↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
氷の奇公子 ~変人王子の生存術~  作者: 岸田減税
第5章 シルウァニア戦争
334/392

エピローグ シルウァニア戦争総括

出来る限り数値化を意識しました!

――開戦からシルウァニア王国終結まで――


 シルウァニア戦争は、後世の歴史家から「大陸西部における戦争の形を変えた戦争」と評されることになる。開戦前、大陸西部三国同盟側は、自らの人口、経済力、兵站能力、そして総動員能力を背景に、シルウァニア王国を比較的短期間で制圧できると考えていた。特に中心となったエクィトゥム王国は、人口約8,000,000人を抱え、最大約400,000人の戦時動員能力を有しており、そのうち約350,000人をシルウァニア戦役へ投入する計画を立てていた。作戦名は「竜の祝福」。北部、中南部、南部の各戦線を時間差で攻撃し、シルウァニア王国軍の主力を意図した方向へ移動させ、その隙に北部で温存していた200,000人を本格投入し、西半分を一気に制圧するという、大規模な欺瞞作戦だった。


 開戦時点でのエクィトゥム王国側の想定では、最初の北部攻城戦へ50,000人を投入して国境防衛城壁を突破し、その後ろに待機する北部方面軍約250,000人を段階的に前進させる。中南部では40,000人を投入して別の戦線を形成し、さらに南部からアイティクイランド王国軍約20,000人を進出させ、最後に中南部から60,000人を追加投入する。その時間差によってシルウァニア王国軍の主力を南へ引き寄せたところで、北部の200,000人を本格投入し、西半分を制圧する。その後、西半分を確保した北部方面軍と中南部方面軍を合流させ、南部から進出したアイティクイランド王国軍とともに王都周辺を挟撃する。最終的な目的は王都の陥落そのものではなく、シルウァニア王国全土を制圧し、組織的な抵抗能力を失わせることだった。


 しかし、実際の戦争はこの計画通りには進まなかった。


第1章 北部国境防衛城壁攻防戦


 戦争の最初の大規模戦闘は、シルウァニア王国北西部、ヴロントリア辺境伯領に接する国境防衛城壁を巡って行われた。この地域は山岳地帯の狭い渓谷によって構成されており、大軍を通すことのできる街道が限られていた。そのためシルウァニア王国は、山と山の間を塞ぐ形で巨大な防衛城壁を築き、エクィトゥム王国軍が王国内部へ侵入するための主要経路そのものを押さえていた。


 エクィトゥム王国軍は約50,000人を投入し、改良型ファイアカタパルト、バリスタ、弓兵、弩兵、攻城塔、破城槌などを集中配備した。戦闘は単純な一度の突撃では終わらず、攻城兵器による継続的な攻撃と歩兵の前進が何度も繰り返された。シルウァニア側も防御壁上から弓兵を展開し、山岳地形を利用して攻撃部隊へ圧力をかけた。


 最終的にはエクィトゥム軍が防御壁の一部を突破し、その後方にあったルペリウス城も陥落させた。しかし、その戦果と引き換えに、エクィトゥム王国軍は戦死約2,000人、戦線離脱約6,000人、合計約8,000人という損害を受けた。開始時50,000人に対して約16%に相当する。


 一方、シルウァニア側の損害は約4,000人と推定される。防御側は突破される前に一部の戦力を後退させ、部隊を完全に包囲されることを避けたため、攻撃側より損害を抑えることができた。


 この戦闘によってエクィトゥム軍は、シルウァニアの防御施設を突破する能力を示した。しかし同時に、山岳地帯に築かれた防衛線を正面から攻略することが、想定していた以上の人的損害を必要とすることも明らかになった。


第2章 ルペリウス戦線・迎撃戦とゲリラ戦


 国境防衛城壁とルペリウス城を失った後、シルウァニア軍は正面決戦を避けるようになった。


 森へ退く。


 山道へ消える。


 街道を通る補給隊を狙う。


 偵察隊へ攻撃を加える。


 そしてエクィトゥム軍が追撃に移れば、再び森林へ姿を隠す。


 この繰り返しによって、エクィトゥム軍は戦力を分散させられていった。


 特にルペリウス族の勢力圏では、森林と山道を利用した小規模な迎撃戦が多数発生した。代表的な2回の迎撃戦だけでも、それぞれ約1,000人、合計約2,000人の損害がシルウァニア側に発生したと推定される。また、その後のゲリラ戦によって約500人が戦死したとの記録も残されている。


