第21話 返せなかったもの
その日の夜。
俺は、自室に戻っていた。
窓の外には、王宮の夜を照らす無数の灯りが浮かんでいる。昼間まであれほど多くの人間が行き交っていた王宮も、夜になれば静まり返り、遠くから聞こえてくる衛兵たちの足音と、風に揺れる木々の音だけが、静かな廊下に響いていた。
今日一日は、あまりにも長かった。
五歳になった俺の、王族としての正式なお披露目。
大神殿で行われた聖別洗礼式。
大勢の貴族や神官たちに囲まれ、第一神座卿アウレリウス・セウェルス猊下からグラシエル教の正式な信徒として認められ、王位継承順位第一位の王子として改めて公に宣言された。
その後も親族への挨拶や社交界への顔見せが続き、気を抜く暇などほとんどなかった。
正直に言えば、疲れている。
今すぐベッドに横になって眠ってしまいたいくらいだ。
「……今日は、本当に長かったな」
誰に言うでもなく、そう呟く。
そして、ふと母上の顔を思い出した。
大神殿でのことだ。
俺が洗礼を受けている間、母上は少し離れたところから、ずっと俺を見ていた。
俺が魔力測定を受けたときも。
神器から剣が現れたときも。
母上は驚いたような顔をしながら、それでも最後には嬉しそうに微笑んでいた。
あの顔が、今になって妙に印象に残っている。
「……明日、母上のところへ行こう」
そう呟いた。
今日のことを話したい。
神器のことも。
聖別洗礼式のことも。
社交界で会った人々のことも。
何より――今日一日、俺を見守ってくれていたことへの礼を言いたかった。
「今日は、ありがとう」と。
たったそれだけでもいい。
明日、伝えればいい。
そう思っていた。
――明日になれば。
そう思っていた。
そのときだった。
――コンコン。
部屋の扉が叩かれた。
「殿下」
聞き慣れた声だった。
ゼバズだ。
「入れ」
俺が答えると、扉がゆっくりと開いた。
「失礼いたします」
ゼバズが入ってくる。
いつもと変わらない姿。
いつもと変わらない礼儀正しい動作。
――ただし。
その表情だけが、明らかに違っていた。
「……どうした?」
俺が尋ねても、ゼバズはすぐには答えなかった。
何かを言おうとして、口を閉じる。
そして、再び俺を見る。
その顔を見た瞬間、胸の奥に小さな違和感が生まれた。
「ゼバズ?」
「……殿下」
ようやく、彼が口を開いた。
「第一王妃殿下について……お伝えしなければならないことがございます」
「母上が?」
その言葉に、俺は立ち上がった。
嫌な予感がした。
けれど、それが何なのかまでは分からない。
「何かあったのか?」
ゼバズは俯いた。
「…………」
「答えてくれ」
俺が静かに促す。
すると――
「……第一王妃殿下が、お亡くなりになりました」
「…………」
一瞬。
何を言われたのか、理解できなかった。
「……今、何と?」
「第一王妃殿下が――」
「聞こえた」
俺は静かに遮った。
自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。
「聞こえたから……もう一度言う必要はない」
ゼバズが黙る。
俺は彼を見つめた。
何かの間違いだ。
そう思った。
「……母上が亡くなった?」
自分の口から出た言葉なのに、まるで他人の話をしているようだった。
「はい……」
「それは、どういう意味だ?」
「……王妃殿下は、先ほどご自身のお部屋で――」
「父上は?」
「国王陛下も、すでに王妃殿下のもとへ向かわれております」
「そうか」
短く答えた。
そして。
俺は部屋を出た。
「殿下!」
後ろからゼバズの声が聞こえる。
だが、振り返らなかった。
廊下を歩く。
いや。
歩いているつもりだった。
気がつけば、足が勝手に動いていた。
母上の離宮へ向かう。
何人もの侍女や騎士が、俺の姿を見ると慌てて道を開ける。
誰も何も言わない。
その沈黙が、何よりも不気味だった。
やがて、母上の離宮が見えてきた。
その前には、父上が立っていた。
国王である父上が。
いつもなら誰よりも堂々としている父上が――
今は、ただ扉を見つめていた。
「……父上」
俺が声をかける。
父上がゆっくりと振り返った。
「レノウィウス……」
その声を聞いた瞬間。
俺は、もう理解してしまった。
本当なのだ。
「……母上は?」
父上は何も答えなかった。
ただ、静かに俺の肩へ手を置く。
「父上」
「……」
「母上は、どこに?」
「……中だ」
それだけだった。
俺は扉を見る。
「入ってもよろしいですか?」
自分でも驚くほど、丁寧な言葉が出た。
父上はしばらく黙っていたが、やがて小さく頷いた。
「……ああ」
扉が開く。
俺は中へ入った。
そして――
母上を見た。
「…………」
足が止まった。
そこにいる。
確かに母上がいる。
けれど。
いつもと違う。
いつもなら、俺が部屋へ入れば笑ってくれる。
「レノウィウス、おかえりなさい」
そう言ってくれる。
勉強を頑張れば褒めてくれる。
剣の訓練をした日は、
「今日は疲れたでしょう?」
と心配してくれる。
少しでも顔色が悪ければ、
「無理をしてはいけませんよ」
と優しく叱ってくれる。
俺が何かに失敗しても、決して見放さなかった。
俺が王子として振る舞えずに悩んだときも。
俺が前世の知識と、この世界の常識との違いに戸惑ったときも。
母上は、ただ俺の隣にいてくれた。
――いつだって。
それが当たり前だと思っていた。
「……母上?」
呼びかける。
返事はない。
「母上」
もう一度。
やはり返事はない。
俺はゆっくりと近づいた。
そして、そこで初めて理解した。
「……本当に、亡くなったのか」
誰も答えない。
