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氷の奇公子 ~変人王子の生存術~  作者: 岸田減税
最終章 第二次ルイーナエ大戦
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第69話 地獄の後退作戦

第一防壁の放棄と第二防壁への後退計画は、既に最終段階に差しかかっていた。


 これまでの戦闘によって多数の負傷兵が発生していたが、彼らは既に後方へ搬送されており、第一防壁に残された部隊の後退を妨げる要因は取り除かれていた。また、第二防壁には、予備兵力として温存していた第一軍団二千二百人と士官候補生部隊千百人、さらに傭兵団の半数に当たる三千五百人が展開を終えており、その総兵力は六千八百人に達していた。


 一方、第四軍団と第二軍団についても、既に貴族街の軍港への後退を完了していた。これによって、第一防壁に残されている部隊のうち、組織的な後退を必要とするものは大幅に減少していた。


 残るのは、第三軍団、第五軍団、第八軍団、第九軍団、そして傭兵団の残り半数だけである。これらの部隊を夜闇に紛れて後退させることができれば、第一防壁の放棄は完了する予定だった。


 後退計画は、帝国軍の目を欺くことを前提としていた。第一防壁に配置されていた兵士たちをすべて撤退させれば、帝国軍は守備兵がいなくなったことを察知し、直ちに第二防壁へ進出してくる可能性がある。そのため、アイティクィランド軍は兵士の後退と並行して、城壁に灯火を残すことで、あたかも第一防壁に守備兵が配置され続けているかのように見せかけようとしていた。


 すでに後退した部隊の兵力を考えれば、第一防壁の守備に固執するよりも、第二防壁に兵力を集中させるほうが、今後の戦闘を継続するうえでは合理的だった。特に、これまでの戦闘で消耗した部隊を第一防壁にとどめ続ければ、帝国軍の攻勢によって後退そのものが不可能になる危険があった。だからこそ、アイティクィランド軍は、第一防壁を放棄するという苦渋の決断を下し、限られた兵力を次の防衛線へ移すことを優先していたのである。


 後退作戦の決行を迎えた夜、第三軍団軍団長カシウス・ゲンス・デイ・アイティクィランドは、周囲の状況を確認しながら、残された各部隊の後退状況を把握していた。第一防壁での戦闘は既に長時間に及んでおり、兵士たちの疲労は極限に達していたものの、今回の後退が計画どおりに進めば、残された兵力を第二防壁へ集結させることができる。彼にとっては、これ以上第一防壁に固執して兵力を失うことを避けるのが最優先だった。


 そのため、カシウスは各部隊からの報告を受けながら、後退の進捗を慎重に確認していた。第三軍団と第五軍団は、後退する部隊を守るために、なおも第一防壁の各所で帝国軍への警戒を続けている。第八軍団と第九軍団、そして残る傭兵団についても、夜闇に紛れて順次後退することになっていた。いずれの部隊も、予定どおりに行動できれば、第一防壁に残された兵力を大きく損なうことなく撤退できるはずだった。


 しかし、その計画は、帝国軍の予想外の動きによって崩れ始める。


 最初に異変が確認されたのは、敵中央の戦線だった。それまで続いていた戦闘の様子とは明らかに異なり、帝国軍の大部隊が突如として姿を現したのである。暗闇の向こうから次々と現れる兵士たちの数は膨大であり、これまでの戦闘で疲弊していたアイティクィランド軍にとって、容易に対処できるものではなかった。


 その報告を受けたカシウスは、直ちに各部隊の状況を確認した。敵中央から新たな大部隊が出現したという事実は、それまでの後退計画を見直さなければならないほど重大なものだった。既に第二防壁へ後退した兵力は戻せないうえ、後退途中の部隊が敵の進出に巻き込まれれば、予定していた撤退そのものが崩壊しかねない。


 さらに、状況を悪化させる報告が続いた。


 傭兵団の一つが裏切り、第一防壁の城門を開いたというのである。


 カシウスは、その報告を受けてすぐに事態の重大さを理解した。帝国軍の大部隊が敵中央から進出してきただけでも、後退中の部隊にとっては深刻な脅威となる。それに加え、傭兵団の裏切りによって城門が開かれたとなれば、敵は本来であれば守備側が維持しているはずの防衛線を通過できるようになる。これまで後退を遅らせるために築いてきた防衛態勢は、その前提を失いつつあった。


