第5話 シルウァニア戦争開戦
アエテリア歴1316年、春の初め。
エクィトゥム王国北西部、ヴロントリア辺境伯領に隣接する国境地帯。
山々に挟まれた渓谷の手前には、五万人のエクィトゥム王国軍が展開していた。
広大な平原には無数の軍旗が並び、歩兵、弓兵、弩兵、騎兵、工兵がそれぞれ定められた位置についている。その後方には巨大な攻城兵器が整然と並び、改良型ファイアカタパルトもすでに射撃位置へ配置されていた。
その先にあるのは、シルウァニア王国の防衛城壁。
山々の間を塞ぐように築かれた巨大な石造りの城壁は、渓谷を通る街道を完全に遮断している。城壁の上にはシルウァニア王国の旗が掲げられ、見張り台には武装した兵士たちの姿が見えていた。
エクィトゥム王国軍にとって、これが初めて目にする本格的な敵国の防衛線だった。
そして、その五万人の軍を前に、一人の青年が立っている。
エクィトゥム王国王太子フィリウス。
フィリウスは騎馬の上から前方を見つめていた。
緊張がないわけではない。
だが、それ以上に冷静だった。
今日まで、エクィトゥム王国では長い時間をかけて戦争の準備を進めてきた。軍の動員、物資の輸送、兵站計画、北西部と南西部への展開、そしてシルウァニア王国との国境に存在する主要侵攻路の調査。その全てが、今日という日へ繋がっている。
やがて、側近が馬を寄せてきた。
「王太子殿下」
「何だ?」
「各方面軍より、予定地点への配置完了の報告が届いております」
「北部第一段階投入部隊は?」
「五万人、全て配置完了しております」
「改良型ファイアカタパルトは?」
「全機、射撃位置への移動を完了。工兵隊も配置を終えております」
「中南部は?」
「第一段階の四万人が配置を完了しております。追加六万人は後方待機中です」
「南部は?」
「カヴィーレスターン軍三万三千人、アンティクイランド軍一万七千人。予定された展開地域への配置を確認しております」
「分かった」
フィリウスは頷いた。
「では、計画書を」
「こちらです」
側近から書類を受け取る。
それは今回の戦争に備えて作られた作戦計画書だった。
表紙には、作戦名が記されている。
――『竜の祝福』。
フィリウスは馬上で最後の確認を始めた。
北部方面、二十五万人。
そのうち第一段階として五万人を投入し、防衛城壁を突破する。
突破後、残る二十万人を本格投入し、北部の戦線を押し上げる。
中南部方面は十万人。
まず四万人を投入し、その後さらに六万人を加える。
そして南部。
カヴィーレスターン軍三万三千人。
アンティクイランド軍一万七千人。
合計五万人。
北部、中南部、南部。
三方面へ時間差をつけて攻撃を行い、シルウァニア王国軍の判断を誘導する。
北部を主戦場だと認識させる。
中南部にも別の戦線を形成する。
南部からは王都へ圧力を加える。
敵が南部へ戦力を移した段階で、北部の残存主力二十万人を投入する。
その後、北部方面軍と中南部方面軍を連携させ、西半分を制圧しながら王都方面へ進出する。
南部ではカヴィーレスターン軍とアンティクイランド軍が王都への圧力を維持する。
最終的にはシルウァニア王国全土の制圧を目指し、北東部についてはソルフィエート族との和平を選択肢として残す。
フィリウスは一枚ずつ資料を確認していった。
兵力。
各方面の配置。
進軍時期。
補給計画。
攻撃目標。
撤退時の対応。
何度も確認してきた計画だ。
それでも、今日はもう一度確認する。
戦場では、一つの見落としが多くの命を左右する。
「全方面の配置は完了しているんだな?」
「はい」
「なら、後は開始命令だけです」
フィリウスは書類から顔を上げた。
目の前には五万人。
その向こうには巨大な城壁。
そして、そのさらに後方には、今回の戦争へ投入される三十五万人のエクィトゥム王国軍がいる。
カヴィーレスターン軍三万三千人。
アンティクイランド軍一万七千人。
合わせれば、大陸西部三国同盟軍は四十万人に達する。
一方、シルウァニア王国も国家総動員体制へ移行していた。
人口約百万人。
常備兵力約八千人。
しかし戦時には十五歳から五十五歳までの男性を中心に国家総動員を行い、総動員兵力は約三十万人に達する。
ただし、その全てを一つの野戦軍として集中運用するわけではない。峠、谷、砦、村落、輸送路など、自国の山岳地帯そのものを防衛するため各地へ兵力を配置する必要があり、一方面へ投入できる野戦軍は総動員規模より大幅に少なくなる。
それでも、防衛戦においては極めて厄介な軍事国家だった。
「殿下」
側近が声をかける。
「命令を」
フィリウスは再び前方へ目を向けた。
シルウァニア王国の城壁。
その上で動く敵兵。
山々。
渓谷。
そして、その向こうに広がる敵国。
地図の上にしか存在しなかった国境が、今は目の前にある。
フィリウスはゆっくりと息を吸った。
今日、この日から。
エクィトゥム王国とシルウァニア王国は、戦争状態へ入る。
後戻りはできない。
だが、迷っている時間もない。
フィリウスは作戦計画書を側近へ返した。
「全軍に伝えろ」
「はっ」
「『竜の祝福』第一段階を開始する」
「了解しました!」
命令が伝達されていく。
各部隊の指揮官へ。
その下の部隊長へ。
さらにその下の兵士たちへ。
やがて、北部第一段階五万人の軍全体へ命令が行き渡った。
兵士たちが武器を手に取る。
弓兵が弓を確認する。
弩兵が弩を構える。
工兵たちが攻城兵器の最終確認を行う。
改良型ファイアカタパルトの周囲でも、兵士たちが慌ただしく動き始めた。
フィリウスはそれを見ながら、静かに右手を上げた。
一瞬。
周囲の音が遠くなったように感じられた。
そして――。
「かかれ!」
その命令が、戦場へ響き渡った。
直後、五万人のエクィトゥム王国軍が動き始める。
太鼓が鳴る。
角笛が響く。
兵士たちが一斉に前進する。
巨大な攻城兵器が動き出し、歩兵がその後ろを進む。
弓兵と弩兵が配置につき、騎兵が側面へ展開する。
山々に挟まれた渓谷へ、エクィトゥム王国軍が押し寄せていく。
城壁の上でも敵兵が動き始めた。
シルウァニア王国軍が、ついにこちらの動きを確認した。
長い準備は終わった。
動員も。
兵站の確保も。
各方面への展開も。
そして、全軍の配置も。
今、エクィトゥム王国軍三十五万人、カヴィーレスターン軍三万三千人、アンティクイランド軍一万七千人。
合計四十万人に及ぶ大陸西部三国同盟軍と、約三十万人規模の総動員体制へ移行したシルウァニア王国 軍が、ついに戦場で衝突した。
アエテリア歴1316年、春の初め。
シルウァニア戦争が開戦した。
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