第23話 疲労
撤退命令が出されてから、南部方面軍の混乱はさらに深刻になっていた。カヴィーレスターン軍はすでに総大将アイガード・ゼフィルを失い、各地に分散していた部隊がそれぞれ別の方向へ後退を始めている。諸侯軍や傭兵団もまた、敵の攻撃を受けながら撤退を開始していたが、大陸西部三国同盟軍そのものの指揮系統が統一されていない以上、全軍を同じ命令で動かすことなどできなかった。
「諸侯軍第三隊からの報告は?」
俺が尋ねると、アトラシート伯爵が地図へ目を落とした。
「現在、連絡が取れておりません」
「最後に確認された場所は?」
「三時間ほど前の報告では、こちらです」
伯爵が指したのは、すでに後方へ下がり始めているはずの地域だった。俺は地図を見つめる。三時間も経っているなら、そこにまだ部隊がいるとは考えにくい。敵と交戦しているのか、すでに撤退しているのか、それとも別の部隊と合流したのか。そのどれなのかさえ分からない。
「では、今どこにいる?」
「分かりません」
その答えに、俺は黙り込んだ。
傭兵団についても同じだった。複数の部隊から撤退要請が届いているものの、その後の連絡が途絶えている。伝令を送り出しても戻ってこない。戻ってきたとしても、その報告は数時間前の情報でしかない。山岳地帯と大森林が入り組むシルウァニア南部では、遠く離れた部隊同士の連絡を維持することそのものが困難だった。
「南側の諸侯軍は?」
「行方を確認中です」
「東側の傭兵団は?」
「そちらも連絡が途絶えています」
「カヴィーレスターン軍の残存部隊は?」
「一部は確認できています。ただし、どこまでまとまっているのかまでは……」
アトラシート伯爵が言葉を濁す。
俺は何も言わずに地図を見た。そこに記されている情報は、刻一刻と古くなっていく。地図の上では部隊が存在していても、実際にはすでに移動している可能性が高い。敵についても同じだった。
どこにいるのか分からない。
何人いるのか分からない。
そして味方も、どこにいるのか分からない。
これまでの戦争なら、少なくとも自分たちの周囲に何が起きているのかは把握できていた。だが、今は違う。俺たちは大森林と山岳地帯の中で、数万人規模の軍勢をいくつもの部隊へ分散させ、その全てが別々の場所で敵と接触している。しかも、それぞれの軍には独自の指揮官が存在し、統一された指揮系統を持っていない。
俺がどれだけ命令を出しても、それが南部方面軍全体へ同時に行き渡るわけではない。
それが、今になって致命的な問題となっていた。
撤退する兵士たちの列は、次第に長くなっていた。しかし、それは整然とした軍列ではなかった。中央軍の兵士、カヴィーレスターン軍の兵士、諸侯軍、傭兵団、それぞれの兵士が別々の道から後方へ向かい、狭い街道へ合流するたびに隊列が詰まっていく。
「前を空けろ!」
「この部隊を先に通せ!」
「負傷者がいる!」
「敵が近いぞ!」
怒号が飛び交う。
誰もが急いでいる。
だが、急げば急ぐほど混乱する。
狭い山道では兵士が横へ広がることができず、前方で少しでも部隊が止まれば、その後ろに数百人、数千人が詰まっていく。そこへ負傷者を乗せた荷車や軍需物資を運ぶ車列まで加わるため、撤退速度はさらに落ちていた。
「レノ!」
ティアが俺のところへ駆けてくる。
「何だ?」
「さっきからずっと立ったままだよ」
「そうだな」
俺は地図へ視線を戻す。
「少し休んだ方がいい」
「今はそんな余裕――」
「あるよ」
ティアは俺の言葉を遮ることなく、静かに言った。
「顔色が悪い」
俺は一瞬、返事ができなかった。
自分でも分かっていた。
連日の戦闘。
まともに取れていない睡眠。
絶え間なく届く報告。
それに加えて、撤退という決断を下した直後から、俺は一度も気を抜けていない。
身体が重い。
頭も重い。
立っているだけなのに、足元が少し頼りない。
それでも今は、休んでいる場合ではないと思っていた。
「まだ大丈夫だ」
「その言い方、前にも聞いた」
ティアが心配そうに俺を見る。
「大丈夫じゃない時も、そう言うよね」
「……」
俺は答えられなかった。
「少なくとも、座って」
ティアに促され、俺は近くの椅子へ腰を下ろした。座った瞬間、思っていた以上に身体へ疲労が溜まっていたことに気づく。これまで立ったまま指揮していたから、気づかなかっただけなのかもしれない。
