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氷の奇公子 ~変人王子の生存術~  作者: 佐藤湊
第5章 シルウァニア戦争
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第25話 追手

 森の中をどれほど歩いたのか、もう分からなかった。


 俺たちは七人だけで山道から外れ、大森林の中をひたすら進んでいた。エリシアと四人の護衛兵が周囲を警戒し、ティアが俺のすぐ隣を歩いている。後方から敵が追ってきている可能性は高い。だからこそ、声を出すことも極力避けなければならなかった。


 だが、俺の身体はすでに限界へ近づいていた。


 連日の戦闘と撤退。


 まともな睡眠を取ることもできず、食事も十分ではない。軍全体の状況を把握するために何度も地図を確認し、届く報告に対して判断を下し、自ら第一軍団を率いて戦場へ出た。その上で、今は山道を歩き続けている。


 身体が重い。


 足が思うように前へ出ない。


 頭の奥がぼんやりする。


「レノ、大丈夫?」


 ティアが心配そうにこちらを見る。


「ああ……まだ歩ける」


 そう答えたものの、自分でも説得力がないことは分かっていた。


 少し前までなら、これくらいの疲労は気にしなかっただろう。だが今は違う。足を一歩動かすたびに身体から力が抜けていくような感覚がある。


 それでも、俺は進んだ。


 止まるわけにはいかなかった。


 ここで立ち止まれば、シルウァニア軍に追いつかれる。


 やがて先頭を歩いていたエリシアが足を止めた。


「殿下」


「何だ?」


「前方に大きな岩があります。その陰なら、少なくとも外からは見えにくいかと」


 俺は前を見る。


 確かに、森の中に大きな岩が張り出している。その周囲には木々が密集しており、街道からも離れている。


「……少し休もう」


 ティアがすぐに頷いた。


「うん」


 俺たちは岩陰へ入った。


 野営の準備と言っても、何か特別な道具があるわけではない。テントも毛布もない。火を焚けば煙で位置を知られる可能性があるため、それすら使えない。


 ただ岩陰へ身を寄せ、周囲の木々を利用して姿を隠すだけだった。


「今日はここで休みます」


 エリシアが小さな声で言う。


「火は?」


「焚かない方がいいでしょう」


 四人の護衛兵も頷いた。


「そうだな」


 俺は岩へ背を預けた。


 座った瞬間、全身から力が抜けた。


「……」


 ティアがすぐに俺の顔を見る。


「やっぱり限界だったんじゃない」


「少し……疲れていただけだ」


「少しじゃないよ」


 ティアの声が震える。


「ずっと無理してたでしょう」


 俺は返事をしなかった。


 否定できない。


 ティアはしばらく俺を見つめ、それから静かに隣へ座った。


「今は何も考えなくていいよ」


「でも――」


「軍のことはアトラシート伯爵とカイに任せたんでしょう?」


「ああ」


「なら、今は休んで」


 俺は目を閉じた。


 正直、もう考えることすら辛かった。


 敗北。


 撤退。


 カヴィーレスターン軍。


 アイガード。


 諸侯軍。


 傭兵団。


 シルウァニア軍。


 次々と頭へ浮かんでは消えていく。


 俺はそれらを無理やり押し込めようとした。


 しかし、身体が先に限界へ達した。


 視界が暗くなる。


「レノ?」


 ティアの声が聞こえる。


「……大丈夫」


「レノ!」


 俺はそのまま意識を失った。


 どれほどの時間が経ったのか分からない。


 目が覚めた時、周囲はすでに暗くなっていた。


 俺は岩陰に寄りかかったまま眠っていたらしい。


 ティアが隣にいる。


 エリシアと四人の護衛兵は、岩陰の外側を警戒していた。


「起きた?」


 ティアが小声で聞く。


「ああ」


 俺はゆっくり身体を起こした。


 まだ疲労は残っている。


 だが、倒れる前よりは少しだけ頭が働く。


「どれくらい寝てた?」


「少しだけ」


「そうか」


「無理して起きなくてもいいよ」


