第55話 婚礼
扉がゆっくりと開いた。
その先に広がっていたのは、いつもの王宮大広間とはまるで違う光景だった。高い天井から白銀の装飾が吊るされ、柱には雪晶を象った意匠が施されている。正面の祭壇には王家の紋章が掲げられ、その左右には氷雪の女神グラシエルを象徴する雪晶と、淡い碧色の花を用いた装飾が並べられていた。冬の陽光が高窓から差し込み、銀の装飾と白い布地に反射して、広間全体が静かな光に包まれている。
今日、この場所に集まっているのは国内外の重要人物ばかりだった。
王家の一族。
国内の主要貴族。
中央軍や王宮関係者。
エクィトゥム王国王太子フィリウス。
そしてカヴィーレスターン大族長アイガード・ゼフィル。
さらに、これまで俺たちと関わってきた多くの人間が、その場にいる。王立士官学校でともに学んできたルリウス、エリシア、コリウス、ポリウス、ホリウス、ボリウス、リアたちの姿も、参列者の中に見えていた。
誰もが今日という日を、この国の王太子と次期王太子妃の婚礼として見届けようとしている。
俺はゆっくりと前へ進んだ。
白を基調とした婚礼礼装。青と銀の刺繍が施された上衣。肩から羽織った白い外衣。その胸元には、白銀の地金で形作られた盾型の婚礼章がある。
中央には氷雪の女神グラシエルを象徴する雪晶。
その中心には、澄みきった泉を思わせる碧い宝石が一粒。
冬の光を受けるたび、それは淡く輝いていた。
そして、その隣をティアが歩いている。
純白の婚礼衣装に白銀の刺繍。裾へ向かうほど細かくなる雪晶の模様。長いヴェールの縁には淡い碧色の刺繍が施され、胸元には俺の婚礼章と対になる装飾がある。その中央にも、小さな碧い宝石が光っていた。
俺はティアを見た。
綺麗だと思った。
それは今の俺が王太子として見た感想だけではなかった。
俺たちは、もっと前からこの時間へ向かっていたような気がした。
前世では、俺とティアは幼馴染だった。
家が近く、学校でもよく顔を合わせた。くだらない話をして、くだらないことで笑って、時には喧嘩もした。それでも、お互いに相手が特別な存在だということだけは、どこかで分かっていた。
なのに、伝えられなかった。
今思えば、きっかけはいくらでもあった。
もう少し勇気があれば。
もう少し素直になれれば。
あの時、たった一言を口にしていれば。
けれど、俺たちは結局何も伝えないまま、前世を終えた。
そして今世。
俺たちは別々の人生を生き始めたはずだった。
俺はアンティクイランド王国の王太子として生まれ、ティアもまた、この世界の中で生きていた。
それでも、不思議と互いに惹かれた。
話すようになった。
一緒に過ごす時間が増えた。
そして、少しずつ前世の記憶が繋がっていった。
あの時言えなかったことまで、今度は思い出してしまった。
俺は一度、ティアとの距離を改めて考えたことがある。
前世では何もできなかった。
なら、今世ではどうするのか。
答えは決まっていた。
今度は、何も言わないまま終わらせない。
隣を歩くティアが、ほんの少しこちらを見る。
「レノ」
「何?」
「やっぱり緊張してる?」
「してない」
「本当に?」
「ああ」
「私はしてる」
ティアが小さく息を吐いた。
「でも……」
「何?」
「レノが隣にいるから、思ったより大丈夫」
俺は一瞬だけ黙った。
前世では聞けなかった言葉だった。
そして、前世の俺なら返すこともできなかったかもしれない。
「私も同じだ」
「……うん」
ティアが笑った。
その笑顔を見て、俺は再び前を向いた。
祭壇が近づいてくる。
やがて俺たちは所定の位置に立った。
正面には父上――アウレリウス王。
その隣には母上であるヴィクトリア。
父上は俺たちが立ったことを確認すると、一度だけ広間全体を見渡した。
それから、静かに口を開く。
「本日ここに、アンティクイランド王国王太子レノウィウス・ゲンス・デイ・アンティクイランドと、ティア両名の婚姻を執り行う」
広間が静まり返る。
