第28話 狂気
エクィトゥム王国北西部、ルペリウス戦線。
シルウァニア王国との戦争が始まって以来、幾度となく前線の位置が変化してきたこの場所に、エクィトゥム王国軍の北西部方面軍司令部が置かれていた。周囲には兵士たちの天幕が立ち並び、負傷者を運ぶ者、物資を運ぶ者、次の命令を待つ者たちが行き交っている。しかし、開戦当初にあった勢いはすでに失われていた。
司令部中央の机には、シルウァニア王国全土を描いた大きな地図が広げられている。北西部ではルペリウス戦線が停滞し、南西部では前線基地を確保したものの大きな損害を受けて進撃が止まり、南部方面軍に至っては撤退を余儀なくされている。さらに南部では、カヴィーレスターン軍の総大将アイガード・ゼフィルが戦死し、三万三千人で侵攻した軍勢は大幅に戦力を失った。アンティクイランド軍も多数の死傷者を出し、諸侯軍や傭兵団も各地で孤立しながら後退している。
四十万人という巨大な大陸西部三国同盟軍を投入したにもかかわらず、シルウァニア王国は崩れていなかった。
「南部方面軍より、最新の報告です」
側近が書状を差し出す。
エクィトゥム王国王太子フィリウスは、それを受け取ると黙って読み進めた。
「……撤退は完了したのか」
「はい。ただし、損害が甚大です。カヴィーレスターン軍は総大将アイガード・ゼフィルを失い、各地に分散していた部隊の統制も大きく崩れています。アンティクイランド軍も国境付近まで後退し、南部方面は事実上、攻勢能力を失った状態です」
フィリウスは書状を閉じた。
「南西部は?」
「オスティエール公爵率いる四万人が防御壁を突破し、前線基地を制圧しました。しかし、戦死三千人、戦線離脱七千人という大きな損害を受け、現在は基地の維持を優先しています」
「北西部は?」
「ルペリウス戦線が停滞しています。シルウァニア軍は森と山岳地帯へ広く散開し、ゲリラ戦を継続しています。正面から戦えば退き、追えば別の場所へ現れるため、戦線を押し上げられていません」
フィリウスは地図へ視線を落とした。
北西部。
南西部。
南部。
全ての戦線で、シルウァニア軍が想定以上の抵抗を続けている。
最初に立案した「竜の祝福」は、すでに崩れ始めていた。
本来ならば、北西部でシルウァニア軍を引きつけ、南西部から大軍を投入し、敵主力を移動させる。その隙に北西部の主力を本格投入し、西半分を一気に制圧する。
だが、シルウァニア軍はその思惑通りには動かなかった。
さらに南部では、こちらの五万人が王都へ到達することなく押し返された。
「つまり、最初から敵の方がこちらの想定を上回っていたということですか」
士官の一人が呟いた。
「そうだ」
フィリウスは短く答えた。
「だが、敵が想定通りに動かなかったことを理由に、ここで戦争を止めるわけにはいかない」
フィリウスは立ち上がり、北西部へ目を向けた。
「作戦を変える」
周囲の士官たちが一斉に顔を上げる。
「『竜の祝福』を再編する」
フィリウスの指が北西部へ置かれる。
「未投入の二十万人を一斉に投入する」
室内にざわめきが起きた。
「二十万人を、全てですか?」
「ああ」
「しかし、ルペリウス戦線は現在でもゲリラ戦に苦しめられています。大軍を投入すれば、補給線がさらに――」
「だからこそ、一気に押し切る」
フィリウスは答えた。
「少数の部隊を送り続けるから、敵は森へ逃げ、山へ隠れ、こちらの後方へ回り込む。それなら、敵が対応しきれない規模で戦線そのものを押し広げる」
続いて指が南西部へ移る。
「南西部の未投入兵力六万人も動かす」
「既存の三万人と合わせて九万人になります」
「ああ」
フィリウスは頷いた。
「南西部では三万人を前面へ出す。そして追加の六万人によって戦線を支える」
その役割は明確だった。
敵主力を南西部へ釘付けにする。
その間に北西部の二十万人を動かし、戦線を突破する。
「敵が南西部へ戦力を集中させれば、北西部を押す。北西部へ戻れば、南西部の兵力で圧力を強める」
これまでの「竜の祝福」と似ている。
しかし、今度は規模が違う。
敵を巧みに誘導することだけに頼らない。
圧倒的な兵力そのもので、敵に対応を強いる。
「それでも、シルウァニア軍のゲリラ戦が残ります」
別の士官が指摘する。
「ああ」
フィリウスは頷いた。
「だから、もう一つの手を使う」
そして、地図上の海岸線へ視線を向けた。
「海軍を使う」
その言葉に、司令部が静まり返った。
「シルウァニア王国には海軍が存在する。確認されている艦艇は十五隻程度だ」
「対する我が国の海軍は約三百隻」
「そうだ」
これまで「竜の祝福」に海軍は含まれていなかった。
シルウァニア王国が山岳地帯と大森林によって守られている以上、陸軍によって正面から侵攻することが基本とされていたからだ。
しかし、シルウァニアには一つだけ、大きな例外がある。
「ヴェルゼバンセス」
シルウァニア王国唯一の港町。
フィリウスはそこへ指を置いた。
「ここから上陸する」
