第20話 混乱
アイガード・ゼフィル戦死の報は、カヴィーレスターン軍の内部へ少しずつ広がっていた。
しかし、それは決して一斉に伝わったわけではない。大森林と山岳地帯によって街道は分断され、各地でシルウァニア軍による攻撃が続いているため、伝令の到着には大きな時間差が生じていた。
そのため、ある部隊ではいまだにアイガードが健在だと思われている一方、別の部隊ではすでに総大将戦死の報を受けているという異常な状態になっていた。
カヴィーレスターン軍は三万三千人から二万三千人まで減少していたうえ、これまでに制圧した村や砦へ守備兵を残している。そのため、二万三千人という数字だけを見ればまだ大きな軍勢ではあるものの、実際には広い地域へ細かく分散していた。
そして、シルウァニア軍はその弱点を容赦なく突いてきた。
「敵襲!」
ある街道でカヴィーレスターン軍の部隊が立ち止まる。
森から矢が飛ぶ。
兵士たちが盾を構える。
だが、敵の姿はほとんど見えない。
「どこからだ!」
「分かりません!」
「森の中を探せ!」
兵士たちが動こうとする。
しかし、その瞬間にはもう攻撃が止んでいる。
敵は消えている。
その直後、別の場所から角笛が鳴った。
「南側でも敵襲!」
「後方の街道が襲われています!」
「西の村でも戦闘が始まった!」
情報が錯綜する。
一つの敵軍が一ヶ所から攻めているのではない。
北でも。
南でも。
東でも。
西でも。
シルウァニア兵が現れては攻撃し、そして森や山道へ消えていく。
そのたびにカヴィーレスターン軍は兵を動かさなければならない。
そして動かした先で、また別の攻撃が始まる。
まるで戦場全体が、シルウァニア軍の手の中にあるようだった。
やがて、カヴィーレスターン軍総大将アイガード・ゼフィルの戦死が、別の部隊にも伝わり始めた。
「総大将が戦死した?」
「間違いない。最後尾に残って、我々を逃がしたそうだ」
「では、誰が指揮を執る?」
「分からない」
その一言が、兵士たちを動揺させた。
もちろん、各部隊にはそれぞれ指揮官がいる。
しかし、三万三千人の軍勢全体を一つにまとめる存在がいなくなった。
しかも、今は戦場が広すぎる。
総大将の死を受けて、誰が全軍の撤退を命じるのか。
どこへ集結するのか。
どの部隊を優先して救うのか。
誰にも分からなかった。
それでも各地の指揮官たちは、自分たちの部隊を生き残らせようと命令を出す。
「撤退する!」
「西の集結地点へ向かえ!」
「いや、そちらは敵がいる!」
「なら南へ!」
命令が食い違う。
同じカヴィーレスターン軍でありながら、部隊ごとに別々の判断で動き始める。
そして、それをシルウァニア軍は見逃さなかった。
アンティクイランド軍の司令部にも、その異変が見え始めていた。
「カヴィーレスターン軍の戦線が崩れています」
アトラシート伯爵が地図を広げる。
「どこが崩れた?」
「一ヶ所ではありません」
俺は地図へ視線を落とした。
カヴィーレスターン軍を示す印が、これまでの位置から大きく動いている。
ある部隊は後方へ退いている。
別の部隊は横へ移動している。
さらに別の部隊は、まだ村や砦に残っている。
「撤退命令は出ているのか?」
「確認できません」
「では、何故こんなに動いている?」
「それも……分かりません」
俺は黙った。
おかしい。
あまりにもおかしい。
カヴィーレスターン軍は確かに損害を受けていた。
だが、数千人単位で一気に崩壊するような大敗をしたわけではない。
それなのに、なぜ急にこれほどまでに戦線が崩れている。
「カヴィーレスターン軍総大将の所在は?」
俺が尋ねる。
「現在確認中です」
「アイガード大族長は?」
アトラシート伯爵が答えに詰まった。