 シルウァニア軍が目指していたのは、エクィトゥム軍を一度に撃破することではなかった。


 進ませないこと。


 補給を遅らせること。


 偵察を妨害すること。


 そして、巨大なエクィトゥム軍が、その巨大さゆえに各地へ兵力を割かなければならない状態を作ることだった。


 この作戦は極めて効果的だった。


 エクィトゥム王国軍は数の上では圧倒的だったにもかかわらず、森林と山道へ対応するため部隊を細かく分散しなければならず、本来なら前線へ投入できたはずの兵力が各地の警備や補給路の確保へ吸収されていった。


第3章 南西部防御壁攻略戦


 北西部での戦線が停滞する中、エクィトゥム王国は南西部にも大軍を投入した。


 約40,000人のエクィトゥム軍が山岳地帯に築かれた防御壁へ攻撃を開始した。


 ここでも戦闘は単純な歩兵突撃にはならなかった。攻城兵器、弓兵、弩兵による支援射撃が行われ、その間に歩兵が防御壁へ接近する。シルウァニア軍は高所から抵抗し、山道の狭さを利用して兵力差を打ち消そうとした。


 最終的にエクィトゥム軍は防御壁を突破し、その後方にあった前線基地も制圧した。


 しかし損害は大きかった。


 戦死約3,000人。


 戦線離脱約7,000人。


 合計約10,000人。


 開始兵力40,000人の25%に相当する。


 シルウァニア側の損害は約6,000~8,000人と推定された。防御壁突破後、部隊を分散させながら撤退したことで、大規模包囲を避けることに成功した。


 エクィトゥム軍はまた一つ防御施設を奪った。


 しかし、それを維持するためには守備兵が必要であり、補給路を確保するためにも兵力が必要だった。


 前へ進むたびに、後ろに守らなければならない場所が増えていく。


 それがシルウァニア戦争だった。


第4章 南部方面軍の進撃


 南部では、カヴィーレスターン・スルタン国軍33,000人とアンティクイランド王国軍17,100人を中心とした約50,000人の南部方面軍が進撃を開始した。


 カヴィーレスターン軍は軽騎兵と軽装歩兵を中心とする高機動軍だった。平地では敵の側面へ回り込むことができ、広い戦場では高い機動力を発揮できる。しかしシルウァニア王国は山岳国家であり、南部へ進めば進むほど街道は狭くなり、丘陵、森林、谷間が連続する。


 軽装であることは移動速度の面では大きな利点だった。


 だが、正面から敵とぶつかった時には、その軽装がそのまま弱点となった。


 一方、アンティクイランド王国軍は特別に重装備ではなかったものの、歩兵、弓兵、弩兵、騎兵が均衡よく配置されており、民兵についても一定の練兵が施されていた。防御に必要な盾、槍、弓、弩などを揃え、どの兵種も極端に優れてはいない代わりに、一つの部隊として安定した戦闘が可能だった。


 さらに南部方面軍にはアエテリア帝国亡命政府軍約5,000人も存在した。


 この部隊の特徴は人数ではなく、戦術能力だった。


 帝国時代から研究されてきた軍事理論をもとに、部隊運用、予備兵力の投入、側面防御、撤退、再編などを極めて体系的に行う。そのため、5,000人という人数以上の存在感を戦場で示すことになった。


 それでも、南部方面軍はシルウァニア軍の土地勘と森林戦によって少しずつ消耗した。


第5章 南部方面軍の損害


 南部方面軍に参加したアンティクイランド王国軍は17,100人だった。


 中央軍5,500人。


 傭兵5,000人。


 諸侯軍6,600人。


 この3つを合わせて17,100人となる。


 開戦から南部方面での主要戦闘を経た時点で、アンティクイランド軍の損害は次のように集計された。


 中央軍は戦死約500人、負傷約1,200人、合計約1,700人であり、損害率は約30.9%。


 傭兵は戦死約600人、負傷約1,300人、合計約1,900人で、損害率は38.0%。


 諸侯軍は戦死約1,400人、負傷約3,000人、合計約4,400人となり、損害率は約66.7%に達した。


 3軍を合わせると、アンティクイランド軍全体では戦死約2,500人、負傷約5,500人、合計約8,000人となる。


 17,100人のうち8,000人。


 損害率は約46.8%だった。


 負傷者5,500人のうち、約3,500人は治療と休養を終えれば再び軍務へ復帰できる可能性があると判断された。ただし、復帰可能であることと、直ちに前線へ戻れることは別だった。


