第8話 異常事態
ルペリウス城を陥落させ、北西部で一定の戦線を押し上げたエクィトゥム王国軍は、現在確保している地域で前進を停止していた。
五万人だった北西部方面軍は、第一段階の攻城戦によって二千人が戦死し、六千人が負傷して戦線を離脱している。そのため、現在実際に戦線へ投入できる兵力は四万二千人。五つに分けられた部隊のうち二つは、それぞれ約五千人のシルウァニア軍と対峙し、前進を阻まれている。一方、中央部隊一万人と残る二つの八千人部隊は予定通り進撃し、ルペリウス城を含む一帯を確保した。
北西部方面軍は、これ以上の前進を急ぐよりも、確保した地域を固めることを優先した。
工兵隊が動員され、前線基地の構築が始まる。城塞内部の修復、物資集積所の設置、負傷者を収容する施設の整備、街道の補修、後方との連絡路の確保。そして、次に投入される二十万人の増援を受け入れるための宿営地や補給施設の準備まで、必要な作業が急速に進められていた。
その中心に、エクィトゥム王国王太子フィリウスの姿があった。
フィリウスは前線基地の構築状況を確認しながら、随行する士官たちから報告を受けていた。
「王太子殿下、現在の戦線について報告がございます」
「聞こう」
「中央部隊と右側の二部隊は、予定していた地点まで前進しております。ルペリウス城も確保済みです。一方、左右の二部隊は、それぞれおよそ五千のシルウァニア軍と接触し、現在も前進を阻まれています」
「分かった」
フィリウスは地図を見る。
五つの部隊が配置され、それぞれの位置が書き込まれている。
中央が一万人。
その両側に八千人ずつ。
さらに外側にも八千人ずつ。
第一段階で八千人が戦線を離脱している以上、現在の実戦力は四万二千人。
それでも、ここまでは計画に大きな支障はない。
むしろ、第一段階の目的を達成した上で、第二段階として一定の地域を確保できた。
フィリウスはそう考えていた。
だが、一つだけ引っかかる。
「敵の主力について、追加の報告は?」
「現在のところ、確認できておりません」
「北西部以外からこちらへ向かっている様子は?」
「明確な動きは確認されていません」
フィリウスは黙った。
「……妙だな」
側近が顔を上げる。
「何か?」
「シルウァニア軍の抵抗が、想定より弱すぎる」
「城塞を失った直後ですから、混乱しているのでは?」
「それなら、それでおかしい」
フィリウスは地図を指した。
「我々はすでに北西部へかなり入り込んでいる。ルペリウス城まで落とした。それにもかかわらず、シルウァニア側の大規模な増援がこちらへ向かってきていない」
「……」
「そして、我々の前進を止めているのは、約五千の部隊が二つだけだ」
フィリウスは地図を見つめる。
北西部へ侵攻するエクィトゥム軍に対して、本来ならばシルウァニア王国も主力を動かす必要がある。
人口百万。
戦時には約三十万人を総動員する軍事国家。
その全てが一ヶ所へ集結できないことは分かっている。それでも、北西部への侵攻がここまで進んでいるなら、数万規模の主力がこちらへ向かってきてもおかしくない。
だが、見えない。
「敵主力は、どこにいる?」
フィリウスが呟いた。
答えは返ってこなかった。
その時、別の参謀が口を開いた。
「殿下。もしかすると、我々の作戦そのものに対する認識がシルウァニア側と食い違っているのではないでしょうか」
「どういう意味だ?」
「『竜の祝福』では、北部への圧力によって敵主力を北西部へ誘導することになっています。しかし、現状を見る限り、シルウァニア軍はそれに応じていません」
フィリウスの表情が変わる。
「つまり――」
「敵は我々の北部攻撃を、想定ほど重大な脅威だと判断していない可能性があります」
フィリウスは地図を見た。
北西部。
中南部。
南部。
作戦計画では、ここからシルウァニア軍が次第に戦力を動かしてくることになっている。
それを確認してから、次の段階へ移る。
だが、その前提が崩れている。
「……第七段階までの流れが、ずれているのかもしれないな」
フィリウスが言った。
「はい」
参謀が頷く。
「敵主力がこちらへ来ないのであれば、予定していた誘導そのものが成立していません」
フィリウスはしばらく考えた。
作戦をこのまま続けるか。
それとも、一度立ち止まって練り直すか。
後者だ。
「軍議を開く」
フィリウスが決断する。
「北西部方面軍の主要指揮官と参謀を集めろ。『竜の祝福』の第二段階以降について、現状に合わせて再検討する」
