第26話 賭け
翌朝。
森の中には、薄い霧が残っていた。
岩陰で一晩を過ごした俺たちは、まだ日が十分に昇らないうちに行動を再開した。もちろん、十分な休息を取れたわけではない。何の道具もない野営だったうえ、いつシルウァニア軍が現れるか分からない状況で、まともに眠れるはずもなかった。
それでも、俺は立ち上がった。
立ち上がった――はずだった。
「……」
足に力が入らない。
視界が一瞬だけ揺れる。
俺は木へ手をつき、何とか身体を支えた。
「レノ!」
ティアがすぐに駆け寄ってくる。
「大丈夫?」
「ああ……」
「大丈夫じゃないよ」
ティアが俺の顔を見る。
「昨日倒れたばかりなのに、もう歩こうとしてるんだから」
「ここに留まる方が危険だ」
「それは分かってる。でも、今のレノじゃ――」
「行く」
俺はゆっくり身体を起こした。
「ここに長くいれば、それだけ見つかる可能性が上がる」
ティアは何か言いたそうだったが、結局それ以上は言わなかった。
「……分かった。でも、無理だと思ったらすぐ言って」
「ああ」
俺は頷いた。
エリシアと四人の護衛兵も立ち上がる。
こうして俺たちは、再び森の中を進み始めた。
だが、昨日までとは違う。
俺の身体は明らかに重くなっていた。
一歩進む。
また一歩。
それだけなのに、妙に時間がかかる。
ティアが時折こちらを振り返る。
エリシアも何度か足を止める。
護衛兵たちも周囲への警戒を続けている。
俺はそれが分かっていた。
心配をかけている。
それでも、自分の足で歩くしかない。
俺たちは森の奥へ進んだ。
しばらくして、エリシアが突然手を上げた。
全員が足を止める。
「……前方に人の気配があります」
俺は木々の隙間から前を見る。
遠くに、兵士の姿が見えた。
一人ではない。
何人もいる。
迷彩代わりなのか、周囲の森に馴染むような装備を身につけた兵士たちだった。
俺は息を潜める。
数を数える。
一人。
二人。
三人。
さらに奥にもいる。
「シルウァニア軍だ」
俺が小さく言った。
四人の護衛兵がすぐに身を低くする。
「ここから動かない方がいいでしょう」
エリシアが囁く。
「ああ」
俺たちは森の中で動きを止めた。
そのまましばらく待つ。
シルウァニア軍は、こちらに気づいている様子はない。
しかし、問題はその先だった。
兵士たちの中心に、一人の青年がいる。
他の兵士とは明らかに違う装備だった。
武骨な造りの鎧。
厚みのある装甲。
山岳地帯での戦闘を想定したような頑丈さがある。
それなのに、各部の造形は驚くほど繊細だった。
肩や胸部には装飾があり、動きを邪魔しないよう細かく調整されている。
「……あの人」
ティアが小声で言った。
「ただの兵士じゃない」
「ああ」
俺は目を細めた。
青年は周囲の兵士たちへ何か指示をしている。
立ち振る舞いも違う。
単なる部隊長ではない。
そして、その時だった。
近くにいたシルウァニア兵たちの会話が聞こえてきた。
「王太子殿下、こちらの道は問題ありません」
「そうか。では、南側へ回ってくれ」
「承知しました、セルシール殿下」
俺の思考が止まった。
「……セルシール?」
聞き間違いではない。
シルウァニア王国王太子。
セルシール・モンタヌス。
俺がこれまで報告書でしか知らなかった人物が、目の前にいる。
ティアも息を呑んだ。
「まさか……」
「間違いない」
俺は青年を見つめた。
シルウァニア王国王太子セルシール・モンタヌス。
現在の南部戦線で、十万人規模の主力軍を動かしている人物。
俺たちが逃げているこの戦場を、シルウァニア側から指揮している中心人物の一人。
そして今、その本人がわずかな護衛を連れて俺たちの近くにいる。
俺は周囲を確認した。
シルウァニア兵は三百人ほど。
数は圧倒的に多い。
正面から戦えば勝ち目はない。
しかも俺は、まともに走れる状態ですらない。
では、どうする。
俺はセルシールを見た。
そして気づく。
彼は常に兵士たちに囲まれているわけではない。
部下へ指示を出す時、一時的に周囲が離れる瞬間がある。
わずかな時間だ。
だが、それで十分かもしれない。
「レノ?」
ティアが俺の表情を見る。
「どうしたの?」
俺はすぐには答えなかった。
目の前にはシルウァニア王国王太子。
その周囲には三百人の兵士。
こちらは七人。
しかも俺は疲労で身体が限界に近い。
普通に考えれば、どう考えても無謀だった。
しかし――。
セルシールは、この戦争でシルウァニア軍を動かしている中心人物だ。
もしここで彼を失えば、少なくともシルウァニア軍の指揮に大きな影響が出る可能性がある。
だからこそ、俺は一つの決断を下した。
「セルシールが一人になる瞬間を待つ」
ティアが目を見開く。
「まさか……」
「ああ」
俺は小さく頷いた。
「この状況で正面から戦うのは無理だ。だったら、機会を待つ」
エリシアが俺を見る。
「殿下、それはあまりにも危険です」
「分かってる」
「発見されれば、我々七人では――」
「分かってる」
俺は言葉を遮った。
成功する保証などない。
むしろ失敗する可能性の方が高い。
だが、今の俺たちには他に選択肢がない。
俺たちは敗走している。
南部方面軍は崩壊した。
アイガード大族長は戦死した。
諸侯軍と傭兵団も散り散りになった。
そして俺自身も、満足に動けないほど疲弊している。
そんな状況で、目の前に敵の王太子が現れた。
これをただの偶然として見逃すのか。
それとも――。
「レノ」
ティアが俺を見つめる。
「本当にやるの?」
「……ああ」
俺は静かに答えた。
「危険なのは分かってる」
セルシールが再び部下へ指示を出している。
その周囲の兵士たちが動く。
わずかな隙間が生まれる。
また兵士が戻る。
そして再び離れる。
ほんの一瞬。
それでも、俺はその瞬間を見逃さなかった。
「まだ動かない」
俺が小声で言う。
「もっと待つ」
ティアが頷く。
エリシアと四人の護衛兵も静かに身を潜める。
森の中。
三百人のシルウァニア兵の目を避けながら、俺たち七人は息を潜めていた。
目標は一人。
シルウァニア王国王太子セルシール・モンタヌス。
俺たちに残されたのは、ほんの僅かな体力と、極めて危険な一つの賭けだった。




