第24話 待ち伏せ
シルウァニア軍による追撃は、俺たちが想像していた以上に執拗だった。
しかし、不思議なことに、彼らは俺たちを完全に包囲しようとはしなかった。正面から圧力をかけ、側面へ回り込み、後方へも部隊を送り込んでいるにもかかわらず、最後の逃げ道だけは意図的に残されているように見える。最初は偶然だと思っていた。だが、何度も同じことが繰り返されるうちに、これがシルウァニア側の意思なのだと気づいた。
逃げ道を残している。
完全に追い詰めれば、俺たちは生き残るために全力で反撃するしかなくなる。だが、逃げられる場所があるなら、兵士たちはそちらへ向かう。そうなれば、戦い続けるよりも撤退を選ぶ者が増える。
死兵を作らない。
逃げ道を残したまま、敗走させる。
それによって、こちらに最後の抵抗をさせず、軍そのものを後退させる。
「殿下!」
カイが叫ぶ。
「前方の街道が空いています!」
「敵は?」
「現在、確認できません!」
俺は地図を見る。
確かに、前方には一本の街道がある。狭い山道ではあるが、このまま進めば現在の包囲網から抜けられる可能性がある。
「全部隊へ伝えろ!」
俺は命令した。
「この街道を通って後方へ抜ける! 止まるな!」
だが、命令が届く前に別の場所から叫び声が聞こえた。
「敵襲!」
「後方です!」
「東側からも来ています!」
それでも、前方は空いている。
俺は決断した。
「前へ進む!」
兵士たちが動く。
山道へ殺到する。
大量の兵が一気に流れ込んだため、再び隊列が詰まりかける。それでも、ここで止まるわけにはいかなかった。
後方では戦闘が続いている。
側面からもシルウァニア軍が近づいている。
前方には、まだ完全に閉じられていない道がある。
「急げ!」
俺は叫んだ。
兵士たちが進む。
先頭の部隊が山道を抜ける。
続いて中央部隊が進む。
後衛が敵の攻撃を受けながらも時間を稼ぐ。
そして――。
「抜けました!」
伝令が叫んだ。
俺は思わず息を吐いた。
完全な包囲になる前に、俺たちは包囲網の一角を抜けることに成功した。
だが、その先に待っていたのは勝利ではなかった。
撤退後。
南部方面軍は、もはや軍としての形を保っていなかった。
カヴィーレスターン軍は総大将を失い、各部隊へ分散したまま後退している。諸侯軍や傭兵団も、それぞれ別の道を使って撤退していた。
中央軍も無傷ではない。
長時間にわたる戦闘と撤退によって疲労が極限に達し、隊列を整えることすら難しくなっていた。
そして、俺たちが包囲網を抜けた頃には、南部方面軍の後退はもはや秩序ある撤退とは呼べない状態になっていた。
部隊が走る。
別の部隊が横切る。
負傷者を運ぶ者がいる。
物資を捨てて進む者もいる。
指揮官が部下を集めようとしても、その声は周囲の喧騒に埋もれていく。
「殿下!」
アトラシート伯爵が駆けてきた。
「どうなっていますか?」
「本隊の前方が崩れています」
俺は地図を見る。
もはや細かな配置を把握できる状態ではない。
「カイ」
「はい」
「伯爵と一緒に本隊をまとめろ」
「殿下?」
「俺が前線に残れば、第一軍団も俺についてくる」
俺は答えた。
「なら、俺が離れて本隊の統率を任せる」
カイは一瞬、迷った。
「ですが、殿下ご自身が後方へ下がられるのは……」
「俺には別の役目がある」
俺は周囲を見た。
第一軍団。
ティア。
そして、まだ俺の指揮を必要としている兵士たち。
「お前たちは本隊をまとめろ。可能な限り兵士を集めて、後方へ下げるんだ」
「……承知しました」
カイが一礼する。
「殿下も必ずお戻りください」
「ああ」
アトラシート伯爵も頷いた。
「では、参ります」
二人が本隊へ向かっていく。
俺はその背中を見送った。
これで、俺の周囲に残る兵は大きく減る。
だが、その方がいい。
本隊を少しでもまとまった状態で後方へ下げるには、指揮を一本化する必要がある。
俺自身がそこにいれば、どうしても第一軍団が俺の周囲へ集まる。
それでは本隊全体をまとめることが難しくなる。
「ティア」
「うん」
「俺たちは別の道を探す」
ティアが頷いた。
「分かった」
俺たちはエリシアと、残った護衛兵百人とともに撤退を続けることになった。
しばらくして、偵察に出ていた兵士が戻ってきた。
「殿下!」
「何だ?」
