第32話 ヴェルゼバンセス上陸作戦1
エクィトゥム王国西岸。
水平線の彼方まで、無数の艦艇が並んでいた。
軍艦、輸送船、兵員輸送用の船。その数は約三百隻に達し、巨大な艦隊がシルウァニア王国唯一の港町――ヴェルゼバンセスへ向けて進んでいた。
これまでのエクィトゥム王国軍は、山岳地帯と大森林に覆われた国境を越えることに力を注いできた。北西部では五万人の軍が防御壁を突破し、その後二十万人を投入して西部を制圧する計画だった。南西部でも大軍を投入し、敵主力を拘束する。
しかし、シルウァニア軍は予想以上に強かった。
森へ潜み、山へ消え、街道や補給路を狙う。
正面からの決戦を避けながら、エクィトゥム軍の戦力を少しずつ削っていく。
そこでエクィトゥム王国は、これまでの作戦には含まれていなかった海軍を投入することを決めた。
海からシルウァニア王国へ入る。
だが、ここにも問題があった。
「海岸近くの森林へ直接上陸する案は、危険が大きすぎます」
作戦会議室で参謀が地図を示しながら説明する。
「海岸から森林へ上陸した場合、我々はまず陸上に拠点を築かなければなりません。しかし、その間にシルウァニア軍が周囲の森や山から集結すれば、上陸部隊は海岸付近で孤立する危険があります」
地図には、シルウァニア王国の海岸線と、その背後に広がる大森林が描かれていた。
「シルウァニアは狩猟を生業としてきた山岳民族です。森林内での潜伏や追跡に関しては、我々よりはるかに優れています。上陸してから拠点を築くという発想では、敵の最も得意とする環境へ自ら入り込むことになります」
「つまり、森へ上陸してから拠点を作る時間そのものが危険だと」
「その通りです。上陸直後に拠点を確保できなければ、我々は短時間で大きな損害を受ける可能性があります」
会議室の奥に座っていた男が立ち上がった。
新フェルゼンハルト公爵。
中年の大貴族であり、今回のヴェルゼバンセス上陸作戦の指揮官に任命された人物だった。
その表情には年齢相応の落ち着きがある。
しかし、その目には強い意志が宿っていた。
この男には、この戦争で果たしたいことがあった。
先のエクィトゥム・アイティクイ戦争で、フェルゼンハルト家当主だった父は戦死した。
戦争そのものもエクィトゥム王国にとって苦い記憶となり、フェルゼンハルト家には戦死した先代公爵と、その戦争で残された汚名が残った。
今代のフェルゼンハルト公爵は、その後を継いだ。
自分自身が前回の戦争で失敗したわけではない。
それでも、父の死と家に残された評価を背負っている。
「ならば、最初から拠点を持っている場所へ上陸すればいい」
公爵が言った。
指が地図上の一点へ向かう。
「ヴェルゼバンセスです」
シルウァニア王国唯一の港町。
「ここには港湾施設があり、街があり、物資を集積する場所もある。森林へ上陸して一から拠点を築くより、最初から敵の拠点そのものを奪った方が早い」
「しかし、ヴェルゼバンセスこそシルウァニアが最も厳重に守る場所でしょう」
「だから、強襲する」
公爵は即答した。
会議室に沈黙が広がる。
「敵の海軍は十五隻程度。対して、エクィトゥム王国海軍は約三百隻。まず海上でシルウァニア海軍を排除する。その後、港湾施設へ一気に接近する」
「上陸部隊も同時に?」
「当然です」
公爵は地図を指でなぞった。
「少数を上陸させ、そこへ後から増援を送るようなやり方では時間がかかる。時間を与えれば、シルウァニア軍は森と山から兵を集められる」
そして公爵は、ヴェルゼバンセスを囲むように指を動かした。
「だから、一気に上陸する。港湾施設と周辺を確保し、そこをそのまま前線基地として利用する」
「失敗した場合は?」
参謀が尋ねる。
公爵はしばらく地図を見つめた。