「この婚姻は、両者の意思によって結ばれるものである。同時に、王家と王家、王国と王国を結ぶ婚姻でもある」
父上の声が広間へ響く。
「この婚姻によって、両名が互いを支え、王国を支える者となることを願う」
父上が俺たちを見る。
「では、誓約を」
まず俺が前へ出た。
婚礼を執り行う第一神座卿アウレリウス・セウェルス猊下が、俺の正面へ向かう。
「レノウィウス・ゲンス・デイ・アンティクイランド。汝はここに、ティアを妻として迎え、互いに支え、共に歩むことを誓うか」
俺はティアを見る。
前世で伝えられなかったこと。
今世で伝えると決めたこと。
そして、今日ここに立っていること。
全部を一度だけ頭の中で整理した。
「誓う」
迷いはなかった。
続いてティアへ問いが向けられる。
「ティア。汝はここに、レノウィウス殿下を夫として迎え、互いに支え、共に歩むことを誓うか」
ティアは俺を見る。
少しだけ息を吸ってから、はっきり答えた。
「誓います」
その言葉が広間へ響いた。
聖職者が静かに頷く。
「両名の誓約を確認した」
続いて婚礼章の確認が行われた。
侍従が俺の胸元へ近づき、白銀の婚礼章が正しい位置にあることを確認する。盾型の銀細工。その中央に刻まれた雪晶。そして、その中心に嵌め込まれた碧い宝石。
隣ではティアの胸元にも、対になる装飾が整えられる。
白銀。
雪晶。
碧い宝石。
二人の胸元で、ほとんど同じ色の光が静かに揺れていた。
それを確認した第一神座卿が、父上へ向かって一礼する。
父上は立ち上がった。
「ここに両名の誓約が成立したことを確認する」
そして、広間全体へ向き直る。
「本日をもって、レノウィウス・ゲンス・デイ・アンティクイランドとティアの婚姻が正式に成立したことを、アンティクイランド王国の名において宣言する」
一瞬、広間が静寂に包まれた。
第一神座卿が、俺とティアへ向き直る。
「婚姻の成立を確認した。最後に、夫婦としての誓いを結びなさい」
その言葉に、俺はティアを見る。
ティアも少し驚いたようにこちらを見た。
「……これ、聞いてた?」
ティアが小声で聞く。
「私は聞いてない」
「私も」
ティアが小さく息を吐いた。
周囲から向けられる視線を感じる。
ここまで来れば、避ける理由はない。
「行こう」
「……うん」
俺たちは向き合った。
前世では、言葉にすることさえできなかった。
今世では違う。
こうして大勢の人々の前に立ち、正式に夫婦となった。
そして、柔らかく暖かいものが俺の唇に触れた。
一瞬の儀礼だった。
けれど、その瞬間だけは周囲の声が遠くなったように感じた。
前世の俺たちにはなかった時間。
あの時、伝えられなかった想い。
それが今になって、別の人生で結ばれている。
ティアが少しだけ顔を赤くして離れる。
「……恥ずかしい」
「そうだな」
「レノは平気?」
「平気ではない」
ティアが目を丸くする。
「え?」
「私も少し緊張してる」
ティアが小さく笑った。
「……なら、私だけじゃないんだ」
「ああ」
その直後、大広間から大きな拍手が起こった。
国内の貴族たち。
王家の人々。
中央軍や王宮関係者。
エクィトゥム王国王太子フィリウス。
カヴィーレスターン大族長アイガード。
そして、俺たちと学校生活をともにしてきた仲間たち。
全員が立ち上がり、俺たちへ拍手を送っている。
俺はその光景を見渡した。
王太子として。
アンティクイランド王国の次代を担う者として。
今日この場に立つ意味は理解している。
この婚姻が外交上どれほど大きな意味を持つのかも分かっている。
エクィトゥムとの関係。
カヴィーレスターンとの結びつき。
国内の貴族たちへ示す王家の意思。
全てがこの婚礼に重なっている。
けれど――。
俺にとって一番大きいのは、ここにいる隣の人間だった。
前世では伝えられなかった。
好きだった。
大切だった。
一緒にいたかった。
そんな当たり前のことを、あの頃の俺は最後まで言葉にできなかった。
今世では違う。
今は、目の前にいる。
言葉を交わすことができる。
