第25話 追手
森の中をどれほど歩いたのか、もう分からなかった。
俺たちは七人だけで山道から外れ、大森林の中をひたすら進んでいた。エリシアと四人の護衛兵が周囲を警戒し、ティアが俺のすぐ隣を歩いている。後方から敵が追ってきている可能性は高い。だからこそ、声を出すことも極力避けなければならなかった。
だが、俺の身体はすでに限界へ近づいていた。
連日の戦闘と撤退。
まともな睡眠を取ることもできず、食事も十分ではない。軍全体の状況を把握するために何度も地図を確認し、届く報告に対して判断を下し、自ら第一軍団を率いて戦場へ出た。その上で、今は山道を歩き続けている。
身体が重い。
足が思うように前へ出ない。
頭の奥がぼんやりする。
「レノ、大丈夫?」
ティアが心配そうにこちらを見る。
「ああ……まだ歩ける」
そう答えたものの、自分でも説得力がないことは分かっていた。
少し前までなら、これくらいの疲労は気にしなかっただろう。だが今は違う。足を一歩動かすたびに身体から力が抜けていくような感覚がある。
それでも、俺は進んだ。
止まるわけにはいかなかった。
ここで立ち止まれば、シルウァニア軍に追いつかれる。
やがて先頭を歩いていたエリシアが足を止めた。
「殿下」
「何だ?」
「前方に大きな岩があります。その陰なら、少なくとも外からは見えにくいかと」
俺は前を見る。
確かに、森の中に大きな岩が張り出している。その周囲には木々が密集しており、街道からも離れている。
「……少し休もう」
ティアがすぐに頷いた。
「うん」
俺たちは岩陰へ入った。
野営の準備と言っても、何か特別な道具があるわけではない。テントも毛布もない。火を焚けば煙で位置を知られる可能性があるため、それすら使えない。
ただ岩陰へ身を寄せ、周囲の木々を利用して姿を隠すだけだった。
「今日はここで休みます」
エリシアが小さな声で言う。
「火は?」
「焚かない方がいいでしょう」
四人の護衛兵も頷いた。
「そうだな」
俺は岩へ背を預けた。
座った瞬間、全身から力が抜けた。
「……」
ティアがすぐに俺の顔を見る。
「やっぱり限界だったんじゃない」
「少し……疲れていただけだ」
「少しじゃないよ」
ティアの声が震える。
「ずっと無理してたでしょう」
俺は返事をしなかった。
否定できない。
ティアはしばらく俺を見つめ、それから静かに隣へ座った。
「今は何も考えなくていいよ」
「でも――」
「軍のことはアトラシート伯爵とカイに任せたんでしょう?」
「ああ」
「なら、今は休んで」
俺は目を閉じた。
正直、もう考えることすら辛かった。
敗北。
撤退。
カヴィーレスターン軍。
アイガード。
諸侯軍。
傭兵団。
シルウァニア軍。
次々と頭へ浮かんでは消えていく。
俺はそれらを無理やり押し込めようとした。
しかし、身体が先に限界へ達した。
視界が暗くなる。
「レノ?」
ティアの声が聞こえる。
「……大丈夫」
「レノ!」
俺はそのまま意識を失った。
どれほどの時間が経ったのか分からない。
目が覚めた時、周囲はすでに暗くなっていた。
俺は岩陰に寄りかかったまま眠っていたらしい。
ティアが隣にいる。
エリシアと四人の護衛兵は、岩陰の外側を警戒していた。
「起きた?」
ティアが小声で聞く。
「ああ」
俺はゆっくり身体を起こした。
まだ疲労は残っている。
だが、倒れる前よりは少しだけ頭が働く。
「どれくらい寝てた?」
「少しだけ」
「そうか」
「無理して起きなくてもいいよ」
「もう大丈夫だ」
ティアは何も言わなかった。
ただ、心配そうな目をこちらへ向けている。
俺はそれを見て、少しだけ笑った。
「心配しすぎだ」
「心配するよ」
ティアは即答した。
「今のレノ、見ていて怖いくらい疲れてるから」
俺は何も言えなかった。
しかし、その頃。
俺たちが知らない場所で、シルウァニア軍は動いていた。
撤退する連合軍の中から、まとまった人数が別の道へ逃げ込んだことを、シルウァニア軍は確認していた。
数は十人前後。
人数自体は多くない。
だが、その中に重要な人物がいる可能性がある。
「護衛部隊らしき兵士が、森へ入るのを確認しました」
シルウァニア軍の士官が報告する。
「人数は?」
「十人前後です」
「所属は?」
「確認できていません」
士官は続ける。
「ただ、通常の敗残兵と違って隊列がまとまっています。周囲を警戒しながら移動しており、途中で特定の人物を中心に行動している様子も確認されています」
「……重要人物の可能性があるな」
「はい」
追跡部隊が選ばれた。
森と山岳地帯を知り尽くしたシルウァニア兵たちだった。
彼らは大きな部隊を動かさない。
数十人程度の小さな集団に分かれ、痕跡を追う。
足跡。
折れた枝。
踏まれた草。
人が通ったことで僅かに変化した森の様子。
狩猟で培われた技術が、追跡にも活かされていた。
やがて、その一隊が何かを発見した。
「こちらです」
兵士が地面を指す。
新しい足跡だった。
「間違いない」
別の兵士が周囲を見る。
「まだ遠くない」
追跡部隊は、さらに森の奥へ進んだ。
一方、シルウァニア王国南部の別の場所では、王太子セルシール・モンタヌスのもとへ報告が届いていた。
「殿下」
「何だ?」
「南部方面で、逃走中の敵護衛部隊を発見した可能性があります」
「人数は?」
「十人前後です」
セルシールが顔を上げる。
「重要人物の可能性は?」
「その可能性が高いかと」
「誰なのかは?」
「まだ確認できておりません」
セルシールは少し考えた。
大陸西部三国同盟軍は南部戦線で崩壊しつつある。
カヴィーレスターン軍総大将アイガード・ゼフィルは戦死。
諸侯軍や傭兵団も各地へ散っている。
連合軍の指揮系統も崩れている。
その中で、少人数の護衛部隊がまとまって移動している。
ならば、単なる敗残兵ではない可能性がある。
「その地域へ向かう」
「殿下ご自身が?」
「そうだ」
セルシールは立ち上がった。
「もし重要人物なら、逃すわけにはいかない」
王太子自身が動けば、それだけで周囲の部隊が緊張する。
命令を受けた兵士たちが動き始める。
岩陰。
俺たちはまだ、敵の接近に気づいていなかった。
森は静かだった。
風が木々を揺らしている。
遠くで鳥の鳴き声が聞こえる。
それだけだった。
だが、エリシアが突然顔を上げた。
「……静かすぎます」
俺は彼女を見る。
「何?」
「先ほどまで聞こえていた森の音が、止まっています」
四人の護衛兵も周囲を警戒する。
俺は立ち上がろうとした。
だが、まだ身体が重い。
ティアがすぐに俺を支えた。
「無理しないで」
「ああ……」
俺は岩陰の外を見た。
暗闇しか見えない。
それでも、何かがおかしい。
エリシアが剣へ手をかける。
「殿下、声を出さないでください」
俺は頷いた。
そして、森の奥から。
――枝が折れる小さな音が聞こえた。
誰かが、こちらへ近づいている。
俺は息を殺した。
まだ、誰なのかは分からない。
だが、追手がこちらへ近づいている。
そしてその報告を受けたシルウァニア王国王太子セルシール・モンタヌスもまた、すでにこの地域へ向かっていた。