 特に諸侯軍の損害は突出していた。


 諸侯軍6,600人に対して戦死1,400人、負傷3,000人。


 戦死・負傷を合わせた損害は4,400人となり、約66.7%に達した。


 一方、カヴィーレスターン軍は33,000人のうち、戦死約7,000人、負傷約10,500人、合計約17,500人の損害を受けた。


 損害率は約53.0%。


 戦死率は約21.2%。


 負傷率は約31.8%。


 3人に1人以上が負傷し、半数を超える兵士が戦死または負傷によって戦列から離れたことになる。


 さらにカヴィーレスターン軍は、総大将アイガード・ゼフィル大族長を失った。


 戦力の損耗に加え、軍全体を統率していた総大将まで失われたことで、その後の撤退では各部隊が自ら判断して動く場面が増え、軍の統制は大きく揺らいだ。


 この時点で、南部方面軍は、当初の50,000人という数字をそのまま戦闘力として使える状態ではなくなっていた。


第6章 南部戦線の崩壊とセルシール・モンタヌス


 その後、シルウァニア王国から南部方面へ移動してきた主力軍によって、南部方面軍への大規模な殲滅作戦が始まった。


 それまでのシルウァニア軍は、森林や山岳を利用して小規模な戦闘を繰り返していた。


 しかし、この段階では事情が違った。


 シルウァニア王国側は南部戦線へ大規模な軍勢を投入し、南部方面軍を包囲しようと動き始めた。


 カヴィーレスターン軍は各地で分散し、アンティクイランド軍も撤退経路を確保しながら後退する。


 その混乱の中、レノウィウスはティア、エリシア、少数の護衛兵とともに戦場から離脱しながら状況を見極めた。


 シルウァニア軍は逃げ道を意図的に残し、連合軍がまとまって反撃することを避けるように追い込んでいった。


 その後、森の中でレノたちはシルウァニア王国王太子セルシール・モンタヌスを発見する。


 セルシールは10万人規模の主力軍を率いていた。


 レノたちは少人数で襲撃を仕掛け、ティアの炎熱魔法、レノの氷結魔法、護衛兵たちの突入によってセルシールを討ち取ることに成功した。


 その証拠として、シルウァニア王族の証であるブローチが奪取された。


 しかし、この戦果によって南部方面軍そのものが救われたわけではない。


 南部方面軍はその後も後退を続け、最終的には各軍が大きく分散した状態で戦場を離れることになった。


 ただし、この南部戦線における損害は、その後の南東部決戦とは別に算出されたものと、決戦後の再編不能となった兵力を示す記録が混在しているため、戦後史では一定の範囲を持つ推定値として扱われている。