「もう大丈夫だ」


 ティアは何も言わなかった。


 ただ、心配そうな目をこちらへ向けている。


 俺はそれを見て、少しだけ笑った。


「心配しすぎだ」


「心配するよ」


 ティアは即答した。


「今のレノ、見ていて怖いくらい疲れてるから」


 俺は何も言えなかった。


 しかし、その頃。


 俺たちが知らない場所で、シルウァニア軍は動いていた。


 撤退する連合軍の中から、まとまった人数が別の道へ逃げ込んだことを、シルウァニア軍は確認していた。


 数は十人前後。


 人数自体は多くない。


 だが、その中に重要な人物がいる可能性がある。


「護衛部隊らしき兵士が、森へ入るのを確認しました」


 シルウァニア軍の士官が報告する。


「人数は?」


「十人前後です」


「所属は?」


「確認できていません」


 士官は続ける。


「ただ、通常の敗残兵と違って隊列がまとまっています。周囲を警戒しながら移動しており、途中で特定の人物を中心に行動している様子も確認されています」


「……重要人物の可能性があるな」


「はい」


 追跡部隊が選ばれた。


 森と山岳地帯を知り尽くしたシルウァニア兵たちだった。


 彼らは大きな部隊を動かさない。


 数十人程度の小さな集団に分かれ、痕跡を追う。


 足跡。


 折れた枝。


 踏まれた草。


 人が通ったことで僅かに変化した森の様子。


 狩猟で培われた技術が、追跡にも活かされていた。


 やがて、その一隊が何かを発見した。


「こちらです」


 兵士が地面を指す。


 新しい足跡だった。


「間違いない」


 別の兵士が周囲を見る。


「まだ遠くない」


 追跡部隊は、さらに森の奥へ進んだ。


 一方、シルウァニア王国南部の別の場所では、王太子セルシール・モンタヌスのもとへ報告が届いていた。


「殿下」


「何だ?」


「南部方面で、逃走中の敵護衛部隊を発見した可能性があります」


「人数は?」


「十人前後です」


 セルシールが顔を上げる。


「重要人物の可能性は?」


「その可能性が高いかと」


「誰なのかは?」


「まだ確認できておりません」


 セルシールは少し考えた。


 大陸西部三国同盟軍は南部戦線で崩壊しつつある。


 カヴィーレスターン軍総大将アイガード・ゼフィルは戦死。


 諸侯軍や傭兵団も各地へ散っている。


 連合軍の指揮系統も崩れている。


 その中で、少人数の護衛部隊がまとまって移動している。


 ならば、単なる敗残兵ではない可能性がある。


「その地域へ向かう」


「殿下ご自身が?」


「そうだ」


 セルシールは立ち上がった。


「もし重要人物なら、逃すわけにはいかない」


 王太子自身が動けば、それだけで周囲の部隊が緊張する。


 命令を受けた兵士たちが動き始める。


 岩陰。


 俺たちはまだ、敵の接近に気づいていなかった。


 森は静かだった。


 風が木々を揺らしている。


 遠くで鳥の鳴き声が聞こえる。


 それだけだった。


 だが、エリシアが突然顔を上げた。


「……静かすぎます」


 俺は彼女を見る。


「何?」


「先ほどまで聞こえていた森の音が、止まっています」


 四人の護衛兵も周囲を警戒する。


 俺は立ち上がろうとした。


 だが、まだ身体が重い。


 ティアがすぐに俺を支えた。


「無理しないで」


「ああ……」


 俺は岩陰の外を見た。


 暗闇しか見えない。


 それでも、何かがおかしい。


 エリシアが剣へ手をかける。


「殿下、声を出さないでください」


 俺は頷いた。


 そして、森の奥から。


 ――枝が折れる小さな音が聞こえた。


 誰かが、こちらへ近づいている。


 俺は息を殺した。


 まだ、誰なのかは分からない。


 だが、追手がこちらへ近づいている。


 そしてその報告を受けたシルウァニア王国王太子セルシール・モンタヌスもまた、すでにこの地域へ向かっていた。

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