プロローグ (第1話) 指揮系統
婚礼の翌日。
昨日まで王宮を満たしていた祝賀の空気は、すっかり消えていた。廊下にはまだ婚礼装飾の名残が残っているものの、朝から文官や軍人たちが忙しく行き交い、王宮本来の政務の空気が戻っている。
俺もティアと朝食を済ませた後、父上から呼び出されていた。
今日の議題は、南部方面軍の指揮系統。
カヴィーレスターン軍三万三千人とアンティクイランド軍を合わせれば、南部方面に展開する連合軍は約五万人になる。
これだけの兵力を実際の戦場で動かすなら、誰が最終的な命令権を持つのかを決めておかなければならない。
俺は会議室へ入った。
父上。
軍務卿。
中央軍の高級士官たち。
そしてカヴィーレスターン側から、アイガード大族長と数名の高級士官。
机の中央には、シルウァニア王国南部の地図が広げられている。
「全員揃ったな」
父上が口を開いた。
「今日の議題は、南部方面軍の指揮系統についてだ」
軍務卿が資料を開く。
「我が国としては、南部方面軍を一つの統合軍として編成することを提案します。方面軍総司令官を置き、その指揮下にアンティクイランド軍とカヴィーレスターン軍を編入する」
アイガードは黙って聞いている。
「方面軍総司令官については、来年の遠征軍総司令官を務める予定であるレノウィウス殿下を想定しています」
俺へ視線が集まった。
「約五万人の軍を運用する以上、指揮系統を一元化する必要があります。複数の司令官が同一戦場で独立して命令を出せば、作戦遂行に支障が出る可能性が高い」
「我々からも意見があります」
アイガードが口を開いた。
「カヴィーレスターン軍三万三千の指揮権を、全面的にアンティクイランド側へ渡すことには同意できません」
室内が静かになる。
「理由は?」
父上が尋ねた。
「三万三千の兵はカヴィーレスターンの兵です。彼らの命を預かる責任は、我らにあります。遠征軍として協力することには異論ありません。しかし、自軍の指揮権まで他国へ移すことはできない」
「では、カヴィーレスターン軍は独立指揮としたいと?」
「ええ」
軍務卿が眉を寄せた。
「それでは方面軍に二つの命令系統が存在することになります」
「連合軍なのですから、それぞれの軍がそれぞれの指揮官を持つのは当然でしょう」
「当然ではありません」
軍務卿が言い切る。
「五万人規模の軍隊を動かすなら、誰が最終的な判断を下すのかを一人に定めなければならない」
アイガードも引かなかった。
「それは理解しています。しかし、だからといって三万三千を全て預けることはできません」
「カヴィーレスターン側が自軍を独自に動かせば、方面軍総司令官の命令と矛盾する可能性があります」
「我々は勝手に動くつもりはありません」
「戦場で必要なのは意思ではなく、命令系統です」
会議室の空気が少しずつ険しくなっていく。
俺は黙って二人のやり取りを聞いていた。
軍務卿の主張は正しい。
アイガードの主張も正しい。
だからこそ、簡単には決まらない。
「アイガード大族長」
「何です?」
「一つ確認します」
「どうぞ」
「カヴィーレスターン軍が自軍の指揮権を保持することは、譲れないということですね」
「はい」
「理由は、自国軍の運用について最終責任を負う必要があるから」
「その通りです」
俺は頷いた。
「では、こちらも確認してください」
俺は地図へ目を向けた。
「五万人近い軍隊が二つの指揮系統に分かれたまま戦場へ入れば、まともに動かせない可能性が高い」
アイガードが黙って俺を見る。
「例えば、連合軍全体で予定していた攻撃を中止するとします。方面軍司令官が中止を命令しても、カヴィーレスターン軍司令部が『予定通り攻撃する』と判断すれば、中央と右翼が別々に動くことになります」
「その場合は事前に調整します」
「敵は、こちらが調整を終えるまで待ってくれません」
俺は淡々と答えた。
「戦場では数十分の判断の遅れが、部隊の孤立につながることもあります。さらに五万人規模となれば、命令が下ってから末端へ届くまでにも時間がかかる」
「しかし、それを理由に三万三千を一つの指揮系統へ入れることはできません」
「分かっています」
「では、殿下はどうするおつもりです?」
アイガードの問いに、俺はすぐには答えなかった。
完全統一指揮。
それが軍事的には最も合理的だ。