ティアはしばらく俺の顔を見ていたが、それ以上は何も言わなかった。ただ、エリシアへ目配せして、水を持ってこさせる。
「飲んで」
「ああ」
俺は水を受け取り、ゆっくり口にした。
少しだけ頭が冷える。
それでも、疲労そのものが消えるわけではない。
「レノ」
「何だ?」
「無理しないで」
その声に、いつもの軽さはなかった。
「今は軍全体が大変だからこそ、レノまで倒れたらもっと大変になるよ」
「……分かってる」
俺はそう答えた。
だが、それでも俺の視線は地図から離れなかった。
俺一人が休んだところで、シルウァニア軍の攻撃は止まらない。
カヴィーレスターン軍の崩壊も止まらない。
諸侯軍も傭兵団も、それぞれの場所で戦いながら撤退している。
俺たちが生き残るためには、今ここで一つでも多くの判断をしなければならない。
「殿下」
カイが近づいてきた。
「何だ?」
「東側の諸侯軍から、再び報告が入っています」
「内容は?」
「撤退中とのことです。ただし、どの集結地点へ向かっているのかは確認できておりません」
「……分かった」
カイは一度地図を確認してから続ける。
「それから、南側の傭兵団についてですが、こちらも独自に撤退を開始したようです」
「集結地点は?」
「不明です」
「カヴィーレスターン軍は?」
「同じくです。複数の部隊が後方へ下がっていますが、統一された経路を使っているわけではありません」
俺はため息をついた。
カイは俺の顔色を見ると、一瞬だけ目を細めた。
「殿下、少しお休みください」
「カイまで言うのか」
「この状況では、殿下の判断力が落ちることの方が危険です」
側近としての落ち着いた口調だった。
「第一軍団だけでも、まだ殿下が直接指揮できます。ですから、その指揮を維持するためにも休息は必要です」
「……分かった」
俺は渋々頷いた。
カイの言うことは正しい。
もし俺が判断を誤れば、第一軍団まで危険に晒す。
それだけは避けなければならない。
「では、第一軍団の現在位置を維持する」
「承知しました」
「他部隊の救援は?」
「独断では動かない。まず連絡が取れた部隊だけ、可能な範囲で支援する」
「はい」
カイが一礼する。
だが、その直後だった。
遠くから角笛が鳴った。
一度。
二度。
別の方向からも応答するように角笛が鳴る。
兵士たちが一斉に振り返る。
「敵襲か?」
「分かりません!」
誰かが叫ぶ。
別の場所では戦闘音が響き始める。
だが、それがどの部隊のものなのか、誰にも分からない。
俺は立ち上がろうとした。
「レノ!」
ティアが俺の肩へ手を置く。
「無理しないで」
「敵の動きを確認する」
「座ったままでも確認できる」
俺は一瞬だけティアを見た。
そして再び地図へ目を戻した。
やはり、情報が足りない。
敵がどこから来たのか分からない。
味方がどこにいるのかも分からない。
それでも俺たちは、撤退しなければならない。
完全な包囲が完成する前に、少しでも後方へ下がらなければならない。
「第一軍団は止めるな」
俺は言った。
「ゆっくりでもいい。隊列を崩すな」
「承知しました」
カイが答える。
その声を聞きながら、俺は地図を見つめた。
自分たちだけなら、まだ指揮できる。
だが、南部方面軍全体となると無理だ。
カヴィーレスターン軍は崩壊している。
諸侯軍も別々に動いている。
傭兵団も同じだ。
誰がどこにいるのか分からない。
そして、俺たちを追っているシルウァニア軍は、そんな混乱を利用して確実にこちらへ圧力をかけ続けている。
「……これが撤退戦なのか」
俺は小さく呟いた。
勝つために前へ進むのではない。
生き残るために後ろへ下がる。
しかも、その後ろへ続く道すら安全ではない。
その時だった。
前方から、また新たな伝令が駆けてきた。
「殿下!」
「どうした?」
「西側の街道で、大規模な部隊が後退しています!」
「どこの部隊だ?」
「確認できません!」
俺は目を閉じ、一度だけ深く息を吐いた。
もう、考えている時間すら少ない。
それでも、第一軍団だけはまとめる。
ティアの心配そうな視線を感じながら、俺は再び地図へ目を向けた。
南部方面軍の撤退は、始まったばかりだった。
そしてその先には、十三万人を超えるシルウァニア軍が待ち構えている。
俺たちが完全に包囲される前に、この大森林と山岳地帯を抜けなければならない。