第7章 ヴェルゼバンセス上陸作戦


 陸路からの侵攻が想定以上に難航したことで、エクィトゥム王国は海軍を投入した。


 シルウァニア王国唯一の港町ヴェルゼバンセスを目標とし、約300隻の艦隊が編成された。


 対するシルウァニア海軍は約15隻。


 海戦では圧倒的な戦力差が生じ、シルウァニア海軍は壊滅した。


 その後、約60,000人の上陸軍が投入された。


 ただし、この60,000人はエクィトゥム王国正規軍ではない。


 約45,000人の傭兵・傭兵団と約15,000人の民兵から構成された臨時編成軍だった。


 上陸部隊は港へ入ること自体には成功したが、ヴェルゼバンセスは単なる平坦な港町ではなかった。


 港の奥には高台があり、その先には崖があり、さらにその上には市街地を守る城壁が存在した。


 上陸した兵士が隊列を整える前から、高台のシルウァニア弓兵が攻撃を行う。


 港には十分な遮蔽物がない。


 船上からの援護射撃も、味方の上陸部隊が射線へ入るため十分な効果を発揮できない。


 それでもエクィトゥム軍は時間をかけて上陸部隊を再編し、高台、防御線、市街地へ進出した。


 最終的にヴェルゼバンセスは制圧された。


 この戦闘によってエクィトゥム王国は、シルウァニア王国内部へ継続的に兵力と物資を送り込める海上拠点を確保した。


第8章 北西部森林焼却作戦


 北西部のゲリラ戦に対処するため、エクィトゥム王国軍は、最終的にそれまでの戦争とは全く異なる手段を採用した。


 森林そのものを戦場として利用させない。


 広範囲にわたる森林焼却が開始された。


 森林内にあった潜伏場所、移動経路、補給地点、隠密行動のための道が次々と失われていく。


 北西部の森林には約45,000人規模のゲリラ戦力が存在していたとされ、そのうち約40,000人が戦死または戦闘不能となり、約5,000人が森林から逃走したと推定されている。


