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氷の奇公子 ~変人王子の生存術~  作者: 佐藤湊
第1章 誕生と王国の影
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第20話 白薔薇の夜

社交界終了後のその夜。


王宮は静まり返っていた。


昼間の喧騒が嘘のように消え、廊下を照らす燭台の炎だけが、静かに揺れている。


第一王妃の離宮もまた、深い静寂に包まれていた。


寝室の中。


第一王妃は一人、窓辺に置かれた椅子に腰掛けていた。


机の上には、昼間に使われた食器が片付けられている。


壁際には侍女たちが控えている。


「本日はお疲れになられたでしょう」


侍女の一人が声をかける。


第一王妃は小さく微笑んだ。


「ええ。少しだけね」


その視線が窓の外へ向けられる。


夜空には、いくつもの星が浮かんでいた。


「……レノも、今日は疲れたでしょうね」


「はい」


侍女が答える。


「ですが、とても立派でございました」


「そう」


第一王妃は微笑む。


「五年前は、あんなに小さかったのに……」


その声は穏やかだった。


やがて侍女が、机の上に一杯の飲み物を置いた。


「こちらをどうぞ」


「ありがとう」


第一王妃はそれを手に取る。


そして――。


一口。


飲み物を口にした。


数秒。


何も起こらない。


第一王妃は再び窓の外を見る。


「……今日は、本当に長い一日だったわ」


侍女たちは黙って頭を下げた。


しばらくして。


第一王妃の手から、器が滑り落ちた。


――カラン。


床に落ちた器が乾いた音を立てる。


「王妃殿下?」


返事はない。


第一王妃の身体が、ゆっくりと傾く。


「殿下!」


侍女が駆け寄る。


その顔を見つめながら、侍女の手が震える。


そして――。


懐から、小さな刃物が取り出された。


「…………」


刃が月明かりを反射する。


次の瞬間。


それが第一王妃へ向けられた。


「……ようやくです」


「あなたさえいなければ……」


「全部あなたのせいで、私はぁぁぁ」


短い衝撃。


第一王妃の身体が揺れる。


肉が切り裂かれる音だけが、静かな寝室に響いた。


第一王妃は力なく椅子へもたれかかる。


その瞳は、もう目の前の侍女を見ていなかった。


代わりに――。


五年前の光景が、脳裏をよぎっていた。


初めてレノウィウスを抱いた日のこと。


生まれたばかりの小さな身体。


自分の腕の中で泣いていた、小さな赤ん坊。


あまりにも小さな手。


その指を握ったとき。


赤ん坊の指が、弱々しく自分の指を握り返した。


あの日。


自分は、この子を守ろうと思った。


何があっても。


この子だけは。


一歳になった頃。


まだ上手に歩けなかったレノウィウスが、何度も転びながら自分のところへ歩いてきた。


「母上……」


初めてそう呼ばれた日のこと。


あまりに嬉しくて。


何度も抱きしめた。



三歳。


少しずつ文字を覚え始めた。


絵本を開いては、知ったばかりの言葉を一生懸命に読んでいた。


間違えるたびに悔しそうな顔をして。


それでも諦めず、もう一度読み直す。


「母上!できた!」


そう言って笑った顔を。


今でも覚えている。



五年間。


短かった。


あまりにも短すぎた。


第一王妃の指先が、僅かに動く。


けれど。


その手が誰かに届くことはなかった。


静かな寝室。


白い月明かり。


床に落ちた一輪の白薔薇。


そして――。


第一王妃は、二度と目を開けなかった。


その夜。


アンティクイランド王国第一王妃

リウィア・ゲンス・デイ・アンティクイランド

享年二十五歳。

次回、第21話 返せなかったもの


そろそろ主人公の性格が冷徹に変化していく予定です。

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