第23話 イルシエス騎士家当主、副内務卿兼副外務卿 グラフィル・デイ・イルシエス
母上が死んでから、数日が経った。
王宮は、表面上だけなら少しずつ日常を取り戻していた。
侍女たちは仕事を続け、騎士たちは定められた場所に立ち、文官たちは何事もなかったかのように書類を抱えて廊下を行き交っている。
母上が亡くなったという事実だけが、王宮という巨大な仕組みの中で、少しずつ過去へと押し流されようとしていた。
けれど、俺には分かる。
以前とは、何かが違う。
母上がいなくなったことで、俺の周囲だけではなく、王宮そのものの勢力図が変わり始めていた。
「殿下」
俺の前に立つグラフィルが、静かに頭を下げた。
グラフィル・デイ・イルシエス。
俺の護衛騎士の一人だ。
これまで特別に目立つ男ではなかった。
華々しい武功があるわけでもなく、剣の腕を誇示することもない。
ただ、俺が移動するときには一定の距離を保ってついてきて、必要なときだけ口を開く。
王宮にいる数多くの騎士の中でも、かなり影の薄い存在だった。
「何か分かったのか?」
「はい。いくつかございます」
グラフィルが数枚の書類を差し出した。
俺はそれを受け取り、最初の紙へ目を落とす。
そこには、現在の王国内における貴族派閥の勢力がまとめられていた。
「第一王子派。領地貴族、五分。法衣貴族、一割五分」
「……」
思わず目を細める。
母上が生きていた頃は、領地貴族が二割、法衣貴族が二割ほど。
それが、わずか数日の間にここまで減った。
「第二王子派。領地貴族、九割五分。法衣貴族、五割」
「ほとんどの領地貴族が第二王子派に流れたのか」
「はい」
「第三王子派は?」
「領地貴族はゼロ。法衣貴族が一割五分ほどです」
「王弟派は?」
「現在は旧王弟派と呼ぶべきでしょう。内部対立が続いておりますが、残存している法衣貴族は二割ほどです」
俺は書類を机の上に置いた。
第一王子派は半壊。
第二王子派は王国最大の派閥へ膨張。
第三王子派は小規模。
そして王弟派は内紛。
母上が亡くなっただけで、ここまで変わる。
いや。
正確には――母上がいなくなったことで、今まで表面化していなかった貴族たちの本音が、一斉に表へ出たのだろう。
「具体的に誰が離れた?」
俺が尋ねると、グラフィルは別の紙を取り出した。
「まず、セドリック殿です」
「……セドリック?」
知っている名前だった。
「彼は宮廷での役職を辞任しております」
「理由は?」
「表向きには一身上の都合です。しかし、実際には第一王子派から離脱するための辞任と考えられています」
「そうか」
セドリック本人が離れた。
それだけなら、まだいい。
だが、グラフィルは続けた。
「そして、セドリック殿の実家である教務卿の家も、第二王子派へ移りました」
俺は書類を見つめた。
「……教務卿まで?」
「はい」
教務卿。
王国の教育や宗教教育、学術関係を管轄する重要な法衣貴族だ。
その家が丸ごと第二王子派へ移れば、第一王子派にとってはかなり大きな損失になる。
「セドリック一人ではなく、実家ごと動いたわけか」
「その通りです」
俺は小さく息を吐いた。
母上が死んだ。
その直後に、これまで第一王子派に属していた人間が辞職し、その実家まで第二王子派へ移った。
……分かりやすい。
貴族にとって忠誠よりも重要なのは、自分たちの家が生き残ることなのだろう。
「他にもいるのか?」
「はい。領地貴族、法衣貴族ともに離脱者が出ております」
「だから第一王子派がここまで減った」
「はい」
俺は書類を眺めながら考える。
第一王子派が崩れた原因は、母上の死だけではない。
母上という中心を失ったことで、派閥に属していた貴族たちが一斉に自分たちの立場を考え始めた。
