表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
氷の奇公子 ~変人王子の生存術~  作者: 佐藤湊
第1章 誕生と王国の影
PR
25/311

第21話 返せなかったもの

その日の夜。


俺は、自室に戻っていた。


窓の外には、王宮の夜を照らす無数の灯りが浮かんでいる。昼間まであれほど多くの人間が行き交っていた王宮も、夜になれば静まり返り、遠くから聞こえてくる衛兵たちの足音と、風に揺れる木々の音だけが、静かな廊下に響いていた。


今日一日は、あまりにも長かった。


五歳になった俺の、王族としての正式なお披露目。


大神殿で行われた聖別洗礼式。


大勢の貴族や神官たちに囲まれ、第一神座卿アウレリウス・セウェルス猊下からグラシエル教の正式な信徒として認められ、王位継承順位第一位の王子として改めて公に宣言された。


その後も親族への挨拶や社交界への顔見せが続き、気を抜く暇などほとんどなかった。


正直に言えば、疲れている。


今すぐベッドに横になって眠ってしまいたいくらいだ。


「……今日は、本当に長かったな」


誰に言うでもなく、そう呟く。


そして、ふと母上の顔を思い出した。


大神殿でのことだ。


俺が洗礼を受けている間、母上は少し離れたところから、ずっと俺を見ていた。


俺が魔力測定を受けたときも。


神器から剣が現れたときも。


母上は驚いたような顔をしながら、それでも最後には嬉しそうに微笑んでいた。


あの顔が、今になって妙に印象に残っている。


「……明日、母上のところへ行こう」


そう呟いた。


今日のことを話したい。


神器のことも。


聖別洗礼式のことも。


社交界で会った人々のことも。


何より――今日一日、俺を見守ってくれていたことへの礼を言いたかった。


「今日は、ありがとう」と。


たったそれだけでもいい。


明日、伝えればいい。


そう思っていた。


――明日になれば。


そう思っていた。


そのときだった。


――コンコン。


部屋の扉が叩かれた。


「殿下」


聞き慣れた声だった。


ゼバズだ。


「入れ」


俺が答えると、扉がゆっくりと開いた。


「失礼いたします」


ゼバズが入ってくる。


いつもと変わらない姿。


いつもと変わらない礼儀正しい動作。


――ただし。


その表情だけが、明らかに違っていた。


「……どうした?」


俺が尋ねても、ゼバズはすぐには答えなかった。


何かを言おうとして、口を閉じる。


そして、再び俺を見る。


その顔を見た瞬間、胸の奥に小さな違和感が生まれた。


「ゼバズ?」


「……殿下」


ようやく、彼が口を開いた。


「第一王妃殿下について……お伝えしなければならないことがございます」


「母上が?」


その言葉に、俺は立ち上がった。


嫌な予感がした。


けれど、それが何なのかまでは分からない。


「何かあったのか?」


ゼバズは俯いた。


「…………」


「答えてくれ」


俺が静かに促す。


すると――


「……第一王妃殿下が、お亡くなりになりました」


「…………」


一瞬。


何を言われたのか、理解できなかった。


「……今、何と?」


「第一王妃殿下が――」


「聞こえた」


俺は静かに遮った。


自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。


「聞こえたから……もう一度言う必要はない」


ゼバズが黙る。


俺は彼を見つめた。


何かの間違いだ。


そう思った。


「……母上が亡くなった?」


自分の口から出た言葉なのに、まるで他人の話をしているようだった。


「はい……」


「それは、どういう意味だ?」


「……王妃殿下は、先ほどご自身のお部屋で――」


「父上は?」


「国王陛下も、すでに王妃殿下のもとへ向かわれております」


「そうか」


短く答えた。


そして。


俺は部屋を出た。


「殿下!」


後ろからゼバズの声が聞こえる。


だが、振り返らなかった。


廊下を歩く。


いや。


歩いているつもりだった。


気がつけば、足が勝手に動いていた。


