第21話 撤退の決断
カヴィーレスターン軍の崩壊が始まってから、どれほどの時間が経ったのか、俺にはもう正確には分からなくなっていた。
司令部へ届く報告は途切れることなく増え続けている。カヴィーレスターン軍の複数部隊が後退している。諸侯軍が敵の攻撃を受けている。傭兵団との連絡が途絶えた。補給路が遮断された。別の場所ではシルウァニア軍が現れた。だが、そのどれもが正確な情報とは限らず、伝令が到着した時にはすでに状況が変わっていることさえあった。
俺は地図を見つめていた。
そこには、南部方面軍の現在位置が記されている。
カヴィーレスターン軍。
アンティクイランド軍。
中央軍。
諸侯軍。
傭兵団。
だが、地図に描かれている配置と、実際の戦場が一致している保証はない。
敵の位置も分からない。
味方の位置も分からない。
それでも、俺は必死に情報を整理しようとしていた。
「レノ……」
ティアが心配そうに俺を見る。
「大丈夫だ」
そう答えようとして、自分の声が思った以上に弱いことに気づいた。
俺は一度、目を閉じた。
ここまで何日戦っている?
何日眠った?
前線へ出て、戻ってきて、報告を受け、また前線へ向かう。その繰り返しだった。
俺だけではない。
ティアも、カイも、アトラシート伯爵も、周囲の士官たちも疲れ切っている。
だが、俺は休むわけにはいかなかった。
俺が南部方面軍の第一軍団を率いている。
そして何より、俺はアンティクイランド王国の王太子だ。
この戦争で、俺に与えられた責任は大きい。
だからこそ、判断を間違えるわけにはいかなかった。
「カヴィーレスターン軍の最新情報は?」
俺が尋ねる。
「現在、確認できている範囲では、さらに後退しています」
アトラシート伯爵が答える。
「複数の部隊が集結地点へ向かっていますが、一部はシルウァニア軍との交戦が続いています」
「アイガード大族長の件は?」
俺は聞く。
伯爵の表情が曇る。
「……まだ正式な報告は確認できていません」
「そうか」
俺たちにはまだ、アイガードが戦死したという確定情報は届いていない。
だからこそ、カヴィーレスターン軍がなぜ急激に崩れているのかが分からない。
指揮官同士の連携が崩れている。
命令も統一されていない。
だが、それでもこれほど急激に崩壊する理由が俺には見つからなかった。
「敵の規模は?」
「依然として不明です」
「どこから来ている?」
「それも不明です」
俺は地図を見つめる。
何度考えても、おかしい。
シルウァニア軍のゲリラ戦は厄介だ。
北西部でも同じような戦いを経験している。
だが、今起きていることは、それを超えている。
カヴィーレスターン軍が崩壊している。
諸侯軍も攻撃を受けている。
傭兵団も孤立している。
俺たち中央軍も、各地からの救援要請に応じているうちに、部隊が細かく分散してしまった。
このままでは――。
「……駄目だ」
俺は呟いた。
アトラシート伯爵がこちらを見る。
「殿下?」
「このまま戦えば、全部隊がばらばらになる」
口にした瞬間、その事実がはっきりと見えた。
俺たちはすでに勝つために戦っているのではない。
崩れ始めた戦線を、その場その場で支えようとしているだけだ。
一つの部隊へ援軍を送れば、別の部隊が危なくなる。
別の部隊を助ければ、また違う場所が崩れる。
そして、その間にもシルウァニア軍は森と山の中を動き回っている。
「撤退しかない」
俺はそう言った。
ティアが息を呑む。
カイも黙った。
「……撤退する」
今度は、はっきりと言った。
戦場から離れる。
これまで確保した地域を手放す。
防御壁を突破して得た土地も、制圧した村や砦も、前線基地も。
その全てを後方へ戻す。
それは、俺たちの敗北を意味する。
俺は分かっていた。
これまで「敗北」という言葉を避けていたわけではない。
ただ、まだ戦えると考えていた。
しかし、今は違う。
敵の位置が分からない。
味方の位置も分からない。
カヴィーレスターン軍が崩壊している。
諸侯軍や傭兵団も各地で孤立し始めている。