隣に立つことができる。
そして、こうして夫婦になった。
ティアが小さな声で呼ぶ。
「レノ」
「何?」
「……なんか、不思議だね」
「何が?」
「前世では、こんなことになるなんて考えもしなかった」
俺は少しだけティアを見る。
「私もだ」
「でも、今は――」
ティアが言葉を止める。
俺はその続きを待たずに答えた。
「今はここにいる」
「うん」
「それでいい」
ティアが微笑む。
「うん」
拍手が次第に収まる。
第一神座卿が深く一礼した。
「ここに、アンティクイランド王国王太子レノウィウス・ゲンス・デイ・アンティクイランドと、ティアの婚姻は正式に成立した」
その言葉をもって、婚礼の核心となる儀礼は終わった。
侍従が前へ進み出た。
「王太子殿下、王太子妃殿下。次の式次第へ移ります」
俺はティアを見る。
「まだ続くな」
「うん」
「行こう」
「うん」
俺が手を差し出す。
ティアがその手を取った。
俺たちは並んで祭壇を離れた。
婚礼式を終えた俺たちは、王宮大広間の別の場所へ移動した。
そこでは、国内外の主要な来賓が俺たちを待っていた。
まず父上が正式に俺たちを紹介する。
「改めて、ここにレノウィウス・ゲンス・デイ・アンティクイランド王太子と、王太子妃ティアを紹介する」
その言葉を聞いて、俺は少しだけ意識を改めた。
先ほどまでは「次期王太子妃」だったティアは、もう違う。
今日からは正式な王太子妃。
それはただの呼び方の変化ではない。
王国における立場そのものが変わったということだ。
隣にいるティアも、それを理解しているようだった。
「まず、エクィトゥム王国王太子フィリウス殿下」
フィリウスが進み出た。
「改めて、おめでとう。レノ、ティア」
「ありがとう、フィリウス」
フィリウスが少し笑う。
「以前から二人を見てきたけれど、今日こうして正式に夫婦になったのを見ると、やはり感慨深いね」
「そうか?」
「そうだよ」
フィリウスはティアにも視線を向けた。
「ティア、改めておめでとう。これからもレノを支えてあげてほしい」
「はい。こちらこそ、よろしくお願いします」
「そしてレノ」
「何?」
「これからは君一人で王太子として立つわけじゃない。隣にティアがいる。そのことを忘れないように」
俺は少しだけティアを見る。
「分かってる」
フィリウスは満足そうに頷いた。
「ならいい」
次にアイガードが進んできた。
「お二人とも、おめでとうございます」
「ありがとうございます、大族長」
「いやあ、ガルディシアで会った時には、こうなるとは思いませんでしたな」
「私もです」
「今や王太子夫妻。随分立派になったものです」
アイガードが豪快に笑う。
「ですが、あまり難しく考えすぎる必要はありませんぞ。夫婦になったのなら、まずは互いに支え合えばいい」
ティアが少し笑った。
「ありがとうございます」
「それから、殿下」
アイガードが俺を見る。
「明日の話は忘れていませんな?」
「軍事会談ですか?」
「そうです」
「忘れていません」
「それなら結構」
アイガードは笑った。
「今日は祝いの日です。軍の話は明日で十分ですからな」
「そうですね」
俺も少し笑った。
その後、国内の王族、主要貴族、軍務関係者などへの挨拶が続いた。
一人ずつ立場と名前を確認し、必要な言葉を交わす。
ティアも最初は少し緊張していたが、次第に落ち着いていった。
事前に何度も準備しただけあって、挨拶の順番を間違えることもない。
「王太子妃殿下、ご婚礼おめでとうございます」
「ありがとうございます」
以前なら「次期王太子妃」と呼ばれていた。
今日は違う。
「王太子妃殿下」。
その呼び方が少しずつ耳に馴染んでいく。
俺はその様子を見ながら、自分の方も自然に受け入れていた。
これからは二人で王太子夫妻として動く。
式典も。
外交も。
社交も。
王国のことも。
すべての主要来賓への披露が終わると、次は祝宴へ移った。
大広間には改めて長い卓が並べられ、料理が運ばれていく。
父上が中央の席に立つ。
