第29話 保身
コンキューウン男爵領の国境付近にある砦へ戻ってから、数日が経っていた。
ようやく各部隊からの報告が集まり始め、俺は砦の一室を臨時の軍議室として、南部方面軍の現在の戦力と損害を確認していた。机の上には大量の名簿と報告書が広げられている。戦死者、負傷者、現在も行動可能な兵士、治療を終えれば再び戦列へ戻れる可能性のある負傷兵。それぞれを整理していかなければ、次に必要な兵力を算出することもできない。
「まず、アンティクイランド軍全体から確認します」
カイが資料を開いた。
「今回の南部方面軍に動員されたアンティクイランド軍は一万七千百人です。その内訳は中央軍五千五百人、傭兵五千人、諸侯軍六千六百人です」
俺は頷いた。
「損害は?」
「戦死約二千五百人、負傷約五千五百人。合計八千人です」
その数字を書き込む。
一万七千百人のうち八千人。
損害率は約四十六・八パーセント。
「負傷者のうち、復帰可能なのは?」
「約三千五百人と推定されています。ただし、全員がすぐに戦列へ戻れるわけではありません」
「分かっている」
俺は資料を見つめた。
約半数が戦死または負傷によって戦場から離れている。
それでも、約三千五百人は治療と休養を終えれば、再び兵士として使える可能性がある。
「中央軍は五千五百人のうち、戦死五百人、負傷千二百人。損害千七百人です」
カイが続ける。
「損害率は約三十・九パーセント。現在の行動可能兵力は約三千八百人です」
「傭兵は?」
「五千人のうち、戦死約六百人、負傷約千三百人。合計千九百人です」
「損害率三十八・〇パーセントか」
「はい。現在、行動可能なのは約三千百人です」
最後に諸侯軍。
「六千六百人のうち、戦死約一千四百人、負傷約三千人。合計四千四百人です。損害率は約六十六・七パーセント。現在確認できている行動可能兵力は約二千二百人です」
俺はしばらく黙っていた。
中央軍。
傭兵。
諸侯軍。
どの部隊も無傷ではない。
特に諸侯軍の損害は甚大だった。
しかし、全体を合わせれば、アンティクイランド軍としてまだ戦える兵力は残っている。
そして、復帰可能な負傷兵もいる。
「カヴィーレスターン軍は?」
俺が尋ねると、カイの表情が曇った。
「開戦時三万三千人。戦死約七千人、負傷約一万五百人。合計一万七千五百人です」
「損害率は五十三・〇パーセント」
「はい。計算上の残存兵力は一万五千五百人ですが、実際には現在地を把握できていない兵士も相当数います」
その言葉を聞いて、俺は目を閉じた。
カヴィーレスターン軍は総大将アイガード・ゼフィルまで失った。
三万三千人の軍勢が大きく損耗し、指揮系統も崩壊している。
南部方面軍全体として見ても、今回の戦闘がどれほど大きなものだったのかは明らかだった。
だが――。
俺は机の上に置かれた小箱を見る。
その中には、セルシール・モンタヌスのブローチが入っている。
シルウァニア王族の証。
敵国の王太子であり、十万人規模の主力軍を率いていた総大将。
俺たちは、その人物を討ち取った。
「王都への報告は、決めた」
俺は言った。
ティアがこちらを見る。
「どう報告するの?」
俺は少し考えてから答えた。
「勝利だ」
室内が静かになった。
「今回、俺たちは多大な犠牲を払った。それは隠さない」
八千人の戦死・負傷者を出したアンティクイランド軍。
一万七千五百人の戦死・負傷者を出したカヴィーレスターン軍。
その他の部隊にも大きな損害がある。
だが、それでも俺は「敗北」という言葉を使わない。
「俺たちは奮戦した」
俺は続けた。
「そして、敵国の王太子兼主力軍総大将を討ち取った」
これは事実だ。
ならば、その事実を中心に報告する。
「南部方面軍はシルウァニア軍の大規模な反撃を受けながらも最後まで奮戦し、敵の主力を率いていた王太子セルシール・モンタヌスを討ち取るという決定的な戦果を挙げた。その上で、兵力を温存するため戦線を後方へ移した――そう報告する」
カイが静かに頷く。
「つまり、戦線後退を敗走とは表現しない」
