第34話 浮浪子の情報網
「……ここ、どこだ?」
見事に道に迷った。
王宮から出ることなど滅多にない俺にとって、平民街は想像以上に複雑だった。
大通りから一本裏へ入れば、似たような路地が続いている。
店の看板を見ても、目的地の場所は分からない。
仕方なく、近くを歩いていた男に道を尋ねようとした、その時だった。
「……ん?」
ポケットに違和感があった。
手を入れる。
財布がない。
「……なるほど」
後ろを見る。
そこには、一人の少年がいた。
俺と目が合った瞬間、少年は走り出した。
「待て」
追う。
少年は細い路地へ入り、建物の間を縫うように走っていく。
だが――。
「甘い」
身体強化を使えば、追いつくのは難しくなかった。
少年の腕を掴む。
「離せ!」
「財布を返せ」
「……っ」
少年は睨みつけてくる。
その目には恐怖よりも、警戒心のほうが強く浮かんでいた。
俺は少年を観察する。
痩せている。
服は汚れている。
靴もまともなものではない。
そして――後ろに、何人かいる。
「……仲間か?」
少年が黙る。
俺は周囲を見る。
路地の奥。
建物の陰。
こちらを窺っている子供たちがいる。
なるほど。
一人で盗みを働いていたわけではないらしい。
俺は財布を取り返すと、少年の腕を離した。
「これを返す代わりに、一つ聞きたい」
「……何だよ」
「アルゲントゥム商会という商会を知っているか?」
少年の表情が変わった。
ほんの一瞬だった。
だが、俺は見逃さなかった。
「……知らない」
「そうか」
俺はそれ以上追及しなかった。
代わりに、財布から銀貨を一枚取り出す。
少年の目が銀貨へ向く。
「これで食事でも買え」
「……なんで?」
「質問に答えてくれれば、もっとやる」
少年はしばらく俺を睨んでいた。
やがて、小さく口を開いた。
「……アルゲントゥム商会なら知ってる」
そこから、俺は少年たちの話を聞いた。
平民街では、彼らのような浮浪児が珍しくない。
親を失った者。
家を失った者。
捨てられた者。
そして、ただ貧しいという理由だけで教育を受ける機会すら与えられなかった者。
彼らは文字を読めない。
商取引も知らない。
政治も知らない。
だから貴族たちは彼らを「頭の悪い平民」と呼ぶ。
だが――。
俺は、昨日までとは違う視点で彼らを見ていた。
これは本当に血筋の問題なのか?
違う。
貴族は幼い頃から教育を受ける。
読み書きを学ぶ。
歴史を学ぶ。
政治を学ぶ。
経済を学ぶ。
一方で、平民にはその機会がない。
その結果、政治について知らない平民を見た貴族は言う。
「やはり平民は愚かだ」と。
そして平民自身も、それを信じる。
「貴族様が政治を理解できるのは、貴族だからだ」
「平民が勉強したところで意味がない」
そうして、また教育を受けない。
教育を受けないから、知識を持てない。
知識を持たないから、政治に参加できない。
政治に参加できないから、貴族による支配が続く。
そして、その状態を見て再び、
「平民は政治を理解できない」
と結論づける。
――循環している。
貴族至上主義とは、単純な差別意識ではない。
もっと古く、もっと強固なものだ。
支配者階級が、自らの支配を維持するために作り上げた構造そのもの。
血筋が優れているから貴族が支配しているのではない。
貴族が支配しているから、血筋が優れているという理屈が必要になった。
そして平民側にも、その思想が浸透している。
だから、この体制は強い。
「身分に関係なく優秀な人間を登用する貴族は善人だ」
そう評価することはできる。
だが――名君とは限らない。
本当にこの国を変えるなら、個々の平民を救うだけでは足りない。
教育制度を変えなければならない。
登用制度を変えなければならない。
貴族と平民の間にある社会構造そのものを変える必要がある。
そして、それには莫大な時間と政治的コストが必要になる。
今の俺には、そんなことをする力はない。
ましてや――。
今は母上を殺した者を探している。
祖父まで殺された。
王宮では派閥争いが激化している。
そんな状況で、国の支配構造そのものを壊す?
「……非合理的だ」
思わず呟く。
少年が怪訝そうに俺を見る。
俺は何も説明しなかった。
この子を救うことはできる。
だが、それは一人を救うだけだ。
今の俺に必要なのは、もっと別のものだ。
情報。
そう考えていた時だった。
少年が口を開いた。
「……俺たち、最近追われてるんだ」
「誰に?」
「アルゲントゥム商会の連中」
話を聞く。
どうやら以前、浮浪児の一人が商会と繋がっていた悪党を数人殺してしまったらしい。
それ以来、その少年を探して商会の徒党が平民街を嗅ぎ回っている。
「最初は、ただのチンピラだった」
少年は続ける。
「でも最近は違う」
「どう違う?」
「……動きが変なんだ」
以前は乱暴に探していた。
だが、最近は違う。
逃げ道を塞ぐ。
見張りを置く。
浮浪児たちの隠れ場所を一つずつ潰していく。
そして――。
何人かが殺された。
俺は黙って聞いていた。
そこで、一つの考えが浮かんだ。
アルゲントゥム商会。
帝国の潜入部隊。
王国内で活動する何者か。
そして、この浮浪児たち。
普通なら、彼らを哀れな子供として見るだろう。
だが――俺は違う。
彼らは王宮の人間が知らない場所を知っている。
平民街の路地を知っている。
誰が何を売っているのか。
誰がどこに出入りしているのか。
どの店が怪しいのか。
誰が突然金を持つようになったのか。
そして――誰が裏で人を動かしているのか。
貴族には見えないものが、彼らには見える。
なぜなら彼ら自身が、この社会から見捨てられているからだ。
俺は少年たちを見た。
「お前たちは、俺のために働く気はあるか?」
「……何をすればいい?」
「情報を集めろ」
「情報?」
「ああ」
俺は銀貨をもう一枚取り出した。
「食事を与える」
少年たちの目が変わる。
「必要なら服も用意する」
さらに続ける。
「文字も教える」
少年たちが驚いた顔をする。
だが、俺はそこで笑わなかった。
これは慈善ではない。
施しでもない。
取引だ。
「お前たちは俺に情報を渡す」
「俺は、お前たちに生きるためのものを与える」
「ただし――」
俺は少年を見据えた。
「俺を裏切れば、それまでだ」
少年はしばらく黙っていた。
そして――。
「……分かった」
小さく頷いた。
俺も頷く。
これでいい。
貴族社会の中にいる者だけでは、見えないものがある。
ならば、貴族社会の外にいる者を使えばいい。
そして、ふと思う。
もしこの仕組みが上手くいくなら――。
将来的には、ただの浮浪児の集団では終わらせない。
読み書きを教える。
情報収集の方法を教える。
報告の仕方を教える。
そして、王宮にも貴族にも属さない情報網を作る。
――王国の諜報組織。
その原型を、この平民街から作る。
俺は少年たちを見ながら、静かに考えた。
貴族至上主義を今すぐ壊す必要はない。
壊すことが合理的でないのなら、利用すればいい。
この社会が彼らを切り捨てるのなら――。
俺だけが、彼らを拾えばいい。
それは慈善ではない。
俺が生き残るための、必要な投資だ。
そしていつか。
彼らが集めた情報が、王国の命運を左右する日が来るかもしれない。
俺はそう考えながら、少年たちを連れて歩き始めた。