「……まだ正式な報告はありません」
「そうか」
俺は地図を見つめた。
俺たちアンティクイランド軍には、まだアイガード戦死の情報が届いていない。
だから俺には、もっと不可解に見えた。
つい先ほどまで、カヴィーレスターン軍は村や砦を確保しながら戦っていた。
多少の損害は出ていた。
しかし、大軍としてまだ存在していた。
ところが、今は違う。
「どういうことだ……」
俺の口から、思わず言葉が漏れた。
普段なら、どれほど戦況が悪くても感情を表には出さない。
状況を整理し、可能性を考え、最も合理的な判断をする。
母上が亡くなった時からそれは決めていた。
なのに、冷静になれない
北西部ではシルウァニア軍のゲリラ戦によってエクィトゥム軍が苦しめられている。
南西部ではオスティエール公爵が大きな損害を受け、前線基地の維持だけで精一杯になっている。
そして、この南部では俺たち自身がシルウァニア軍の攻撃を受け続けている。
その上で、今度はカヴィーレスターン軍が突然崩れ始めた。
何が起きている。
敵はどこにいる。
なぜカヴィーレスターン軍が、これほど急に後退している。
総大将は何をしている。
誰が命令を出している。
何一つ分からない。
「レノ.....」
ティアの声が聞こえる。
俺は返事をすることができなかった。
頭の中で、これまでの情報を何度も組み直す。
シルウァニア軍のゲリラ戦。
大森林。
山岳地帯。
分散したカヴィーレスターン軍。
そして、突然の崩壊。
「……何かある」
ようやく俺は口を開いた。
「この状況には、何か理由がある」
ただの偶然ではない。
そうとしか思えない。
だが、その理由が分からない。
その頃、カヴィーレスターン軍ではさらに混乱が広がっていた。
「撤退命令を受けた!」
「どこからだ!」
「中央からだ!」
「中央ってどこだ!」
「知らない!」
命令を受けた部隊が動き出す。
しかし、隣の部隊にはその命令が届いていない。
そちらでは戦闘を続けている。
さらに別の部隊は、敵が近づいていることを知って独自に撤退する。
結果として、同じ軍の部隊が互いに違う方向へ動いていく。
そしてシルウァニア軍は、その隙間へ入り込む。
正面から大軍をぶつけることはしない。
撤退する部隊を追う。
別の部隊へ回る。
補給路を狙う。
街道を塞ぐ。
そして、また消える。
カヴィーレスターン軍は、敵に一気に叩き潰されたわけではない。
少しずつ。
確実に。
軍としての形を失っていった。
その異変を見ながら、俺は初めて明確な焦りを覚えていた。
俺はこれまで、戦場で感情に流されることを避けてきた。
冷静に。
合理的に。
必要なら冷徹に。
その方が兵士たちを生き残らせることができる。
だが、今は違う。
敵の姿が見えない。
味方の配置も分からない。
そして、隣で戦っていたはずのカヴィーレスターン軍が、理由すら分からないまま崩れ始めている。
「レノ……」
ティアがもう一度、俺を呼ぶ。
「……大丈夫だ」
そう答えた。
だが、自分でも分かっていた。
大丈夫ではない。
戦場そのものが、俺たちの想定から外れている。
シルウァニア軍は、俺たちより遥かにこの土地を知っている。
そして今、その強みを最大限に利用している。
俺は地図を握りしめた。
カヴィーレスターン軍が崩れている。
諸侯軍も、傭兵団も、各地で攻撃を受けている。
俺たち自身もゲリラ戦に苦しめられている。
なのに、敵の主力がどこにいるのかすら分からない。
その事実が、これまでにないほど俺を混乱させていた。
そしてまだ、俺は知らなかった。
カヴィーレスターン軍を追い込んでいる戦力のさらに奥に、十万人規模のシルウァニア王国軍主力が存在し、南部戦線全体を崩すために動いていることを。




