第22話 撤退戦開始
撤退命令を出してから、まだそれほど時間は経っていなかった。
それなのに、南部方面軍の戦場は、まるで別の場所へ変わってしまったかのようだった。
カヴィーレスターン軍はすでに各地で後退を始めている。アンティクイランド軍も、それまで確保していた村や砦から順次兵を引き上げ、中央軍も後続部隊をまとめながら後方へ向かおうとしていた。だが、大軍が一斉に撤退できるほど、この土地の道は広くない。
山道は狭い。
森林の中を通る道は一本しかない場所もある。
大人数の兵士や物資が一つの街道へ集中すれば、すぐに隊列が詰まってしまう。さらに負傷者を運ぶ部隊や、破損した車両、補給物資まで加われば、兵士たちは思うように前へ進めなくなる。
俺は騎馬の上から、目の前の長い軍列を見つめていた。
「進め!」
「前が止まっています!」
「道を空けろ!」
「負傷者を先に通せ!」
怒号が飛び交っている。
誰もが急いでいる。
だが、急げば急ぐほど隊列が乱れる。
その時だった。
「殿下!」
後方から伝令が駆けてきた。
「シルウァニア軍が後方へ回り込んでいます!」
俺は振り返る。
「規模は?」
「確認できません!」
「またか……」
しかし、すぐに別の伝令が来た。
「東側の森林から敵軍が出現しました!」
「西側もです!」
さらに報告が重なる。
「南側の山道に敵影!」
「北側の街道も封鎖された可能性があります!」
俺は地図を開いた。
赤い印が次々と書き込まれていく。
その瞬間、ようやく一つの事実が見えてきた。
俺たちの後方には、すでに複数のシルウァニア軍が入り込んでいる。
左右にも敵影がある。
前方にも、まだ完全に安全とは言えない。
「まさか……」
俺は地図を見つめた。
シルウァニア軍は、俺たちを追撃しているだけではない。
最初から包囲を始めていた。
南部戦線のさらに奥では、シルウァニア軍の主力が動いていた。
王太子セルシール・モンタヌス率いる十万人。
そして第一王女ビュルニア・モンタヌスが率いる南部方面防衛軍三万二千五百人。
合計で十二万二千五百人。
さらに、南部各地に残っていたシルウァニア軍の部隊も別々に活動している。
北部や周辺地域から移動してきた部隊まで合わせれば、南部戦線で連合軍を取り囲むために動いているシルウァニア軍は、すでに十三万人を超えていた。
それは、俺たち南部方面軍三万六千人を遥かに上回る兵力だった。
しかも、その全てが一つの大軍として正面にいるわけではない。
山道。
森林。
街道。
村落。
それぞれへ部隊を分散させ、連合軍の進路を少しずつ制限している。
正面から押し潰すのではない。
逃げられる場所を減らしていく。
そして、最後に一つの狭い場所へ追い込む。
「敵は我々を囲もうとしている」
俺は地図を見ながら言った。
アトラシート伯爵が息を呑む。
「では、現在の配置は……」
「ああ」
俺は地図の周囲を見た。
「もう包囲は始まっている」
その頃、後方ではカヴィーレスターン軍が必死に撤退していた。
だが、アイガードを失ったことによる指揮系統の混乱は、まだ収まっていない。
「西の道へ向かえ!」
「そちらは敵がいる!」
「では東だ!」
「東も塞がれている!」
「集結地点はどこだ!」
「分からない!」
兵士たちの声が山道に響く。
ようやくまとまりかけた部隊が、別の部隊と鉢合わせする。
狭い道に兵士が集中し、進軍が止まる。
その間にも、森林の奥からシルウァニア軍の攻撃が始まる。
「敵襲!」
カヴィーレスターン兵が盾を構える。
だが、敵は長時間そこに留まらない。
攻撃を加える。
そして森へ消える。
撤退を再開する。
だが、別の道でまた攻撃される。
カヴィーレスターン軍は、前進することも困難なら、後退することも困難になっていた。
俺たち中央軍も同じだった。
「前方の道が詰まっています!」
「どれくらいだ?」
「数千人規模の部隊が集中しています!」
「側道は?」
「狭すぎて、大部隊は通れません!」
