞いた俺は、手元の資料から顔を上げた。報告の内容が通常の戦況報告とは異なることは、その声色からも明らかだった。使者は息を整える間もなく、第一防壁で発生した事態を説明し始めた。
「敵中央に大規模な帝国軍が出現し、さらに傭兵団の一つが裏切って城門を開きました。第三軍団と第五軍団が城門の奪還を試みておりますが、帝国軍は既に城門へ到達しております。加えて、敵は城壁にも梯子を掛け、兵士の侵入を開始しております!」
報告を聞き終えた俺は、第一防壁の状況を頭の中で整理した。
負傷兵は既に後退を終えている。予備として残していた第一軍団と士官候補生部隊、傭兵団の半数も第二防壁に展開済みであり、第四軍団と第二軍団も貴族街の軍港まで後退している。残る部隊の後退さえ完了すれば、第二防壁に兵力を集中させることができるはずだった。
しかし、今回の敵の行動によって、その計画は根底から崩れかけていた。敵中央から現れた大部隊は、第一防壁に残る部隊を圧迫し、裏切った傭兵団が開いた城門から帝国軍が進入しようとしている。さらに、城壁にも梯子が掛けられたことで、城門を封鎖したとしても敵の侵入を完全に阻止できる状況ではなくなっていた。
第一防壁に残る第三軍団と第五軍団は、既に殿を務めるために交戦を続けている。しかし、敵の圧倒的な兵力を前に、両軍団がいつまでも戦線を維持できる保証はなかった。第八軍団と第九軍団、傭兵団の残り半数についても、後退が遅れれば敵の進出によって退路を脅かされる可能性がある。
このまま第一防壁での戦闘を続けさせれば、残された部隊の後退そのものが失敗しかねない。かといって、今すぐ全軍を後退させれば、帝国軍が一気に追撃し、第二防壁へ向かう部隊に大きな損害を与えることになるだろう。
「第三軍団と第五軍団には、直ちに後退命令を出す。第一防壁に残る各部隊にも、第二防壁への後退を急がせろ!」
俺は、報告を受けた直後に命令を下した。これ以上、第三軍団と第五軍団を城門にとどめておくわけにはいかない。両軍団の損害が増え続ければ、後退するための余力そのものが失われてしまう。既に城壁への侵入も始まっている以上、第一防壁を守り続けることに固執する意味はなかった。
「直ちに使者を派遣いたします!」
「急げ。敵の侵入を食い止めることよりも、残存部隊を第二防壁まで後退させることを優先しろ!」
「はっ!」
命令を受けた者が、すぐさま使者の派遣に取りかかった。
しかし、俺はそれだけでは不十分だと考えていた。第三軍団と第五軍団が後退を開始したとしても、帝国軍がそのまま追撃を続ければ、第一防壁から第二防壁までの間で大きな損害が発生する可能性がある。特に、城門に到達した帝国軍が自由に進出できる状況になれば、後退する部隊が態勢を整える前に敵の追撃を受けることになるだろう。
そこで必要になるのが、後退する部隊を守るための時間だった。
第一防壁を放棄する以上、敵がその内部へ侵入すること自体を完全に防ぐ必要はない。重要なのは、帝国軍の進撃を可能な限り遅らせ、残された兵力が第二防壁へ後退するための時間を確保することだった。そのためには、第一防壁から後退する部隊が単に逃げ延びるだけでなく、敵の進撃を遅らせるための戦闘を継続する必要がある。
「第三軍団と第五軍団のうち、なお戦闘を継続できる兵力を集めろ。第一軍団も加え、平民街で市街戦を行い、帝国軍の進撃を遅らせる!」
俺の命令に、司令部にいた者たちの視線が集まった。
平民街での市街戦によって時間を稼ぐという方針は、第一防壁での戦闘が既に限界に達しつつある状況を踏まえたものだった。城門や城壁での防衛が維持できなくなった以上、戦闘の場所を移し、敵の進撃を可能な限り遅らせる必要がある。第三軍団と第五軍団の余力がある兵力に、第二防壁で待機していた第一軍団を加えることで、後退する部隊を援護するための戦力を確保するのである。
第一軍団は、これまで予備兵力として温存していた二千二百人が既に第二防壁に展開していた。負傷兵を含めて消耗した第一防壁の部隊とは異なり、比較的余力のある兵力を投入できることは、後退作戦を立て直すうえで重要だった。
もっとも、第一軍団を第二防壁から動かすことは、後方に確保している予備兵力を減らすことにもつながる。敵が第二防壁へ到達したときの備えを考えれば、軽々しく動かせる戦力ではない。しかし、第一防壁に残る部隊が帝国軍の追撃によって壊滅するような事態を避けるためには、今この場で時間を稼ぐ必要があった。