「北東側に、別の道があります!」
地図を見せられる。
「大きな街道ではありません。ただ、この先を抜ければ後方の街道へ合流できます」
「敵は?」
「現在のところ確認されていません」
俺は地図を見る。
大きく迂回する必要がない。
それなら、この道を使う価値はある。
「そこを使おう」
俺たちは進路を変えた。
森の中へ入る。
道は狭い。
馬を進めるのも簡単ではない。
しかし、大軍が使っていない道なら、敵に見つかりにくい可能性がある。
俺はそう考えていた。
だが――。
「……静かすぎる」
エリシアが小さく呟いた。
俺も周囲を見る。
鳥の声がない。
風で葉が揺れる音だけがする。
嫌な予感がした。
「止まれ」
俺が命じる。
百人の護衛兵が足を止める。
その瞬間だった。
前方の木々の間から、人影が現れた。
一人。
二人。
さらに奥からも姿を見せる。
「敵!」
護衛兵が叫ぶ。
森の両側からシルウァニア兵が姿を現した。
その数は――約三百。
俺たちの前方にも。
左右にも。
退路にも敵の姿が見える。
「……待ち伏せか」
俺は唇を噛んだ。
偵察兵が発見した「近道」。
だが、そこはすでにシルウァニア軍に押さえられていた。
俺たちは知らないまま、敵の待ち構える場所へ入ってしまった。
「護衛隊、前へ!」
百人の兵士が俺とティアの前に出る。
「道を開けろ!」
シルウァニア軍が動く。
数は三倍。
しかも森の中では、大人数の部隊を一度に運用することが難しい。
それでも、敵はこの地形を知り尽くしている。
護衛兵たちは必死に戦う。
俺も剣を抜いた。
「レノ!」
ティアが叫ぶ。
「大丈夫だ!」
俺は周囲を見た。
ここで戦い続ければ、全員が包囲される。
だが、敵の一角に僅かな隙がある。
「そこを抜ける!」
俺が指した先へ、護衛兵が集中する。
しかし、シルウァニア軍が次々と押し寄せてくる。
百人対三百人。
人数の差は大きい。
そして、ここまで撤退を続けてきた俺たちは、すでに体力を大きく消耗している。
それでも護衛兵たちは退かなかった。
「殿下、先へ!」
「だが――」
「ここは我々が!」
別の兵士が叫ぶ。
「殿下をお守りすることが我々の役目です!」
少しずつ、俺とティアの周囲から護衛兵が離れていく。
敵を食い止める者。
道を確保する者。
後方を守る者。
俺たちを逃がすために、それぞれが別の役割を担っていく。
「レノ、行こう!」
ティアが俺の腕を引く。
「……分かった」
俺たちは走った。
森の中を進む。
後ろから戦闘音が聞こえる。
振り返ることはできない。
振り返れば、足が止まる。
そして、止まれば敵に追いつかれる。
俺は歯を食いしばって走った。
身体が重い。
息が苦しい。
頭もぼんやりする。
それでも、前へ進む。
しばらくして、ようやく少し開けた場所へ出た。
そこには、俺たち以外に四人の護衛兵がいた。
エリシアもいる。
それまで百人いた護衛は、戦闘の混乱の中でほとんどが残っていなかった。
「殿下……」
エリシアが息を整える。
「こちらへ」
残ったのは、俺とティア。
エリシア。
そして四人の護衛兵。
わずか七人。
それだけだった。
俺は後方を見る。
戦闘音がまだ遠くから聞こえる。
百人の護衛兵が、俺たちを逃がすために残った。
その数が、今では大きく減っている。
俺は拳を握った。
しかし、もう戻れない。
「行こう」
俺は言った。
ティアが頷く。
エリシアも続く。
四人の護衛兵が周囲を警戒する。
俺たちは七人で、再び森の中を進み始めた。
南部方面軍は、完全に崩壊していた。
カヴィーレスターン軍は総大将を失い、各地へ散り散りになった。
諸侯軍や傭兵団も、それぞれ別の場所で撤退している。
中央軍も、本隊をまとめながら辛うじて後退しているに過ぎない。
そして俺自身も、もはや大軍を率いる王太子ではなかった。
今、俺の周囲にいるのは、ティアとエリシア、そして僅か四人の護衛だけ。
俺たちはただ、生きて後方へ帰るために歩いていた。
だが、俺にはまだ分からないことがあった。
なぜシルウァニア軍はこれほど正確に俺たちの退路を塞げるのか。
なぜ敵の攻撃が、南部戦線の至る所で同時に起きているのか。
そして――。
なぜ、俺たちが逃げようとする先に、次々とシルウァニア軍が現れるのか。
その答えを知るまで、まだ時間が必要だった。