「本日は、我が息子レノウィウスとティアの婚姻を祝うため、これほど多くの方々に集まっていただいたことを嬉しく思う」
父上の言葉が響く。
「この婚姻が二人にとって幸せなものであると同時に、王国と王国を結ぶ絆として、これから長く続いていくことを願っている」
その後、フィリウスが祝辞を述べる。
「本日ここに立つ二人を、私はこれまで何度も見てきました。今日からは王太子と王太子妃として、互いに支え合っていくことでしょう。この婚姻がアンティクイランドとエクィトゥムの両国にとって、さらに強い結びつきになることを願います」
続いてアイガードが立った。
「カヴィーレスターンから来ましたアイガード・ゼフィルです。二人の婚礼を心からお祝い申し上げます。王国とカヴィーレスターンがこれまで積み重ねてきた関係が、この婚姻によってさらに深くなることを期待しております」
祝辞が終わると、宴が始まった。
料理が運ばれ、音楽が流れる。
昼間の緊張した式典とは違い、広間には少しずつ柔らかな空気が戻っていった。
俺は隣のティアを見る。
「疲れた?」
「少し」
「まだ続くぞ」
「分かってる」
ティアが苦笑する。
「でも、大丈夫」
「ならいい」
しばらくして、ティアが小さな声で言った。
「レノ」
「何?」
「さっきのこと、覚えてる?」
「どれ?」
「前世の話」
「覚えてる」
「今でも不思議」
「何が?」
「昔の私たちなら、こうなるなんて絶対に想像できなかった」
俺は少し考えた。
「そうだな」
「前世の時は、最後まで何も言えなかった」
「ああ」
「でも今は、こうしてみんなの前で結婚した」
ティアが小さく笑う。
「変な感じ」
「私もそう思う」
「でも……」
ティアはそこで少し言葉を止めた。
「今度は言えてよかった」
俺はティアを見る。
「そうだな」
それだけ答えた。
大勢の人間がいる。
今日は王太子としての責任もある。
だから、ここで余計なことを言う必要はない。
それでも、ティアが何を言ったのかは十分に分かっていた。
祝宴が進み、やがて一つの区切りを迎えた。
侍従が俺たちのところへ来る。
「王太子殿下、王太子妃殿下。次の予定へ移ります」
俺は頷いた。
「分かった」
ティアも席を立つ。
今日の式典はまだ終わらない。
これから王太子夫妻として、正式な場に姿を見せる必要がある。
俺たちは大広間を出て、王宮の廊下を進んだ。
廊下には多くの侍従が待機し、先ほどまでより少し静かな空気が戻っている。
窓から外を見る。
冬の夕暮れが近づいている。
今日の朝から始まった婚礼は、何時間も続いている。
それでも、ようやく一つの大きな節目を越えたところだった。
ティアが隣で小さく息を吐く。
「今日は長いね」
「そうだな」
「でも、終わりが見えてきた」
「ああ」
俺は少しだけティアを見る。
「最後までいこう」
「うん」
俺たちはそのまま歩き続けた。
王太子と王太子妃として。
夫と妻として。
そして――。
前世では最後まで想いを伝えられなかった幼馴染として、今世でようやく互いを選び、同じ道を歩き始めた二人として。
今日という日は、もう戻ってこない。
それでも、この日のことは忘れないだろう。
前世で伝えられなかった言葉を、今世では伝えることができた。
前世では並んで歩くことすら最後まで叶わなかった。
今世では、こうして同じ場所へ向かっている。
王宮の廊下の先では、次の式次第が待っている。
その先には祝宴があり、さらにその後には冬の終わりの社交界が待っている。
やることはまだ残っている。
王太子として果たすべき役割も、王太子妃として果たすべき役割も増えた。
けれど、今日からは一人ではない。
俺は隣を歩くティアを見た。
ティアもこちらを見る。
「行こう」
「ああ」
二人はそのまま歩いていった。
アンティクイランド王国の王太子夫妻として。
そして、前世では結ばれなかった幼馴染として、今度こそ同じ未来へ向かう二人として。
こうして、俺たちの婚礼は終わった。