「陛下、第一軍団を前線へ投入するとなれば、第二防壁の守備兵力が減少します。第一防壁から後退する部隊を援護するためとはいえ、予備を失うことは危険です」
その意見には、十分な合理性があった。第二防壁は、これからの籠城戦を継続するための重要な防衛線であり、そこに展開している兵力を無闇に減らすわけにはいかない。第一軍団を投入することで後退する部隊を救えたとしても、次の防衛線に敵が迫ったとき、必要な兵力が不足していれば意味がない。
だが、第一防壁に残された部隊を見捨てることも、俺にはできなかった。第三軍団と第五軍団が既に敵の大軍と交戦している以上、両軍団が後退を開始するだけでは、敵の追撃を防ぐことは困難だろう。まして、城門と城壁の双方から帝国軍が侵入している状況では、後退路を確保するための時間を稼ぐことが急務だった。
「第一軍団を動かさなければ、後退中の部隊は敵の追撃にさらされることになる。今ここで必要なのは、第二防壁に兵力を残すことだけではない。残された部隊を無事に後退させ、次の防衛戦に参加できる兵力を確保することだ」
「しかし、陛下が第一軍団まで投入されれば、第二防壁の守備に支障を来すおそれがあります」
「それでも、今は第一防壁からの後退を優先する。第一軍団には平民街での遅滞戦闘を命じる。後退する部隊が第二防壁へ到達するまで、帝国軍の進撃を可能な限り遅らせるのだ」
俺は、反対意見を受け止めながらも、判断を変えるつもりはなかった。第一軍団の投入には危険が伴うが、現在の状況で後退を成功させるためには、何らかの形で帝国軍の進撃を遅らせなければならない。市街戦であれば、少なくとも第一防壁の城門や城壁での戦闘に固執するより、敵の進撃を遅らせるための戦闘を継続する余地がある。
そして、俺には、もう一つ考えていることがあった。
俺とティアが直接、平民街での戦闘に参加することだ。
魔術は貴族の基本的な技能であり、戦場でも多くの兵士が武具強化魔術を使用できる。しかし、俺とティアが扱える魔法は、それとは異なるものだった。現在、実際に魔法を使用できるのは、帝国側も含めて極めて限られている。俺たち二人が魔法によって援護すれば、通常の兵力だけでは十分に対応できない帝国軍の進撃を遅らせられる可能性がある。
平民街での市街戦は、兵士たちにとって決して容易な戦闘ではない。既に第一防壁で長時間の戦闘を続けてきた兵士たちは疲弊しており、敵の大軍を前にして、さらに戦闘を続けることは大きな負担になる。そのような状況で、俺とティアが魔法による援護を行うことができれば、少しでも味方の負担を軽減し、後退する部隊のための時間を確保できるかもしれない。
「私も第一軍団とともに平民街へ向かう。ティアも同行し、魔法によって援護する」
そう告げた瞬間、司令部の空気が変わった。
「陛下、それはなりません!」
最初に反対した者だけでなく、周囲にいた者たちも次々と異議を唱えた。国王である俺と王妃であるティアが、敵軍の進撃を受けている平民街へ自ら赴くことは、王国の統治という観点からも危険が大きすぎる。仮に戦闘で俺たちが失われれば、軍事的な損失だけでなく、王国の政治そのものにも深刻な影響が及ぶことになる。
「陛下と王妃殿下が前線に赴かれる必要はございません。魔法による援護が必要であれば、第一軍団の指揮官に状況を報告させ、司令部から指示を出すことも可能です」
「その方法では、戦場の状況に即した対応が難しい。現場の状況を把握し、必要な場所で直接援護する必要がある」
「しかし、帝国軍は既に第一防壁への侵入を開始しております。平民街も安全ではありません。お二人が赴かれれば、敵の攻勢に巻き込まれる危険があります」
反対する者たちの懸念は理解できた。国王と王妃が前線へ赴くことは、通常であれば避けるべき判断である。特に、今回のように敵が城門と城壁の双方から侵入している状況では、平民街での戦闘がどのように展開するかも予測しきれない。護衛の兵力を確保することも容易ではなく、敵の進撃によって退路が脅かされる可能性もあった。
それでも、俺は平民街へ向かうことを決めていた。
第一軍団を投入する以上、彼らには後退する部隊を守るという重大な任務を担わせることになる。さらに、第三軍団と第五軍団も、城門での戦闘を続けながら後退を進めなければならない。こうした状況で、俺とティアが司令部にとどまり、ただ報告を待っているだけでは、実際に戦場で起きていることに対応するには限界があった。
もちろん、王と王妃が戦場に赴くことによって生じる危険は小さくない。しかし、今はその危険を理由にして、後退する部隊への援護を諦めるわけにはいかなかった。