 この数字には、森林焼却以前のゲリラ戦によって発生した約500人の戦死者も含まれる。


 森林焼却によってエクィトゥム軍は北西部で自由に進撃できるようになった。


 しかし、同時にシルウァニア人にとって森林は単なる軍事拠点ではなく、生活そのものだった。


 山岳民族として狩猟や採集を行い、森を通って移動し、森林資源を利用して暮らしてきた人々にとって、その森を失うことは生活圏そのものを失うことに近かった。


 そして、この作戦の過程でルペリウス族大族長カエルス・アル・ルペリウスが戦死した。


 ルペリウス戦線を長く支えてきた指揮官の死は、軍事上だけではなく、シルウァニア人の抵抗意識にも大きな影響を与えた。


 北西部の組織的抵抗は弱まった。


 しかし同時に、エクィトゥム王国への反発は強くなった。


第9章 南東部決戦


 北西部の抵抗が崩れ、南西部でエクィトゥム王国軍約90,000人がシルウァニア王国軍主力を拘束し、ヴェルゼバンセスも制圧されたことで、戦争は最終段階へ入った。


 エクィトゥム王国軍は約410,000人規模まで膨れ上がり、シルウァニア王国も残された約300,000人規模の軍勢を各方面から集めた。


 その中には、北東部から移動してきた約30,000人の軍も含まれていた。


 ここで、それまでシルウァニア側を守ってきた森林が大きな意味を失った。


 数千人であれば森は隠れる場所になる。


 数万人でも、限定的な奇襲拠点として使える。


 しかし数十万人が一つの戦場へ集中すれば、森は巨大な障害物になる。


 そのため両軍は開けた平地へ出た。


 そして、5日間にわたる南東部決戦が始まった。


1日目


 エクィトゥム軍が前進し、シルウァニア軍が迎撃する。


 エクィトゥム軍は圧倒的な数を持っていたが、兵士の多くは戦時徴募された民兵だった。


 命令には従う。


 しかし、長年の軍務経験があるわけではない。


 一方のシルウァニア軍も民兵が中心だったが、狩猟、山歩き、森林生活、木材作業などによって日常的に身体を鍛えている。


 両軍の距離が縮まると、遠距離攻撃から肉弾戦へ変化した。


 盾と盾がぶつかる。


 槍が押し出される。


 兵士が倒れれば、その隙間へ別の兵士が入る。


 戦闘は次第に激しくなっていった。


2日目


 エクィトゥム軍は後方から新しい部隊を送り込み、前線を維持する。


 シルウァニア軍は少ない兵力を一点へ集中し、局所的な突破を防ぐ。


 しかし、エクィトゥム側では次第に異変が起き始めた。


 恐怖と疲労によって前線を離れる兵士が増え、脱走者も少しずつ増え始めた。


 それでも四十万人を超える大軍は崩壊しない。


 後ろにはまだ兵がいる。


 前から兵が抜けても、その位置を別の部隊が埋める。


 それがエクィトゥム軍の強さだった。


3日目


 戦場の各所で戦列が崩れ始めた。


 エクィトゥム軍は大軍ゆえに、敵と接触する場所が広すぎる。


 シルウァニア軍は少人数ゆえに、全ての場所を守れない。


 それでも、守れる場所では最後まで退かない。


 シルウァニア兵の軽装備は森林戦では大きな利点だったが、正面からの長時間の肉弾戦では弱点になった。


 防具の不足が、そのまま損害へ繋がっていく。


 戦場には倒れた旗と折れた武器が増えていった。


4日目


 両軍とも疲弊が限界へ近づいた。


 エクィトゥム軍では脱走兵が増え、前線部隊の士気が低下する。


 シルウァニア軍では脱走こそ少ないものの、兵士そのものが戦場から次々と失われていく。


 それでも戦線は完全には崩れない。


 夜になっても遠くでは戦闘音が続いていた。


5日目


 両軍は限界へ達していた。


 あと一度だけなら大きく動かせる。


 そう考えたのがシルウァニア王国国王ヴァレリウス・レクス・モンタヌスだった。


 国王自身が出陣する。


 第一王女ビュルニア・モンタヌスも別の戦場へ出る。


 各地の族長たちも前線へ加わる。


 シルウァニア軍では、もはや戦列と呼べるものすら維持されていない場所があった。


 エクィトゥム側も同じだった。


 レノウィウス自身も出陣し、連合軍は最後の大規模攻勢を受け止めた。


 その戦場では、人と人が直接ぶつかり、旗が倒れれば別の旗が立ち、兵士が倒れれば後方から別の兵士が押し出される。


 数十万人が一つの地域へ集中した結果、大地そのものが巨大な戦場と化した。


 そしてこの日、ヴァレリウスとビュルニアは、それぞれ別の戦場で戦死した。


 国王と第一王女の死によって、シルウァニア王国中央の指導力は決定的な打撃を受けた。


第10章 南東部決戦の損害


 南東部決戦は、シルウァニア戦争最大の会戦となった。


 エクィトゥム王国軍の損害は、戦死約55,000人、負傷・戦線離脱約70,000人、脱走または部隊離脱約35,000人と推定される。


 合計約160,000人。


 これは約410,000人の兵力に対して約39%に相当する。


 一方、シルウァニア王国軍の南東部決戦における損害は、戦死約75,000人、負傷・戦線離脱約45,000人、行方不明または部隊から離散した兵士約20,000人と推定された。


 合計約140,000人。


 およそ300,000人規模だったシルウァニア王国軍の、約47%が何らかの形で戦場から失われたことになる。


 双方合わせて、この5日間だけで約300,000人が戦死、負傷、離脱などの形で戦場から失われたと推定されている。


 それは両軍の兵力そのものを根本から変える規模だった。


第11章 王都モンタヌス陥落


 南東部決戦によってシルウァニア王国軍の主力は大きく損耗し、さらに国王と第一王女を失った。


 王都モンタヌスの防衛に残されていた兵力は決戦前より大きく減少しており、中央の指揮系統も弱まっていた。


 そのため王都防衛戦は決戦ほど長期間の戦闘にはならなかった。


 大陸西部三国同盟軍が王都へ進入し、モンタヌスは陥落した。


 ただし、決戦直後の各部隊は非常に混乱しており、王都防衛戦単独の損害を正確に算出することはできなかった。そのため戦後の資料では、王都防衛戦による損害は南東部戦線の最終損害へ含めて扱われた。