周囲の士官たちが地図を見つめる。
ヴェルゼバンセスは、陸上から攻める場合とは全く違う意味を持つ。
そこには大森林も山岳地帯もある。
だが、それは内陸側から見た場合の話だ。
海から接近すれば、既存の国境防衛線を迂回できる。
「まずエクィトゥム王国海軍約三百隻を投入する。シルウァニア海軍十五隻を撃滅し、制海権を確保する」
そして、そのまま上陸する。
「港を確保した後、追加の兵力を送り込む。まだ動員していない傭兵団、傭兵、民兵を可能な限り集める」
「ヴェルゼバンセスを第四の戦線にするのですね」
「ああ」
北西部。
南西部。
南部
そしてヴェルゼバンセス。
それだけではない。
陸と海から同時に攻めれば、シルウァニア軍はこれまでのように森林や山岳地帯へ兵力を集中させることが難しくなる。
フィリウスはさらに地図へ線を加えた。
「南西部の三万人と追加投入する六万人で、敵主力を抑える」
九万人。
その戦力によってシルウァニア軍の主力を拘束する。
「その間に、北西部の未投入二十万人を一斉投入する」
北西部では、これまで五万人規模で苦戦していた戦線へ、さらに二十万人を投入する。
「西半分を制圧する」
そして――。
「海軍によるヴェルゼバンセスへの上陸を成功させる」
さらに追加動員した傭兵団、傭兵、民兵を送り込む。
敵が北西部へ集中すれば海から攻撃する。
海へ兵を回せば北西部を押す。
南西部へ主力を集めれば、別の戦線から圧力をかける。
これまでの「竜の祝福」が敵の判断を利用する作戦だったとすれば、今度は敵に選択肢そのものを与えない。
「そして――」
フィリウスは北西部の広大な森林へ視線を向けた。
「ゲリラ戦への対策も変える」
士官たちの顔が強張る。
「シルウァニア軍が森林を戦場として利用するなら、こちらもその森林を無視できない」
「森林を攻略するのですか?」
「いや」
フィリウスは首を横に振った。
「森そのものを使えなくする」
その言葉の意味を理解した者が、徐々に表情を変える。
「……まさか」
「焼く」
司令部が静まり返る。
「森林を焼却し、シルウァニア軍が潜伏できる場所を失わせる」
「しかし、森には――」
「分かっている」
フィリウスの声は冷たかった。
「民間人がいる地域まで無差別に対象とするつもりはない。だが、軍事上必要な地域については森林を残さない」
それは極端な判断だった。
シルウァニア軍は、森を利用してゲリラ戦を続けている。
ならば、森を戦場として利用できなくする。
敵兵を一人ずつ追い回すのではない。
敵が身を隠す場所そのものを奪う。
思想としては、後世の戦争で植生を軍事的に利用できなくするために行われた枯葉剤散布を思わせる、極めて苛烈な発想だった。ただし、この時代に存在するのは化学物質ではない。フィリウスが選ぼうとしているのは、火によって森林そのものを失わせるという、より原始的で破壊的な手段だった。
「ゲリラ兵を追い続ければ、こちらが先に疲弊する」
フィリウスは地図を見つめた。
「ならば、敵が使う場所をなくす」
誰も言葉を返さなかった。
これまでのエクィトゥム王国の戦争は、基本的に敵軍を撃破し、敵の拠点を奪い、領土を制圧するものだった。
しかし、今度の作戦は違う。
敵が戦うために利用している環境そのものへ手を伸ばす。
森林を焼く。
潜伏場所を消す。
ゲリラ戦の基盤そのものを奪う。
フィリウスは、それが狂気に近い手段であることを理解していた。
それでも、手を引かなかった。
フィリウスは最後に、作戦全体を確認した。
北西部。
未投入二十万人を一斉投入。
南西部。
既存三万人と追加六万人によって敵主力を拘束。
海上。
エクィトゥム王国海軍約三百隻によってシルウァニア海軍十五隻を撃破。
そして、シルウァニア王国唯一の港町ヴェルゼバンセスへの上陸。
さらに、未動員だった傭兵団、傭兵、民兵を可能な限り招集して追加投入。
そして北西部の森林地帯では、ゲリラ戦を封じるための森林焼却。
当初の「竜の祝福」は、すでに原形を留めていなかった。
しかし、その中心にある目的だけは変わらない。
シルウァニア王国軍を分散させる。
敵が対応しようとした瞬間、別の戦線を動かす。
そして最終的には、西半分を大軍によって制圧する。
「準備を始めろ」
フィリウスが命令する。
「今度は、シルウァニア王国に選択させる」
士官たちが一斉に敬礼した。
伝令が北西部へ走る。
南西部へも命令が送られる。
港湾都市ヴェルゼバンセスへ向け、海軍の出撃準備が始まる。
各地では追加動員の命令が出され、傭兵団や傭兵、民兵の招集も始まった。
そして北西部の森林では、これまでとは全く違う命令が準備されていく。
シルウァニア軍が森に潜むなら、森を奪う。
森を奪えないのなら――。
森そのものを消す。
フィリウスが切ろうとしている最後の切り札は、もはや単なる軍事作戦ではなかった。
それは、シルウァニア王国の抵抗そのものを、根元から断ち切ろうとする狂気の作戦へと変わり始めていた。