「ああ」
俺は答えた。
「戦果を得た後の戦略的な後退だ」
もちろん、本当のところはもっと厳しい。
南部方面軍はシルウァニア軍に押し返された。
それによって、大きな損害が出た。
俺自身も、あれを純粋な軍事的勝利だとは思っていない。
だが、王都へ持ち帰るべき報告は、戦場で感じた敗北感だけではない。
敵国の王太子兼総大将を討ち取った。
その事実は、俺たちが得た最大級の戦果だ。
「敗北した、と報告すればどうなるかは分かっている」
俺は静かに言った。
「俺が責任を問われる」
王太子である俺が率いた軍が敗れた。
そんな話になれば、国内の派閥争いが再燃する。
俺への批判が強まり、戦争そのものを巡って政治的な対立が激しくなる可能性もある。
それを避けるためにも、俺は今回の戦闘を勝利として位置づける必要がある。
「だから、勝利だと言う」
俺ははっきりと言った。
「多大な犠牲を払った。だが、それだけの犠牲を払ってでも、敵の王太子兼総大将を討ち取った」
アトラシート伯爵が静かに頷いた。
「国内向けの説明としては、非常に大きな意味を持つでしょう」
「ああ」
俺は答えた。
「俺たちが何も得ずに逃げ帰ったわけではない。それだけは、絶対に伝える」
そして、もう一つ決めなければならないことがあった。
「次の戦力について話す」
俺は新しい紙を取り出した。
「現在、アンティクイランド側の行動可能兵力は、中央軍約三千八百、傭兵約三千百、諸侯軍約二千二百。合計約九千百人」
そこへ、復帰可能な負傷兵が約三千五百人。
「治療が終われば、一万二千人台まで戻せる可能性がある」
「はい」
カイが答える。
「ただ、それでも一万七千百人には届きません」
「だから補う」
俺は言った。
「新たな傭兵を集める」
だが、今度はただ雇うだけではない。
「そして、一定数を正規軍へ編入する」
カイが頷く。
「再教育も必要ですね」
「ああ」
今回の戦争で明らかになった。
傭兵が弱かったわけではない。
問題は、正規軍や諸侯軍と別々の指揮系統で動いていたことだった。
「新しく集めた傭兵には、正規軍との共同運用を前提とした再教育を受けさせる。既存の傭兵についても同じだ。その上で、適性のある者を選抜して正規軍へ編入する」
「それなら、失った正規兵の穴をある程度埋められます」
「ああ」
俺は頷いた。
「人数だけを戻しても意味がない。次にシルウァニアと戦うなら、今度は一つの軍として動けるようにする」
今回の敗因の一つは、そこにあった。
シルウァニア軍は森と山を使った。
しかし、それだけではない。
俺たちの指揮系統が統一されていなかったからこそ、その地形を最大限に利用された。
「その問題も、王都で提案する」
俺は小箱を閉じた。
「これを持って王都へ戻る」
ティアが頷く。
「うん」
カイも一礼する。
「準備します、殿下」
俺はゆっくり立ち上がった。
今回の戦争で、多くの兵士が死んだ。
多くの兵士が負傷した。
カヴィーレスターン軍は総大将まで失った。
俺たちの南部方面軍は大きな損害を受け、戦線を後退させた。
それでも、俺は王都でこう言う。
大陸西部三国同盟軍は、シルウァニア王国軍の猛烈な反撃を受けながらも奮戦した。
そして、敵主力十万人を率いる王太子兼総大将セルシール・モンタヌスを討ち取った。
多大な犠牲を払いながらも、敵王太子という決定的な戦果を得た。
だから――。
これは勝利だった。
少なくとも、王都ではそう主張する。
俺自身が、この戦いを勝利だったと思っているわけではない。
それでも、あの犠牲をただの敗北として終わらせることだけはしない。
生き残った兵士たちのためにも。
そして、これからも続く戦争のためにも。
…そして、自らの保身の為にも。
俺は正義ではない。ただ生きようとしているだけだ。
保身がいくら汚くとも、それができないようでは貴族社会では愚か者だろう。
俺はセルシールのブローチを懐へしまい、ティア、カイ、エリシアたちとともに王都レクィエリアへ向かうことを決めた。