 こうして、シルウァニア王国は事実上崩壊した。


第12章 北東部降伏


 王都陥落後、シルウァニア王国の北東部だけが実効支配地域として残された。


 そこには北東部の各部族だけではなく、南東部決戦の生存者、王都防衛軍の残党、北西部や南西部から離脱した兵士などが集まっていった。


 軍残党は約30,000人。


 戦争難民は約80,000~100,000人。


 北東部は山岳民族としての生活文化が強く残る地域であり、ここへエクィトゥム王国軍をさらに投入すれば、再び森林戦と山岳戦が始まる可能性が高かった。


 また、ここへ逃げ込んだ軍残党を全て殲滅しようとすれば、戦争そのものが新しい段階へ移行する。


 そこで、ソルフィエート族大族長セウェル・アル・ソルフィエートを中心とする族長たちは、王族最後の生存者であるルキアヌス・モンタヌスを新王として擁立した。


 ルキアヌスは病弱で、それまで王宮の奥にこもることが多く、戦争を指揮した経験もほとんどなかった。


 しかし、だからこそ都合がよかった。


 彼は戦争に勝つための王ではなく、戦争を終わらせるための王として必要とされた。


 ルキアヌス・モンタヌスは新王として降伏を決断し、その名によってシルウァニア王国の降伏が申し入れられた。


戦争全体の最終損害


 シルウァニア戦争の損害を確定することは、戦後になっても困難だった。


 エクィトゥム王国側では、正規軍、徴集民兵、傭兵、各地から集められた部隊が同一戦域で活動し、さらに大規模な脱走、戦線離脱、再編が繰り返された。


 一方、シルウァニア側では正規軍と民兵の区別が曖昧であり、各部族が独自に兵を出していたため、戦死者が正式な軍記録へ残らない場合も多かった。


 そのため、戦後に作られた総括では、死者と負傷者についての推定値と、それとは別に「非死傷性人的損耗」という区分を設けた。


 ここでいう非死傷性人的損耗とは、戦場から離れた兵士のうち、死者・負傷者として計上された者を除き、脱走、行方不明、部隊離散、長期戦線離脱、所在不明などによって最終的に戦力として戻らなかった者を指す。


戦死者


 両陣営を合わせた戦死者は、約200,000~210,000人と推定された。


 そのうちエクィトゥム王国軍側が約68,000人。


 シルウァニア王国軍側が約120,000人。


 残余の約12,000~22,000人については、アンティクイランド王国軍、カヴィーレスターン・スルタン国軍、アエテリア帝国亡命政府軍などの同盟軍戦死者に加え、各戦線の記録差による調整値が含まれている。


負傷者


 両陣営を合わせた負傷者は、約180,000~200,000人と推定された。


 ただし、負傷後に戦列へ復帰した者も含まれる。


 そのため、負傷者数と「最終的に戦力を失った人数」は同じではない。


 アンティクイランド王国軍では、17,100人のうち戦死約2,500人、負傷約5,500人、合計約8,000人という記録が比較的明確に残っており、その負傷者のうち約3,500人は治療と休養を終えれば復帰可能と判断された。


 カヴィーレスターン軍では、33,000人のうち戦死約7,000人、負傷約10,500人、合計約17,500人となった。


非死傷性人的損耗


 戦後に各国の記録を突き合わせた結果、戦死者・負傷者とは別に、脱走、行方不明、部隊離散、長期戦線離脱、所在不明などによって最終的に戦力として失われた者が、両陣営合わせて約450,000人に達したと推定された。


 この数字には、戦死者や負傷者との重複は含めない。


 また、一時的な脱走や一時的な離隊の後に部隊へ復帰した者も最終損耗から除外される。


 それでも、長期間にわたる大規模動員によって、兵士が故郷へ戻った、部隊が解体された、行方が確認できなくなった、農村へ帰還して兵役へ戻らなくなったなど、軍事上の「損失」として扱われる人数は非常に大きくなった。