母上の離宮へ向かう。


何人もの侍女や騎士が、俺の姿を見ると慌てて道を開ける。


誰も何も言わない。


その沈黙が、何よりも不気味だった。


やがて、母上の離宮が見えてきた。


その前には、父上が立っていた。


国王である父上が。


いつもなら誰よりも堂々としている父上が――


今は、ただ扉を見つめていた。


「……父上」


俺が声をかける。


父上がゆっくりと振り返った。


「レノウィウス……」


その声を聞いた瞬間。


俺は、もう理解してしまった。


本当なのだ。


「……母上は?」


父上は何も答えなかった。


ただ、静かに俺の肩へ手を置く。


「父上」


「……」


「母上は、どこに?」


「……中だ」


それだけだった。


俺は扉を見る。


「入ってもよろしいですか?」


自分でも驚くほど、丁寧な言葉が出た。


父上はしばらく黙っていたが、やがて小さく頷いた。


「……ああ」


扉が開く。


俺は中へ入った。


そして――


母上を見た。


「…………」


足が止まった。


そこにいる。


確かに母上がいる。


けれど。


いつもと違う。


いつもなら、俺が部屋へ入れば笑ってくれる。


「レノウィウス、おかえりなさい」


そう言ってくれる。


勉強を頑張れば褒めてくれる。


剣の訓練をした日は、


「今日は疲れたでしょう?」


と心配してくれる。


少しでも顔色が悪ければ、


「無理をしてはいけませんよ」


と優しく叱ってくれる。


俺が何かに失敗しても、決して見放さなかった。


俺が王子として振る舞えずに悩んだときも。


俺が前世の知識と、この世界の常識との違いに戸惑ったときも。


母上は、ただ俺の隣にいてくれた。


――いつだって。


それが当たり前だと思っていた。


「……母上?」


呼びかける。


返事はない。


「母上」


もう一度。


やはり返事はない。


俺はゆっくりと近づいた。


そして、そこで初めて理解した。


「……本当に、亡くなったのか」


誰も答えない。


当然だった。


答えられる人間など、ここにはいなかった。


俺は母上を見つめた。


今日の朝まで。


いや。


つい数時間前まで。


母上は生きていた。


俺のことを見ていた。


笑っていた。


なのに。


「…………」


胸の奥が、じわじわと冷えていく。


そのときだった。


ふと、記憶が蘇った。


俺がまだ小さかった頃。


母上の膝の上に座っていたこと。


絵本を読んでもらったこと。


俺が眠そうにしていると、母上が笑いながら髪を撫でてくれたこと。


初めて剣を持った日。


上手く振れずに悔しがっていた俺を、母上が嬉しそうに見ていたこと。


俺が熱を出した夜。


母上がずっと傍にいてくれたこと。


俺が初めて「母上」と呼んだ日のこと。


母上は、泣きそうなほど嬉しそうに笑っていた。


「…………」


一つ。


また一つ。


記憶が蘇ってくる。


そのすべてに、母上がいた。


俺の五年間には――


いつも母上がいた。


「……そうか」


小さく呟く。


「俺は……」


そこで言葉が止まった。


何かがおかしい。


胸の奥に、別の記憶が浮かんでくる。


前世。


佐藤湊として生きていた頃。


朝倉美咲。


幼稚園の頃から、ずっと隣にいた。


俺が好きだった女の子。


俺は彼女に告白した。


そして、彼女は答えた。


『湊のこと、大切だよ』


『たぶん……すごく好き』


『でも、それが恋なのか分からないの』


あのとき俺は、彼女の答えを待った。


自分の気持ちは伝えた。


だから、それで十分だと思っていた。


でも。


今になって思う。


美咲が俺に向けてくれていたものを、俺はどれだけ受け止めていただろう。


そして――


今世。


母上もまた、俺に愛情を注いでくれていた。


それは、疑いようがない。


俺が王子だからではない。


第一王子だからでもない。


ただ。


俺が母上の息子だったから。


それだけの理由で。


「…………」


俺は唇を噛んだ。


「俺は……母上に、何を返した?」