「上陸部隊が孤立する可能性がある」
「それでも実行しますか?」
「実行する」
迷いはなかった。
「私は父上の後を継いだ時、フェルゼンハルト家に残ったものを受け取った」
公爵の声が低くなる。
「爵位だけではない。父上の死も、先の戦争で残った汚名もだ」
室内の誰も口を挟まない。
「私は、その汚名を自分の代で終わらせる」
それは個人的な執念だった。
だが同時に、公爵にとってはフェルゼンハルト家の名誉を取り戻すための戦いでもあった。
「ヴェルゼバンセスを奪えば、エクィトゥム王国軍は海から継続的に兵力を送り込める」
公爵は再び地図を見る。
「北西部では二十万人が動く。南西部では九万人規模の戦力が敵主力を拘束する。そこへ海から新たな戦線を開けば、シルウァニア軍は対応を迫られる」
「海と陸の三方面から圧力をかけるわけですね」
「その通りです」
北西部。
南西部。
そして海上からヴェルゼバンセス。
これまでシルウァニア軍は、山岳地帯と大森林を利用することでエクィトゥム王国軍の進撃を阻んできた。
しかし、海から新たな戦線を開けば、シルウァニア軍は一つの方面だけを見ているわけにはいかなくなる。
「さらに、ヴェルゼバンセスを確保できれば、そこへ未動員の傭兵団、傭兵、民兵を投入できる」
公爵が続ける。
「港が生きている限り、兵力と物資を継続的に送り込める。単なる一度きりの上陸では終わらない」
それが重要だった。
海岸へ兵を置くのではない。
港そのものを奪い、そこから戦争を続ける。
「だからこそ、森へ上陸するのではなく、最初からヴェルゼバンセスへ突入する」
公爵は言った。
「上陸した瞬間から、そこを我々の拠点にする」
そして現在。シルウァニア王国北部海岸
その作戦を実行するための艦隊が、ヴェルゼバンセス沖へ到達しようとしていた。
約三百隻。
その船団には、約六万人の上陸部隊が乗り込んでいる。
だが、その六万人はエクィトゥム王国の正規軍ではない。
エクィトゥム王国の戦時動員可能兵力は約四十万人。そのうち三十五万人はすでにシルウァニア戦役へ投入されており、残る約五万人は国内防衛、都市警備、後方維持などのために残されている。
これ以上正規軍を引き抜けば、本国の防衛に穴が開く。
そのため、今回の六万人は正規軍とは別に集められた。
追加で契約した傭兵団と傭兵が約四万五千人。
そして、各地から可能な限り集められた民兵が約一万五千人。
合計六万人。
エクィトゥム王国が通常なら動かさない兵力までかき集めて編成した、今回限りの大規模な上陸軍だった。
もちろん、寄せ集めであることに変わりはない。
傭兵団にはそれぞれ異なる戦闘経験と指揮体系があり、民兵にも正規軍ほどの統一された訓練はない。
そのため、出撃前には共同訓練と再教育が行われた。
命令系統を統一する。
合図を統一する。
部隊間の連携を徹底する。
そして上陸後、各部隊が独断で動かないようにする。
南部戦線で起きた連合軍の混乱を、今度は繰り返さないためだった。
「上陸軍の準備は?」
新フェルゼンハルト公爵が副官へ尋ねる。
「完了しています。約六万人、全て配置済みです」
「正規軍からの追加投入は?」
「ありません。四十万人の戦時動員枠のうち、残している約五万人の国内防衛軍にも手をつけておりません」
「よし」
公爵は頷いた。
「それならば、問題ない」
公爵は前方へ視線を向けた。
ヴェルゼバンセスが、はっきりと見えてきた。
「海軍の状態は?」
「全艦、戦闘準備を完了しています」
「敵は?」
「シルウァニア海軍、十五隻を確認」
「ならば、始めるぞ」
公爵は剣を抜いた。
「我々が必要としているのは、海岸ではない」
視線の先には港がある。
「ヴェルゼバンセスそのものだ」