「第一軍団とともに平民街へ向かう。異論があることは承知しているが、この決定は変えない」
俺は、反対する者たちに向けてそう告げた。王宮司令部における俺の決定は、最終的な命令として扱われる。いかに重大な危険が伴うとしても、国王としての判断を下した以上、これを覆すつもりはなかった。
ティアもまた、俺の決定を受け入れていた。彼女は俺と同じく魔法を扱うことができる。その力を必要とする状況で、俺だけが現場へ赴き、彼女を王宮司令部に残す理由はなかった。二人で援護に向かうことによって、魔法を用いた支援を行えるだけでなく、現場での状況に応じて互いに対応することもできる。
「私も同行します。第一軍団とともに平民街へ向かい、魔法で援護します」
ティアの言葉に、再び反対の声が上がった。しかし、彼女もまた王妃としての立場を理解したうえで、自らが戦場へ赴くことを決めていた。今回の後退作戦が失敗すれば、第一防壁に残る部隊はもちろん、第二防壁に展開している兵力にも重大な影響が及ぶことになる。そうした事態を避けるために、自分たちが持つ力を使うことにためらいはなかった。
「陛下、どうか再考をお願いいたします。第一軍団の派遣だけでも危険を伴う状況であり、陛下と王妃殿下が直接出陣されるとなれば、王宮司令部としても万一の事態に備えなければなりません」
「万一の事態に備える必要があることは理解している。だからこそ、王宮司令部は引き続き第二防壁の防衛と各部隊の後退を統括しろ。俺たちが平民街へ向かうからといって、司令部の役割がなくなるわけではない」
俺は、王宮司令部の指揮を維持することも重要だと考えていた。俺とティアが前線へ向かうからといって、王宮司令部の機能を停止させるわけにはいかない。むしろ、俺たちが戦場へ赴くことで、司令部は後退作戦全体の管理に専念しなければならなくなる。
第一防壁から後退する第三軍団や第五軍団、第八軍団、第九軍団、傭兵団の状況を把握し、第二防壁に集結している部隊の配置を管理することは、王宮司令部に残る者たちの重要な任務だった。貴族街の軍港へ後退した第二軍団と第四軍団についても、引き続き状況を把握しておく必要がある。さらに、第一軍団が平民街へ向かうことで、第二防壁に残される兵力の運用も改めて考えなければならなかった。
そのすべてを、現場の判断だけで進めるわけにはいかない。王宮司令部は、各部隊から届く報告を集約し、全体の状況を把握し続ける必要がある。
「各部隊の後退状況を継続して報告させろ。第三軍団と第五軍団については、後退命令を受け取ったことを確認し、可能な限り速やかに第二防壁へ向かわせる。第八軍団、第九軍団、傭兵団についても、後退を急がせろ」
「承知しました」
「第一軍団は、俺とティアが同行する。平民街で市街戦を行い、帝国軍の進撃を遅らせる。必要な準備を整えろ」
命令を受けた者たちが、出陣に必要な準備を進め始めた。反対意見はなお残っていたものの、俺の決定が覆ることはなかった。ティアもまた、出陣の準備を整えるために動き始めていた。
第一防壁では、既に帝国軍が城門と城壁の双方から侵入している。第三軍団と第五軍団が殿を務める状況は、決して長く続けられるものではない。だからこそ、俺たちは一刻も早く平民街へ向かい、後退する部隊を援護する必要があった。
王宮司令部を出る前に、俺は最後にもう一度、第一防壁から届いた報告を確認した。開かれた城門には帝国軍が到達し、城壁にも梯子が掛けられている。第一防壁の防衛は既に崩壊しつつあり、灯火による欺瞞も、もはや敵の進撃を止める手段にはならない。
それでも、第三軍団と第五軍団は、後退する部隊を守るために戦い続けていた。両軍団が城門で時間を稼いでいる間に、残る部隊は第二防壁へ向かわなければならない。彼らが後退を完了できるかどうかは、これからの戦闘にかかっていた。
俺とティアは、第一軍団とともに王宮司令部を後にした。向かう先は平民街であり、そこで帝国軍の進撃を遅らせるための市街戦が始まろうとしている。第一軍団の兵士たちとともに現場へ向かい、俺たちは魔法による援護を行うことになる。
既に第一防壁での防衛は限界を迎えつつあり、敵の侵入を完全に阻止することは難しい。それでも、第二防壁への後退を成功させるためには、帝国軍の進撃を少しでも遅らせなければならなかった。
後退する部隊を守るため、俺たちは平民街へ向かった。第一防壁での戦闘が終わっていない以上、これから始まる市街戦もまた、後退作戦の一部として続いていくことになる。