 シルウァニア側では特に、北東部へ逃れた軍残党、各部族へ戻った民兵、武装解除前に所在を失った兵士などが多数存在した。


 エクィトゥム側でも、長期戦による脱走や戦場離脱が大量に発生した。


戦争の人的損耗総計


 以上を区分すると、


 戦死者:約200,000~210,000人


 負傷者:約180,000~200,000人


 非死傷性人的損耗:約450,000人


 となる。


 したがって、これらを単純合計した場合、シルウァニア戦争による両陣営の人的損耗は、


 約830,000~860,000人


 に達したと推定される。


 最大値では、


 210,000 + 200,000 + 450,000


 となり、


 860,000人


 となる。


 ただし、この860,000人という数字は「860,000人が死亡または負傷した」という意味ではない。


 その内訳は、あくまで、


 死亡した者。


 負傷した者。


 そして、死亡・負傷以外の理由で最終的に軍事戦力から失われた者。


 という3つの異なる損耗を合計したものである。


 したがって戦史上では、この最大860,000人という数字を「人的損耗総計」と呼び、死傷者数とは区別して扱った。


 これは後世の研究者にとっても、シルウァニア戦争がどれほど大規模だったかを理解する上で重要な数字となった。


両陣営別総括

大陸西部三国同盟・アエテリア帝国亡命政府側


 エクィトゥム王国軍:約410,000人規模。


 アンティクイランド王国軍:約17,100人を南部方面へ投入。


 カヴィーレスターン・スルタン国軍:約33,000人を主要南部侵攻軍として投入。


 アエテリア帝国亡命政府軍:約5,000人を主要南部方面へ派遣。


 その他の各部隊、傭兵、諸侯軍、追加動員兵を含め、戦争全体では非常に大きな人的資源が投入された。


 エクィトゥム王国軍では戦死約68,000人、負傷約97,000人、非死傷性人的損耗を合わせた総損耗は約200,000人。


 アンティクイランド王国では、主要南部方面の17,100人について戦死約2,500人、負傷約5,500人、合計約8,000人が確認され、行方不明や長期戦線離脱などを含めると最終損耗は約10,000人規模。


 カヴィーレスターン軍では戦死約7,000人、負傷約10,500人、戦死・負傷合計約17,500人で、さらにその他の離脱を含めると戦争全体で約20,000人規模の損耗。


 アエテリア帝国亡命政府軍では約5,000人規模の派遣兵力に対し、戦死約800~1,000人、負傷約1,500~2,000人、総損耗は約3,000~4,000人規模。


シルウァニア王国側


 総動員兵力:約300,000人。


 北西部では約45,000人規模のゲリラ戦力が活動し、そのうち約40,000人が戦死または戦闘不能、約5,000人が逃走したと推定される。


 南東部決戦では約140,000人が死傷・離散などによって戦場から失われたと推定される。


 国王ヴァレリウス・レクス・モンタヌス戦死。


 第一王女ビュルニア・モンタヌス戦死。


 ルペリウス族大族長カエルス・アル・ルペリウス戦死。


 その他、多数の族長、軍司令官、部族指導者が戦死。


 最終的なシルウァニア王国軍の戦死者は約120,000人、負傷者約60,000~70,000人、その他の行方不明、離散、長期戦線離脱など約20,000人と推定され、軍としての組織的な戦闘能力はほぼ失われた。


戦後の領土再編


 講和によって、シルウァニア王国は消滅した。


 旧来の領土の西半分はエクィトゥム王国へ割譲。


 南東部はアンティクイランド王国へ割譲。


 ヴェルゼバンセスはエクィトゥム王国の海軍拠点として維持。


 北東部については、現在シルウァニア側の実効支配が及んでいる地域を領土として、シルウィア公国が成立。


 新たな公爵には、シルウァニア王国新王ルキアヌス・モンタヌスが就く。


 ただし、シルウィア公国はエクィトゥム王国の属国とはならない。


 軍事、外交、内政については、アエテリア帝国亡命政府の監督下に置かれる。


 現地の自治行政については、北東部最大勢力であるソルフィエート族大族長セウェル・アル・ソルフィエートを中心とする族長たちが担う。


 その一方で、アエテリア帝国亡命政府はシルウァニア占領地の一部を政治的基盤として得る代わりに、北東部に逃れた約30,000人の軍残党と約80,000~100,000人の戦争難民を中心とする戦後処理を引き受けることとなった。


軍制改革


 シルウァニア戦争によって、各国の軍制にも大きな変化が生じた。


 アンティクイランド王国では、中央軍、諸侯軍、傭兵が異なる命令系統を維持したまま同じ戦場で戦ったことが南部方面軍崩壊の大きな要因の一つと分析された。


 そこで戦時動員が宣言された場合、諸侯軍も王国軍総司令部の指揮下へ入る制度が整えられた。


 また、各領地について兵力、装備、騎士、予備兵、軍馬などを定期的に王都へ報告させる制度が整備された。


 傭兵についても、単純に人数を補充するだけではなく、正規軍との共同運用を前提とした再教育が行われ、適性のある傭兵を正規軍へ編入する制度が検討された。


 エクィトゥム王国でも、徴集民兵を大規模に運用することの難しさが明らかとなった。圧倒的な人数を投入しても、兵士一人一人の士気や戦闘経験が不足していれば、長期戦になった時に脱走や戦線離脱が増える。


