第10話 精神疾患
村落守備隊百人が壊滅したという報告が、北西部方面軍司令部へ届いたのは翌日のことだった。
だが、司令部が問題視したのは百人の損害だけではなかった。
報告書には、別の内容が記されていた。
村民との戦闘において、一部のエクィトゥム兵が村人、とりわけ女子供を含む非戦闘員を殺害する結果となった。
戦闘そのものは短時間で終わった。
エクィトゥム軍の守備隊は奇襲を受け、混乱の中で戦闘を行った。
しかし、戦闘が終われば、兵士たちは自分たちが誰と戦っていたのかを理解することになる。
軍服を着た敵兵だけではない。
武器を持った民兵だけでもない。
その場には、村で暮らしていた人々もいた。
そして、その中には女子供もいた。
戦闘の混乱の中で、それらを区別できなかった者もいた。
その事実が、前線の兵士たちに大きな影響を与え始めた。
最初に異変が確認されたのは、戦闘から数日後だった。
「……彼は、もう戦えません」
軍医が報告する。
目の前の兵士は、ベッドの端に座ったまま、ほとんど言葉を発していなかった。
「戦闘中の負傷は?」
「身体的な負傷は軽微です」
「では、何が原因だ?」
「精神的なものです」
軍医が慎重に言葉を選ぶ。
「戦闘後から著しい情緒の不安定さが見られます。会話能力が低下し、強い不安を示す一方で、年少者のような言動を繰り返すようになりました」
「年少者のような?」
「はい」
軍医は頷いた。
「自分で身の回りのことをすることを嫌がり、特定の人物から離れようとしない。簡単な問いかけに対しても幼い子供のような反応を示すことがあります」
司令官は黙って兵士を見る。
本人は軍医の会話にも反応を示さない。
ただ、何かを恐れるように身体を縮めている。
「戦線復帰は?」
「不可能です」
軍医は即答した。
「この状態で戦場へ戻せば、本人だけでなく周囲の兵士にも危険が及びます」
「分かった」
その兵士は後送された。
軍務記録には、精神的な異常による戦線離脱として記録されることになった。
ところが、それは一人ではなかった。
別の部隊でも同じような症状を示す兵士が確認された。
突然、極端に幼い態度になる。
簡単な命令にも対応できなくなる。
夜になると強い不安を示し、戦闘時の記憶を思い出して混乱する。
普段は自立していた兵士が、誰かに付き添ってもらわなければ行動できなくなる。
そして、その多くが同じ村落戦闘を経験していた。
「またですか」
軍医が記録を見ながら呟く。
「はい。今度は三人です」
「全員、あの村の戦闘に参加していた?」
「そうです」
「女子供を含む村民と接触した兵士が多い?」
「確認できている範囲では、そうなります」
軍医は記録を閉じた。
「戦闘そのものだけが原因とは考えにくいでしょう」
「では?」
「自分が何をしたのか、戦闘が終わってから理解したことが大きいのではないでしょうか」
兵士たちは戦場にいる間、敵を敵として認識している。
命令に従う。
自分を守る。
仲間を守る。
目の前の相手を倒す。
それが軍人としての行動だ。
しかし、戦闘が終われば状況は変わる。
敵として認識していた人間が、武器を持った兵士だけではなかったことに気づく。
村人だった。
生活していた人々だった。
その中には戦闘を望んでいなかった者もいた。
その現実が、兵士たちの中で徐々に大きくなっていった。
数日後。
北西部方面軍の司令部では、戦線離脱者の数がまとめられていた。
「身体的負傷者とは別に、精神的な理由による後送者が増えています」
参謀が報告する。
フィリウスは資料を受け取った。
「どれくらいだ?」
「まだ急増している段階なので確定した数字ではありません。ただ、あの村で戦闘に参加した部隊を中心に増えています」
「戦闘能力の低下は?」
「確認されています」
フィリウスは資料を読む。
そこには複数の部隊名が並んでいた。
「前線から離脱する兵士が多くなれば、実質的な兵力も減る」
「はい」
「戦死者や負傷者だけではないということか」
「その通りです」
戦争では、兵力という数字だけでは測れない損失がある。
戦死者。
負傷者。
そして、精神的な理由で戦場へ戻れなくなった者。
同じ一人の兵士でも、その兵士が戦える状態にあるかどうかは別問題だ。
「軍医団に対応を急がせろ」
フィリウスが言った。
「戦場へ戻すことを前提にする必要はない。まず治療と保護を優先する」
「承知しました」
「それから、各部隊の指揮官へ通達する」
フィリウスは資料から顔を上げた。
「異常が見られる兵士を無理に戦線へ戻すな。本人が士気を落とすからと隠すことも禁止する」
「分かりました」
参謀が一礼する。
フィリウスはしばらく黙っていた。
戦争が始まる前、三十五万人の兵力という数字を何度も確認した。
四十万人規模の同盟軍。
シルウァニア王国の約三十万人規模の総動員。
それぞれの数字を比較し、作戦を組み立ててきた。
だが、戦場へ来て初めて分かることもある。
兵士は数字ではない。
一人ひとりに恐怖があり、記憶があり、限界がある。
そして、その限界を超えれば、武器を持っていても兵士として戦うことはできなくなる。
その日の夕方。
野戦病院では、後送された兵士たちが治療を受けていた。
その中には、幼い子供のような態度を繰り返す兵士もいる。
軍医や看護担当者は、その兵士を責めなかった。
ただ静かに付き添い、落ち着くまで待つ。
戦場では敵味方を分けて判断しなければならない。
しかし、戦闘が終われば、兵士自身も一人の人間に戻る。
そして、一度見てしまったものは、簡単には消えない。
北西部戦線では、今も戦闘が続いている。
森の中。
村落。
街道。
前線基地。
どこに敵が潜んでいるのか分からない。
エクィトゥム軍は戦線を押し上げようとしている。
シルウァニア側は、それを阻止するために北西部全域で抵抗を続けている。
だが、エクィトゥム軍が失っているものは、戦死者や負傷者だけではなかった。
戦場から帰ってこられなくなる者が、少しずつ増えていた。