やがて、ヴェルゼバンセスからシルウァニア海軍が動き始めた。
十五隻の艦艇が港から出てくる。
「敵艦隊、出港!」
「数、十五!」
「こちらへ向かってきます!」
公爵は前方を見つめた。
「ファイアバリスタ、準備」
「はっ!」
甲板上で大型の投射兵器が動かされる。
ファイアバリスタ。
炎を伴う投射物を放つ、エクィトゥム王国海軍の切り札の一つだ。
その周囲には通常のバリスタも配置されている。
この時代に銃器は存在しない。
だからこそ、海戦では船と船を接近させ、兵士が乗り移って戦う。
その前段階として、バリスタやファイアバリスタによる攻撃が行われる。
「距離を詰めろ!」
約三百隻のエクィトゥム艦隊が前進する。
十五隻のシルウァニア艦隊も迎え撃つ。
やがて両軍の距離が縮まる。
「撃て!」
号令が響いた。
一斉にファイアバリスタとバリスタが放たれる。
投射物が海上を飛び、シルウァニア艦へ向かっていく。
シルウァニア側からも矢が放たれる。
だが、数の差はあまりにも大きかった。
エクィトゥム艦隊は複数方向から敵艦へ接近していく。
「敵艦へ接近!」
「接舷準備!」
次の瞬間、大きな衝撃音が海上へ響いた。
船体同士がぶつかる。
両軍の兵士が一斉に甲板へ集まる。
「乗り込め!」
エクィトゥム兵が敵艦へ飛び移る。
剣。
槍。
盾。
弓。
船上で兵士たちが激しくぶつかり合う。
別の場所でも艦艇同士が衝突し、そこから兵士たちが敵艦へ乗り込んでいく。
その後方では、ファイアバリスタとバリスタが何度も放たれていた。
「敵艦、制圧!」
「こちらも敵兵を排除しました!」
「別の艦も制圧!」
次々に報告が上がる。
十五隻のシルウァニア海軍は、約三百隻のエクィトゥム艦隊に包囲され、次第に戦列を維持できなくなっていった。
やがて最後の一隻が戦列から離れる。
「シルウァニア艦隊、壊滅!」
その報告に、公爵は頷いた。
「制海権を確保した」
公爵はヴェルゼバンセスを見る。
「では、上陸だ」
輸送船が一斉に港へ向かう。
船上では約六万人の兵士たちが、上陸の時を待っていた。
傭兵。
傭兵団。
民兵。
それぞれが装備を確認し、指揮官の命令を待っている。
「ヴェルゼバンセスへ上陸するぞ!」
公爵の命令が各船へ伝わる。
船が港へ近づいていく。
港にはシルウァニア兵が集結している。
港湾施設。
城壁。
街路。
そして、その背後に広がる森。
シルウァニア軍も、この港を失えば戦争そのものが大きく変化することを理解していた。
「上陸部隊、前進!」
船から兵士たちが次々と降りる。
一隻。
また一隻。
さらにその後ろから別の船が港へ入ってくる。
六万人の兵力が、次々とヴェルゼバンセスへ流れ込んでいく。
シルウァニア兵が迎え撃つ。
港湾施設の周辺で戦闘が始まった。
しかし、エクィトゥム軍は止まらない。
海上には、まだ約三百隻の艦隊が存在している。
その背後には、本国からさらに兵力と物資を送り込める海路がある。
ここを奪えば、ヴェルゼバンセスは単なる占領地ではない。
シルウァニア王国の内部へ軍勢を送り続けるための、新たな前線基地になる。
新フェルゼンハルト公爵は、港へ次々と上陸していく兵士たちを見つめた。
かつて父が戦死した、先のエクィトゥム・アイティクイ戦争。
父の死とともにフェルゼンハルト家が背負うことになった汚名。
その後を継いだ自分が、今、この場所にいる。
「今度こそ……」
公爵は剣を握り直した。
「フェルゼンハルト公爵家の名を取り戻す」
約三百隻のエクィトゥム王国艦隊と、約六万人の上陸軍。
エクィトゥム王国が本来の動員能力を超えてまでかき集めた戦力が、ヴェルゼバンセスへ殺到していた。
シルウァニア王国唯一の港を巡る戦いが、今まさに始まった。