俺は歯を食いしばった。
大軍であることが、今は逆に足かせになっている。
一人なら森を抜けられる。
数十人でも山道を進める。
だが、何万人もの軍勢ではそうはいかない。
先頭が止まれば、後ろも止まる。
そして止まった場所へ敵が攻撃してくる。
「殿下!」
カイが駆け寄ってくる。
「後方からシルウァニア軍が近づいています!」
「どのくらいだ?」
「数千規模と思われます!」
「分かった」
俺は周囲を見渡した。
撤退する兵士たち。
負傷者を運ぶ者。
荷車を動かす者。
そして、森の向こうから聞こえる戦闘音。
このままでは、全軍が追いつかれてしまう。
「後衛を作る」
俺が言った。
「後方の部隊から、一定数を選んで残す」
カイが頷く。
「殿下、その部隊は……」
「敵を止める」
俺は答えた。
「その間に本隊を下げる」
後衛部隊が時間を稼ぐ。
その間に、中央の部隊が撤退する。
さらに本隊が後退した後、後衛も順次下がる。
それを繰り返す。
理屈の上では単純だ。
だが、この状況で実行するのは難しい。
後衛が敵を止められなければ、本隊に追いつかれる。
後衛を残しすぎれば、戦力を失いすぎる。
少なすぎれば時間を稼げない。
「後衛指揮官を選べ」
「承知しました」
最初の後衛部隊が配置についた。
その数千人が街道を塞ぎ、後方から迫るシルウァニア軍を食い止める。
「本隊を下げろ!」
俺が命令する。
前方の部隊が動き始める。
少しずつ。
少しずつ。
列が後ろへ流れていく。
だが、その間にも別の場所から敵の攻撃が始まっている。
「東側から敵!」
「西側も!」
「南の山道に敵影!」
まるでシルウァニア軍が、俺たちの撤退路を知っているかのようだった。
実際、この土地を知っているのは向こうだ。
俺たちは地図を使って進んでいる。
シルウァニア兵たちは、この山と森の中で暮らしてきた。
どこに脇道があるのか。
どこから街道へ出られるのか。
どこなら大軍が動きにくいのか。
それを知っている。
だから、俺たちが逃げる場所へ先回りできる。
「殿下!」
伝令が叫ぶ。
「後衛部隊から連絡です!」
「何だ!」
「敵が正面から接近しています!」
「まだ持ちこたえているか?」
「はい!」
「なら、そのまま時間を稼げ!」
「承知しました!」
伝令が戻っていく。
俺は拳を握った。
少しでも時間が必要だった。
一時間でも。
十分でも。
数分でもいい。
後ろの兵士たちが逃げる時間を作らなければならない。
やがて、本隊の一部が次の集結地点へ到着した。
しかし、そこにもすでに問題が起きていた。
「道を空けろ!」
「負傷者をこちらへ!」
「荷車を先に動かせ!」
大量の兵士が集中し、再び隊列が詰まる。
後方では戦闘音が近づいてくる。
俺は地図を見る。
現在地。
その後方に敵。
左右にも敵。
そして、前方にもシルウァニア軍が存在する可能性。
「……急がなければ」
包囲が完全に完成すれば、撤退するための道がなくなる。
そうなれば、三万六千人の南部方面軍全体が大森林と山岳地帯の中に閉じ込められる。
だから、まだ包囲が完全に完成していない今のうちに抜けるしかない。
「全軍、撤退を継続!」
俺は叫んだ。
「後衛は時間を稼げ! 本隊は止まるな!」
命令が伝わる。
兵士たちは再び動き始めた。
山道を進む。
森林を抜ける。
狭い街道を下る。
その背後では、後衛部隊がシルウァニア軍を食い止めている。
誰かが時間を稼がなければ、本隊は逃げられない。
だから、後衛は戦場へ残る。
そして、本隊が離れたところで少しずつ後退する。
それでも、シルウァニア軍は追ってくる。
正面だけではない。
側面から。
後方から。
そして、時には先回りするように前方へ現れる。
撤退戦は、始まったばかりだった。
そして俺は、この時まだ知らなかった。
シルウァニア側が十三万人を超える兵力で包囲網を形成し、その中心へ俺たちを追い込もうとしていることを。
完全な包囲が完成するまで、残された時間は決して長くなかった。