そして、その受け皿となったのが第二王子派。
「第二王子派が、離反者を積極的に受け入れている?」
「はい。それだけではありません」
グラフィルが続ける。
「王弟派の内紛も、第二王子派の勢力拡大に大きく影響しております」
「王弟派の内紛……あの双子か」
「はい」
王弟カシウス公爵家。
第一夫人が産んだ双子の次男と三男。
気弱で大人しい次男と、傲慢で自信の強い三男。
以前、社交界で二人がどちらが次期公爵にふさわしいかで争った。
その際、三男を支持する王弟派貴族が三男へ言葉を吹き込んだ。
『次男では公爵家を背負えない』
『あなたこそ次期公爵にふさわしい』
その言葉によって兄弟の対立が激しくなり、それぞれを支持する貴族が現れた。
「一部の王弟派貴族が三男殿下を担ぎ上げたことで、兄弟間の争いが始まりました」
「そして王弟派が二つに割れた」
「はい」
「それだけなら、王弟派内部の問題だ」
「ですが、そこへ第二王子派が入りました」
俺は顔を上げた。
「第二夫人殿下の長男を担いだのか」
「その通りです」
第二夫人の長男。
七歳。
そして、その実家は第二王子派に属している。
第一夫人の双子が争っていることを理由に、第二夫人側が自分の長男を次期公爵候補として擁立した。
「第二王子派が、王弟派の内部抗争へ直接介入したわけだ」
「はい」
「そして、第二夫人の長男を支持することで、第二王子派の貴族が王弟派へ入り込んだ」
「その結果、王弟派の一部は第二王子派へ寝返りました」
「なるほど」
王弟派は三つに割れた。
次男を支持する者。
三男を支持する者。
そして第二夫人の長男を支持する者。
その混乱を利用して、第二王子派が内部へ入り込んだ。
そして、王弟派から離れた貴族の多くを、そのまま自分たちの派閥へ吸収した。
「……ずいぶん効率がいいな」
俺は呟いた。
一つの派閥が崩壊する。
その崩壊によって出てきた人間を、別の派閥が吸収する。
結果として、第二王子派だけが巨大化する。
まるで――最初からそうなることを知っていたかのように。
「まだあります」
グラフィルが言った。
「母上の暗殺事件に関する情報です」
俺は顔を上げる。
「侍女への取り調べで何か分かったのか?」
「はい」
グラフィルの声は相変わらず静かだった。
「侍女は、第一王妃殿下を襲った理由について、自分自身の恨みを語っております」
「恨み?」
「はい」
グラフィルが書類に目を落とす。
「侍女は、子爵家の出身でした」
「……それが?」
「かつて、現国王陛下の妃候補の一人だったそうです」
俺は黙った。
「母上と?」
「はい。同じ爵位の家柄だったと」
その一言で、なんとなく理解した。
「つまり……」
「かつては対等だった相手に、今では侍女として仕えていた」
グラフィルが淡々と告げる。
「本人は、そのことを強い屈辱として語っていたそうです」
「……だから、母上を恨んでいた」
「そのようです」
第一王妃になった母上。
そして、その母上に仕えることになった元妃候補。
その立場の逆転が、長い年月をかけて憎しみに変わった。
少なくとも、侍女本人はそう考えていたらしい。
「だが、それだけじゃないな」
俺は言った。
グラフィルが顔を上げる。
「毒はどこから手に入れた?」
「……そこが問題です」
グラフィルが、別の書類を差し出した。
「侍女は、暗殺に使用した薬品と手紙を、ある大商会から受け取ったと供述しております」
「大商会?」
「はい」
「名前は?」
「アルゲントゥム商会です」
その名前を聞いた瞬間、俺の眉が僅かに動いた。
「……カヴィーレスターンとの交易商会か」
「はい」
アルゲントゥム商会。
アンティクイランド王国とカヴィーレスターン・スルタン国との間で、大規模な交易を行っている商会だ。