だが、カヴィーレスターン側からすれば、自国が出した三万三千の兵を他国の王太子に全面的に預けることになる。
それを受け入れるとは思えない。
こちらも譲れない。
あちらも譲れない。
だから、妥協案を出したところで、どちらかが自分の重要な権限を手放すことになる。
俺は父上を見る。
父上も同じことを考えているようだった。
「アイガード大族長」
父上が口を開く。
「我々としても、カヴィーレスターン軍を尊重するつもりはある。しかし、南部方面軍の作戦指揮まで二分するわけにはいかない」
「こちらも、自軍の指揮権を放棄するわけにはいきません」
「ならば、どうする?」
「我々には先の戦争で大敗した末に他国の軍の指揮下に入るなど....こちらにも面子代言うものがあります。指揮権は譲れません。」
アイガードは静かに答えた。
「こちらもだ」
会議室が静まり返る。
誰も声を荒らげていない。
それでも、これまでになく強い対立がそこにあった。
俺は地図を見た。
五万人。
それだけの兵力を抱えている。
だが、兵が多いほど指揮は難しくなる。
五万人がそれぞれ別の命令で動けば、五万人という兵力は単純な戦力の合計にはならない。
むしろ、互いの動きを邪魔する可能性さえある。
それでも、カヴィーレスターンは自国軍の指揮権を手放せない。
そしてアンティクイランド側も、南部方面軍全体を統一指揮できない状態では作戦を承認できない。
「……平行線ですね」
俺が言った。
アイガードが頷く。
「そのようですな」
軍務卿が資料を閉じる。
「今日のところは、これ以上続けても結論は出ないでしょう」
父上も頷いた。
「そうだな」
俺は最後にアイガードを見る。
「私は、指揮系統を統一しないまま大軍を戦場へ送るつもりはありません」
「私は、自軍の指揮権を他国へ完全に渡した状態で三万三千を送り込むつもりはありません」
互いに譲らない。
だが、互いが無理を言っているわけでもない。
どちらも自国軍を預かる責任がある。
だからこそ、交渉は行き詰まった。
「本日の会談はここまでとします」
父上が宣言した。
誰も反対しなかった。
アイガードが席を立つ。
「残念ですな」
「そうですね」
俺も立ち上がった。
「ですが、こちらも譲れません」
「我々もです」
アイガードはそれ以上何も言わなかった。
会議室を出ていく。
扉が閉まる。
室内に残ったのは、アンティクイランド側の人間だけになった。
「決裂か」
父上が呟いた。
「はい」
俺は答えた。
「少なくとも、今日の段階では」
「軍としては、一元指揮が最も合理的だ」
軍務卿が言う。
「しかし、カヴィーレスターンに自軍の指揮権を放棄させることも難しい」
「だから決まらない」
俺は地図を見た。
シルウァニアとの国境。
連合軍の進軍予定。
そして、南部方面軍の展開予定地。
戦争はまだ始まっていない。
だが、その前から問題は起きている。
「父上」
「何だ?」
「別の指揮案を考える必要があります」
「ああ」
「ただし、妥協案を作るだけでは駄目だと思います」
「どういうことだ?」
「双方が譲れないなら、双方の権限を残したまま、それでも戦場で矛盾した命令が出ない仕組みを作らなければならない」
父上が少し考える。
「次の会談までに案を出すか」
「はい」
俺は頷いた。
会議室を出る。
廊下にはティアが待っていた。
「終わった?」
「ああ」
「どうだった?」
「決裂した」
ティアが少し驚く。
「……そんなに揉めたの?」
「どちらも譲れなかった」
俺は歩きながら答えた。
「カヴィーレスターンは三万三千の自軍を手放せない。こちらも、統一された指揮系統なしに五万人を戦場へ出すことはできない」
「そうなると……」
「まだ何も決まっていない」
ティアが少し黙った。
「じゃあ、また話し合うの?」
「ああ」
俺は前を向いた。
「戦争をするなら、どうしても決めなければならない」
五万人という数字だけを見れば、圧倒的な戦力に思える。
だが、五万人が一つの意思で動けなければ、その数字は意味を失う。
逆に、カヴィーレスターン側の三万三千を完全に他国の指揮下へ置けば、今度は同盟そのものが揺らぐ可能性がある。
どちらも譲れない。
だから、交渉は決裂した。
そして、問題は解決したどころか、戦争が始まる前に新たな作戦上の課題として残されることになった。