当然だった。
答えられる人間など、ここにはいなかった。
俺は母上を見つめた。
今日の朝まで。
いや。
つい数時間前まで。
母上は生きていた。
俺のことを見ていた。
笑っていた。
なのに。
「…………」
胸の奥が、じわじわと冷えていく。
そのときだった。
ふと、記憶が蘇った。
俺がまだ小さかった頃。
母上の膝の上に座っていたこと。
絵本を読んでもらったこと。
俺が眠そうにしていると、母上が笑いながら髪を撫でてくれたこと。
初めて剣を持った日。
上手く振れずに悔しがっていた俺を、母上が嬉しそうに見ていたこと。
俺が熱を出した夜。
母上がずっと傍にいてくれたこと。
俺が初めて「母上」と呼んだ日のこと。
母上は、泣きそうなほど嬉しそうに笑っていた。
「…………」
一つ。
また一つ。
記憶が蘇ってくる。
そのすべてに、母上がいた。
俺の五年間には――
いつも母上がいた。
「……そうか」
小さく呟く。
「俺は……」
そこで言葉が止まった。
何かがおかしい。
胸の奥に、別の記憶が浮かんでくる。
前世。
佐藤湊として生きていた頃。
朝倉美咲。
幼稚園の頃から、ずっと隣にいた。
俺が好きだった女の子。
俺は彼女に告白した。
そして、彼女は答えた。
『湊のこと、大切だよ』
『たぶん……すごく好き』
『でも、それが恋なのか分からないの』
あのとき俺は、彼女の答えを待った。
自分の気持ちは伝えた。
だから、それで十分だと思っていた。
でも。
今になって思う。
美咲が俺に向けてくれていたものを、俺はどれだけ受け止めていただろう。
そして――
今世。
母上もまた、俺に愛情を注いでくれていた。
それは、疑いようがない。
俺が王子だからではない。
第一王子だからでもない。
ただ。
俺が母上の息子だったから。
それだけの理由で。
「…………」
俺は唇を噛んだ。
「俺は……母上に、何を返した?」
答えが出ない。
いや。
違う。
答えは分かっている。
何も返していないわけではない。
俺も母上を愛していた。
大切に思っていた。
母上のことが好きだった。
それは間違いない。
けれど――
言葉にして伝えただろうか。
「ありがとう」と。
「母上が好きです」と。
「俺の母上でいてくれて嬉しい」と。
「産んでくれてありがとう」と。
「…………」
言っていない。
一度も。
なぜだ。
どうしてだ。
母上は明日もいると思っていたからだ。
明日になれば、また会えると思っていた。
だから、今日言わなくてもいいと思った。
今日でなくても。
明日でいい。
来週でもいい。
来月でもいい。
いつか伝えればいい。
そう思っていた。
――その「いつか」が、永遠に失われた。
「……そんな」
声が震えた。
「そんなこと……」
俺は俯いた。
「……許されるのか?」
何が許されるのか、自分でも分からない。
ただ。
悔しかった。
悲しかった。
そして何より――
自分自身が許せなかった。
前世でも。
俺は大切な人との間に残された時間を、当然のように思っていた。
そして今世でも。
同じことをした。
「……まただ」
声が漏れる。
「また……俺は……」
美咲のときも。
母上のときも。
大切な人が自分のそばにいることを、当然だと思っていた。
いつでも話せる。
いつでも伝えられる。
いつでも会える。
そう思っていた。
でも。
そんな保証など、どこにもなかった。
「母上……」
俺は一歩、近づく。
「……俺は」
声が震える。
それでも、言葉にする。
「母上のことを……愛していました」
返事はない。
「大切でした」
返事はない。
「俺のことを育ててくださって……ありがとうございます」
返事はない。
「俺の母上でいてくださって……ありがとうございました」
返事はない。
涙が頬を伝った。
それでも俺は、言葉を止められなかった。
「もっと……お話ししたかった」
「もっと一緒にいたかった」
「もっと……母上に、俺の気持ちをお伝えしたかった」
声が震える。
「……なのに」
俺は拳を握った。
「なぜ……俺は、それを後回しにしたんだ……」
答えなど返ってこない。
当然だ。
もう母上は――
俺の声を聞くことができない。
「…………」
その事実が、何よりも苦しかった。
俺は王子だ。
いずれこの国を背負う立場にいる。
歴史も知っている。
政治も学んでいる。
軍事についても学んでいる。
この国の未来について考えることもできる。
けれど。
そんなものは。
今この瞬間には、何の意味もない。
母上を救えなかった。
母上に「ありがとう」と伝えることすら、間に合わなかった。
俺には何もできなかった。
「……俺は」
涙を拭う。
けれど、次から次へと溢れてくる。
「俺は……母上に愛されていたのだな」
今になって。
ようやく。
当たり前すぎて気づかなかったものの大きさに気づいた。
「なのに……俺は、その愛に……十分に応えられなかった」
前世では、愛していた女の子に自分の気持ちを伝えた。
けれど、その答えを聞くことができなかった。
今世では、愛してくれていた母に自分の気持ちを伝えないまま――
その人を失った。
「…………」
それが。
たまらなく苦しかった。
「母上……」
最後に、もう一度だけ呼ぶ。
「……申し訳ありません」
五歳の王子として。
そして。
前世を生きた一人の人間として。
俺はただ、母上の前で頭を下げた。
「もっと早く……お伝えすればよかった」
「もっと……大切にすればよかった」
「もっと……一緒にいればよかった」
そして。
最後に。
「……愛しています」
その言葉だけが。
静まり返った部屋に、虚しく響いた。
返事は――
なかった。