「承知しました」
側近が一礼した。
だが――。
「王太子殿下!」
別の伝令が駆け込んできた。
「何だ?」
「西側の前線部隊から報告です!」
「言え」
「敵から攻撃を受けました!」
フィリウスが地図を見る。
「規模は?」
「確認できておりません!」
「場所は?」
「森の中から攻撃を受けた後、敵部隊は撤退。追撃しようとしたところ、別方向から再び攻撃を受けたとのことです!」
フィリウスの眉が僅かに動く。
「被害は?」
「軽傷者が数十名とのことです!」
「分かった。次」
伝令が下がる。
だが、その直後にまた別の伝令が駆け込んできた。
「王太子殿下!」
「今度は何だ?」
「右翼の補給隊が攻撃を受けました!」
フィリウスが地図へ目を向ける。
「敵の規模は?」
「不明です!」
「どこから攻撃された?」
「森林からです!」
「その後は?」
「敵は撤退しました!」
「追撃は?」
「行っておりません!」
「よし」
フィリウスは短く答えた。
だが、また報告が来る。
「中央部隊後方から敵襲!」
「左翼でも敵影を確認!」
「工兵部隊の周囲で攻撃!」
「後方の街道でも襲撃が発生!」
次々と報告が入ってくる。
数分前まで落ち着いていた前線基地が、一気に慌ただしくなる。
「待て!」
フィリウスが声を張った。
「現在、どの部隊がどこで攻撃を受けている!」
参謀が地図へ駆け寄る。
「確認しています!」
「敵の規模は?」
「ほとんど判明していません!」
「味方の位置は?」
「現在報告を整理しています!」
「整理している間にも報告が来ているぞ!」
フィリウスの声が司令部へ響く。
地図へ新しい印が次々と加えられていく。
だが、どの印も確実なものではない。
敵が森から現れた。
攻撃を受けた。
敵は逃げた。
別の場所で敵影を確認した。
補給隊が襲われた。
工兵隊が襲われた。
その報告ばかりが続く。
敵の正確な位置は分からない。
敵の総兵力も分からない。
そして、味方の部隊ですら、一部では現在位置を正確に確認できなくなっていた。
「……これは」
参謀の一人が呟いた。
「小規模部隊による連続攻撃です」
「民兵か?」
「可能性があります」
フィリウスは地図を見つめた。
「敵主力は?」
「依然として確認できません」
フィリウスは黙った。
北西部の状況が、明らかにおかしい。
自分たちが戦っている敵は、これまでのような正規軍の大部隊ではない。
森から出てきて攻撃する。
すぐに消える。
別の場所に現れる。
街道を進めば攻撃を受ける。
補給隊を動かせば、それも狙われる。
前線基地の外側にも敵が出る。
それを追えば、別の場所が無防備になる。
フィリウスはゆっくりと息を吐いた。
「……戦場そのものが変わったな」
先ほどまでの問題は、敵主力が来ないことだった。
だが今は違う。
敵主力が来ない代わりに、北西部全域から敵が現れている。
「軍議は予定通り開く」
フィリウスが言う。
「ただし、議題を変える」
「はい」
「『竜の祝福』の次段階をそのまま進められるのかを検討する。敵主力を動かすどころか、こちらの配置そのものが把握できなくなり始めている」
参謀たちが頷いた。
だが、その瞬間。
「殿下!」
新たな伝令が駆け込んだ。
「中央部隊からの報告が途絶えました!」
「……何?」
「最後の報告では、森の近くで敵影を確認。その後、伝令が戻ってきておりません!」
室内が静まり返った。
フィリウスは地図を見る。
中央部隊の位置を示す印。
その周囲には、敵影を示す不確かな情報。
そして、いくつもの空白。
「味方の配置が分からない」
フィリウスが静かに呟いた。
誰も答えない。
敵の配置も分からない。
味方の配置も分からない。
それでも戦場では、各部隊が動き続けている。
フィリウスは目の前の地図を見つめた。
作戦計画では、ここまで順調に進むはずだった。
だが、シルウァニア王国軍主力は北西部へ動いてこない。
その代わり、北西部全域に散開した敵部隊が一斉に動き始めている。
ルペリウス城の陥落。
戦線の押し上げ。
前線基地の構築。
そこまでは、エクィトゥム側の予定通りだった。
しかし、その先は違う。
北西部は、すでに一つの戦場ではなくなっていた。
森。
村落。
街道。
丘陵。
補給路。
その全てが敵の攻撃地点になり得る。
フィリウスは軍議の招集を急がせた。
そしてその間にも、司令部へ新たな報告が次々と届き続けていた。