そして俺たちは、シルウァニア軍の大規模な反撃を前にして、戦場全体を把握できていない。
この状態で戦い続ければ、南部方面軍そのものが消滅する可能性がある。
「……俺たちは負けた」
俺は自分に言い聞かせるように呟いた。
その言葉を口にした瞬間、胸の奥が重くなる。
俺が指揮してきた軍が敗れた。
作戦は失敗した。
そして、この敗北によって何が起きるのか。
俺には想像できた。
アンティクイランド王国では、ただでさえ王族や貴族の間で派閥争いが存在する。
俺が王太子として軍を率いることを決めた。
その戦争で敗北した。
ならば、敗北の責任を問われる可能性は高い。
国内では、俺の戦争指導を批判する者が出るだろう。
戦争そのものに反対していた者たちも動くかもしれない。
俺を支持している派閥と、別の王族や貴族を支持する派閥との対立が再び激しくなる可能性もある。
最悪の場合、この敗北をきっかけに国内の政治そのものが揺らぐ。
俺はそれを理解していた。
撤退すれば、敗北を認めることになる。
戦い続ければ、さらに多くの兵士を失う。
そのどちらを選んでも、俺には重い責任が残る。
「殿下」
アトラシート伯爵が静かに言った。
「ご決断を」
俺は地図を見た。
南部方面軍三万六千人。
その中には、すでに多くの負傷者がいる。
カヴィーレスターン軍も崩れている。
諸侯軍と傭兵団は各地で孤立している。
この状態で戦い続ければ、さらに多くの命が失われる。
俺は拳を握った。
敗北を認める。
責任を背負う。
国内が再び混乱するかもしれない。
それでも――。
「撤退する」
俺は決断した。
「勝つためじゃない」
自分でも驚くほど静かな声だった。
「生き残るために下がる」
ティアが俺を見る。
「レノ……」
「全部隊へ撤退命令を出す」
俺は続けた。
「ただし、ばらばらに逃げるな。各部隊は指定された集結地点へ後退する。負傷者を優先して運ぶ。諸侯軍と傭兵団にも、可能な限り連絡を取れ」
「承知しました!」
命令が出される。
伝令が次々と外へ走っていく。
だが、すぐに新たな報告が入った。
「殿下! 東側の部隊が敵と交戦中です!」
「撤退を伝えろ!」
「伝令を送ります!」
「南側の部隊は?」
「現在、連絡が取れていません!」
「なんとかして繋げ!」
俺は次々と命令を出していく。
だが、頭が重い。
視界が少し霞む。
体が鉛のように重い。
それでも、休めない。
俺が倒れれば、第一軍団の指揮にも影響する。
「レノ」
ティアがもう一度呼ぶ。
「何だ?」
「顔色が悪いよ」
「問題ない」
「でも――」
「今はいい」
そう答えたものの、自分でも限界が近いことは分かっていた。
連日の戦闘。
睡眠不足。
絶え間ない報告。
判断。
移動。
そして、敗北を認めたことによる精神的な重圧。
全部が積み重なっている。
身体が重い。
頭が痛い。
それでも、撤退を成功させなければならない。
ここで俺が止まるわけにはいかなかった。
やがて、南部方面軍の各部隊へ撤退命令が伝えられ始めた。
カヴィーレスターン軍も。
アンティクイランド軍も。
諸侯軍も。
傭兵団も。
それぞれが後方へ向かい始める。
しかし、全軍が一斉に動き出したわけではない。
命令を受けた部隊。
まだ受け取っていない部隊。
敵と交戦している部隊。
負傷者を抱えている部隊。
それぞれが違う状況に置かれていた。
だから、撤退は最初から困難だった。
俺はそれを理解していた。
そして、さらに遠くから戦闘音が聞こえる。
シルウァニア軍が追ってきている。
ここから先は、単なる撤退ではない。
撤退しながら戦う必要がある。
俺は重い身体を無理やり動かし、再び地図へ目を向けた。
負けた。
その事実から逃げることはできない。
だからこそ、せめて兵士たちだけは生きて帰さなければならない。
国内でどれほど批判されてもいい。
派閥争いが再燃してもいい。
王太子として、軍の指揮官として責任を問われることになっても構わない。
今はただ、目の前にいる兵士たちを帰す。
それだけを考えることにした。
そして、南部方面軍の壮絶な撤退戦が始まった。