「薬品の入手経路は?」
「現在調査中です。ただ、その薬品は国内では流通していない可能性が高い」
「カヴィーレスターンから持ち込まれた可能性がある?」
「はい」
俺は黙った。
そこで、一つの名前が浮かぶ。
「ガルディシア伯爵家」
「……はい」
ガルディシア伯爵家。
海峡と補給港、その周辺都市を支配し、カヴィーレスターンとの国交を一手に引き受けている。
そして――第二王妃ヴィクトリアの実家。
「アルゲントゥム商会とガルディシア伯爵家の関係は?」
「長年の取引関係があります」
「第二王子派との関係は?」
「商会そのものが第二王子派に属しているわけではありません。ただし、ガルディシア伯爵家との取引は非常に多い」
「なるほど」
俺は書類を見つめる。
侍女。
元妃候補。
母上への恨み。
大商会から渡された手紙と薬。
カヴィーレスターンとの交易。
ガルディシア伯爵家。
第二王妃。
一つ一つを見れば、ただの偶然かもしれない。
だが――。
「偶然にしては、少し多すぎるな」
「私も同じ認識です」
「第二王妃殿下が関わっていると?」
「現時点では、証拠がございません」
「そうだな」
俺は頷いた。
証拠がない以上、断定することはできない。
ただし。
「調べる価値はある」
「はい」
「アルゲントゥム商会について、徹底的に調べろ」
「どこまで?」
「全部だ」
俺は即答した。
「カヴィーレスターンとの交易、ガルディシア伯爵家との関係、第二王子派との取引、王宮への出入り。母上の暗殺に繋がるものがあるなら、一つも逃すな」
「承知しました」
「それと――」
俺は再び派閥図へ目を落とした。
「第一王子派を立て直す」
母上がいた頃の形に戻すつもりはない。
離れた者を無理に呼び戻すつもりもない。
セドリックが辞めた。
教務卿が第二王子派へ移った。
ならば、それはそれでいい。
「誰が味方なのか分かっただけでも、意味はある」
「……はい」
「こちらから新しく集めればいい」
グラフィルが顔を上げる。
「そして、第二王子派に対抗するなら、第三王子派を放置する理由もない」
「第三王子派との接触を?」
「そうだ」
第三王子派は小さい。
領地貴族はゼロ。
法衣貴族も一割五分。
だが、今の俺たちにとって重要なのは規模だけではない。
第二王子派に対抗する意思があるか。
こちらと利害を共有できるか。
そして――。
「第三王子派と第一王子派を、別々の派閥として争わせておく意味がない」
俺は書類を閉じた。
「まずは接触する。条件が合うなら協力する。その先に統合がある」
「承知しました」
俺は窓の外を見る。
母上が死んだ。
その直後、俺の派閥は崩れた。
セドリックは去り、教務卿は第二王子派へ移った。
王弟派も自ら崩れ、その隙間を第二王子派が奪った。
そして――母上の暗殺には、王宮の外から薬と手紙が入り込んでいた。
すべてが繋がっているのか。
それとも、俺が疑いすぎているだけなのか。
まだ分からない。
だからこそ、調べる。
母上を殺した人間を見つけるために。
そして、母上が残した第一王子派を守るために。
俺には守るべき妹がいる。
ならば、立ち止まっている暇はない。
「グラフィル」
「はい」
「第三王子派との接触を始めよう」
「承知しました、殿下」
俺は静かに立ち上がった。
母上を失ったことで、俺は多くのものを失った。
けれど――。
失ったものを眺めているつもりはない。
第一王子派を作り直す。
第三王子派をこちらへ引き込む。
第二王子派の勢力を削る。
そして、母上の死の真相を一つずつ暴いていく。
そのためなら、使えるものはすべて使う。
俺は机の上に置かれた派閥図へ、もう一度目を落とした。
そして、第三王子派の名前に指を置いた。
「……まずは、ここからだな」