 第一防壁には、まだ第三軍団や第五軍団をはじめとする部隊が残されている。彼らが後退を終える前に帝国軍が城門から侵入すれば、部隊の後退路が脅かされることは避けられない。さらに、敵中央から現れた大部隊が城門へ到達すれば、後退を続ける部隊は前方と後方の両方から圧迫されることになる。


 カシウスは、直ちに王宮司令部へ事態を報告する必要があると判断した。後退計画の前提が崩れた以上、王宮司令部がこの事態を把握していなければ、第二防壁に展開している部隊や貴族街の軍港へ後退した部隊にも、適切な対応を取らせることができない。


「王宮司令部へ使者を出せ。敵中央に大規模な増援が出現したこと、傭兵団の一つが裏切り、城門を開いたことを、直ちに報告しろ」


「はっ!」


 命令を受けた者が、速やかに使者の派遣に取りかかった。カシウスはその様子を確認すると、再び第一防壁の状況へ意識を向けた。王宮司令部へ報告を届けることは重要だが、それだけで目前の危機が解決するわけではない。第一防壁に残された部隊をどう動かすかについては、現場の責任者である彼自身が決断しなければならなかった。


 開かれた城門には、裏切った傭兵団が立ちふさがっていた。彼らは帝国軍の侵入を助けるだけでなく、城門を奪い返そうとするアイティクィランド軍の進出も阻んでいたのである。これに対し、第三軍団と第五軍団は城門を取り戻すために交戦を開始した。


 城門を確保できれば、帝国軍の進入を少しでも遅らせることができる。さらに、後退中の部隊が第二防壁へ向かうための時間を確保できる可能性もあった。しかし、裏切った傭兵団が立ちふさがっている以上、第三軍団と第五軍団は、城門を奪い返すために正面から戦わなければならない状況に置かれていた。


 カシウスは、両軍団が城門をめぐる戦闘を続けるなか、後退を予定している部隊の状況を確認していた。第八軍団と第九軍団、そして傭兵団の残り半数が、まだ第一防壁からの後退を終えていない以上、ここで敵に押し込まれるわけにはいかなかった。第三軍団と第五軍団が時間を稼ぐことができれば、残された部隊が後退を完了できる可能性は残されている。


 しかし、帝国軍の進出は予想以上に速かった。敵中央から現れた膨大な数の兵士たちは、城門へ向けて進み続けており、アイティクィランド軍が城門を奪い返す前に、その目前へ到達してしまったのである。


 報告を受けたカシウスは、現在の状況を改めて整理した。城門では傭兵団と第三軍団、第五軍団の交戦が続いている。その一方で、帝国軍の大部隊は既に城門に到達しており、いつ城門から侵入してきてもおかしくない状況だった。これ以上戦闘が長引けば、城門を取り戻すどころか、第三軍団と第五軍団そのものが敵の攻勢にさらされる危険が高まっていく。


 それでも、カシウスは後退する部隊を見捨てるわけにはいかなかった。第三軍団がここで退けば、帝国軍が城門から一気に進入し、後退中の部隊へ追撃をかける可能性がある。すでに第二防壁へ移動した六千八百人の兵力を維持するためにも、残る部隊を可能な限り後退させなければならなかった。


 彼は、第三軍団を城門の殿として残すことを決断した。帝国軍の進入を阻止するため、第三軍団は大きな損害を覚悟してでも城門を守り、後退する部隊が第二防壁へ到達するまで時間を稼ぐ必要があったのである。


 この決断には、第三軍団が相当な損害を受ける危険が伴っていた。敵は膨大な兵力を投入しており、城門に到達した帝国軍が本格的な攻勢を開始すれば、第三軍団だけでそれを長時間食い止めることは容易ではない。だが、ここで第三軍団が後退を優先すれば、第一防壁に残る部隊の撤退はさらに困難になる。カシウスは、その危険を理解したうえで、第三軍団を殿として残すことを選んだ。