 さらに、戦争の長期化によって財政、補給、軍需生産、農業生産、国内治安に巨大な負担が生じた。


西方評議会


 シルウァニア戦争の最大の政治的成果は、新しい国際秩序の誕生だった。


 戦時の大陸西部三国同盟は、シルウィア公国とアエテリア帝国亡命政府を加える方向へ進み、その後、恒久的な軍事・経済同盟である西方評議会へ発展した。


 加盟国間の関税は引き下げられ、交易が促進される。


 各国固有の民族通貨は共通通貨として認められず、大陸で広く流通していた帝国通貨が共通通貨として使用される。


 加盟国間の軍事衝突は禁止される。


 そして、加盟国のいずれかが非加盟国から攻撃を受けた場合には、全加盟国が西方評議会連合軍を編成し、共同で防衛し、必要に応じて攻撃国へ反撃する。


 本部はアンティクイランド王国の旧王弟宮に置かれ、各加盟国の大使と側近が常駐する。


 組織は経済理事会、軍事理事会、最高評議会の3機関から構成される。


 さらに大陸北部では、かつてアエテリア帝国内部の派閥争いに敗れた国々が生き残るために形成したセプテントリア連合公国が解体され、その構成国26ヶ国が、それぞれ西方評議会への加盟を申請することになった。


 こうして西方評議会は、当初の3ヶ国による戦時同盟をはるかに超え、多数の国家を結びつける巨大な軍事・経済圏へ成長していく。


結語


 シルウァニア戦争は、エクィトゥム王国の勝利によって終わった。


 しかし、それは容易な勝利ではなかった。


 エクィトゥム王国は約410,000人という巨大な兵力を投入し、山岳地帯の防衛線を突破し、森林を焼き、海軍を投入し、ヴェルゼバンセスを確保し、最後には王都モンタヌスまで陥落させた。


 その代償として約68,000人が戦死し、約97,000人が負傷または長期戦線離脱し、さらに大規模な脱走・離散が発生した。


 一方のシルウァニア王国は、約300,000人を総動員し、山岳民族としての生活そのものを戦闘力へ変え、森林戦、弓術、山岳戦、肉弾戦を駆使して最後まで抵抗した。


 最後には国王と第一王女を失い、王都を失い、王国そのものを失った。


 戦争全体では、両陣営合わせて約200,000~210,000人が戦死し、約180,000~200,000人が負傷したと推定される。


 それとは別に、脱走、行方不明、部隊離散、長期戦線離脱などによって、約450,000人が最終的に軍事戦力から失われたと推定された。


 したがって、死傷者と非死傷性人的損耗を合わせた人的損耗総計は、約830,000~860,000人。


 最大値では860,000人。


 これは、「860,000人が死亡した」という意味ではない。


 それは、死亡、負傷、そして戦争によって軍事的な戦力として失われた者を合わせた、シルウァニア戦争という戦争そのものが社会へ与えた人的損失の規模だった。


 シルウァニア王国は国家として消滅した。


 エクィトゥム王国は勝利したものの、国家の戦争遂行能力を大きく消耗した。


 アンティクイランド王国は軍制改革へ踏み出した。


 カヴィーレスターン・スルタン国はアイガード・ゼフィル大族長を失った。


 アエテリア帝国亡命政府は、戦争への参加によって国際的な地位を獲得する一方、シルウィア公国の監督と北東部の戦後処理を背負うことになった。


 そして大陸西部には、西方評議会という新しい軍事・経済圏が生まれた。


 それは、単なるシルウァニア戦争の戦後処理ではなかった。


 帝国の旧秩序が崩壊し、新しい国家、新しい国境、新しい軍制、新しい経済圏、そして新しい軍事同盟が同時に成立したのである。


 さらに、アエテリア帝国の旧来の分権的な構造は、ホスティス皇帝による中央集権化によってすでに大きく変質していた。


 その結果として崩壊した帝国の跡地には、かつてよりはるかに強大な中央集権国家が生まれる可能性が残されていた。


 もし、その新しい大国と西方評議会が正面から対立することになれば、シルウァニア戦争とは比較にならない規模の戦争が起きる。


 後世の歴史家たちは、その意味でシルウァニア戦争を単なる一国征服戦争とは扱わなかった。


 この戦争は、古い時代の終わりだった。


 そして同時に――。


 次の大戦の前哨戦でもあった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。