答えが出ない。


いや。


違う。


答えは分かっている。


何も返していないわけではない。


俺も母上を愛していた。


大切に思っていた。


母上のことが好きだった。


それは間違いない。


けれど――


言葉にして伝えただろうか。


「ありがとう」と。


「母上が好きです」と。


「俺の母上でいてくれて嬉しい」と。


「産んでくれてありがとう」と。


「…………」


言っていない。


一度も。


なぜだ。


どうしてだ。


母上は明日もいると思っていたからだ。


明日になれば、また会えると思っていた。


だから、今日言わなくてもいいと思った。


今日でなくても。


明日でいい。


来週でもいい。


来月でもいい。


いつか伝えればいい。


そう思っていた。


――その「いつか」が、永遠に失われた。


「……そんな」


声が震えた。


「そんなこと……」


俺は俯いた。


「……許されるのか?」


何が許されるのか、自分でも分からない。


ただ。


悔しかった。


悲しかった。


そして何より――


自分自身が許せなかった。


前世でも。


俺は大切な人との間に残された時間を、当然のように思っていた。


そして今世でも。


同じことをした。


「……まただ」


声が漏れる。


「また……俺は……」


美咲のときも。


母上のときも。


大切な人が自分のそばにいることを、当然だと思っていた。


いつでも話せる。


いつでも伝えられる。


いつでも会える。


そう思っていた。


でも。


そんな保証など、どこにもなかった。


「母上……」


俺は一歩、近づく。


「……俺は」


声が震える。


それでも、言葉にする。


「母上のことを……愛していました」


返事はない。


「大切でした」


返事はない。


「俺のことを育ててくださって……ありがとうございます」


返事はない。


「俺の母上でいてくださって……ありがとうございました」


返事はない。


涙が頬を伝った。


それでも俺は、言葉を止められなかった。


「もっと……お話ししたかった」


「もっと一緒にいたかった」


「もっと……母上に、俺の気持ちをお伝えしたかった」


声が震える。


「……なのに」


俺は拳を握った。


「なぜ……俺は、それを後回しにしたんだ……」


答えなど返ってこない。


当然だ。


もう母上は――


俺の声を聞くことができない。


「…………」


その事実が、何よりも苦しかった。


俺は王子だ。


いずれこの国を背負う立場にいる。


歴史も知っている。


政治も学んでいる。


軍事についても学んでいる。


この国の未来について考えることもできる。


けれど。


そんなものは。


今この瞬間には、何の意味もない。


母上を救えなかった。


母上に「ありがとう」と伝えることすら、間に合わなかった。


俺には何もできなかった。


「……俺は」


涙を拭う。


けれど、次から次へと溢れてくる。


「俺は……母上に愛されていたのだな」


今になって。


ようやく。


当たり前すぎて気づかなかったものの大きさに気づいた。


「なのに……俺は、その愛に……十分に応えられなかった」


前世では、愛していた女の子に自分の気持ちを伝えた。


けれど、その答えを聞くことができなかった。


今世では、愛してくれていた母に自分の気持ちを伝えないまま――


その人を失った。


「…………」


それが。


たまらなく苦しかった。


「母上……」


最後に、もう一度だけ呼ぶ。


「……申し訳ありません」


五歳の王子として。


そして。


前世を生きた一人の人間として。


俺はただ、母上の前で頭を下げた。


「もっと早く……お伝えすればよかった」


「もっと……大切にすればよかった」


「もっと……一緒にいればよかった」


そして。


最後に。


「……愛しています」


その言葉だけが。


静まり返った部屋に、虚しく響いた。


返事は――


なかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