 さらに、第五軍団も第三軍団への協力を決めた。城門をめぐる戦闘を第三軍団だけに任せれば、敵の大軍を前にして防衛線を維持することは難しい。第五軍団が協力することで、少しでも帝国軍の進出を遅らせ、後退する部隊が第二防壁へ向かう時間を確保しようとしたのである。


 両軍団が城門で交戦を続けるなか、帝国軍はついにその目前へと到達した。裏切った傭兵団によって開かれた城門は、今や帝国軍の進入を許しかねない危険な場所となっていた。第三軍団と第五軍団がどれほど抵抗を続けても、敵の大軍が到達した以上、城門の封鎖だけで事態を収拾することは難しくなっていた。


 一方、アイティクィランド軍は、城壁に灯火を残すことで、第一防壁にまだ守備兵が残っているように帝国軍を欺こうとしていた。第一防壁を放棄する意図を敵に悟らせなければ、後退が完了するまでの時間を稼げると考えていたのである。しかし、城門での交戦が激しくなるなか、帝国軍は城壁にも梯子を掛け始めた。


 城壁の各所で梯子が立てられ、帝国兵が次々と登り始める。これまで城壁に残してきた灯火は、守備兵が配置されているように見せかけるためのものだったが、敵が実際に梯子を掛けて侵入を開始した以上、その偽装だけでは意味をなさなくなっていた。


 城壁に灯火を残して敵の目を欺いたとしても、敵が梯子を掛けて兵士を送り込んでくれば、守備兵の姿を隠し続けることはできない。仮に城門を封鎖することができたとしても、城壁から帝国兵が侵入してくるのであれば、第一防壁を維持することは困難だった。


 カシウスも、その事実を理解していた。城門だけを守り抜けば後退できるという状況ではなくなったのである。帝国軍は城門に到達し、さらに城壁からも侵入を開始していた。第三軍団と第五軍団が城門にとどまって抵抗を続けたところで、城壁を突破された敵をすべて食い止めることはできない。


 それでも、両軍団が後退すれば、帝国軍は城門からも城壁からも一気に進出できるようになる。そうなれば、まだ第一防壁に残っている第八軍団や第九軍団、そして傭兵団の後退は、さらに厳しいものとなるだろう。城門と城壁の双方から帝国軍が侵入を始めた以上、第一防壁に残された兵力をすべて無事に後退させることは、もはや容易ではなかった。


 カシウスは、城門へ向かう帝国兵と、城壁を登る敵兵の双方を確認しながら、第三軍団と第五軍団が置かれている状況を見極めていた。第三軍団は既に殿を務めることを決めており、第五軍団もその支援に加わっている。両軍団がここで戦い続けることになれば、大きな損害を避けることはできない。しかし、後退する部隊を第二防壁へ送り届けるためには、少しでも時間を稼ぐ必要があった。


 王宮司令部への使者は、既に出発している。後は、報告を受けた王宮司令部がどのような判断を下すかにかかっていたが、その回答を待つ余裕は、もはや残されていなかった。


 開かれた城門へ帝国軍が到達し、城壁にも梯子が掛けられたことで、第一防壁の防衛は崩壊し始めていた。灯火による欺瞞も、城門の封鎖も、敵の侵入が始まった以上、後退する部隊を守るための十分な手段にはならない。


 それでも第三軍団と第五軍団は、後退する部隊を守るために戦い続けるしかなかった。帝国軍の大軍を前にして、両軍団がどれほど長く持ちこたえられるかは分からない。それでも、ここで時間を稼ぐことができなければ、第一防壁に残る部隊の後退そのものが失敗しかねなかった。


 こうして、当初は夜闇に紛れて静かに進められるはずだった後退作戦は、裏切りと帝国軍の急進によって、激しい交戦を伴うものへと変わった。既に後退を終えた部隊を除き、第一防壁に残された兵士たちは、帝国軍の侵入が進むなかで、なおも後退の機会を探さなければならなかった。


 第三軍団と第五軍団が殿を務めることになったことで、後退作戦は本当の意味で地獄の様相を呈し始めたのである。

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