第39話 基本授業継続
夏の終わりが近づき、朝晩に少しずつ涼しさを感じるようになった頃、王立士官学校では秋季課程が始まった。
夏季休暇直後の課外学習では、シルウァニア王国との国境付近まで赴き、防御壁の偵察を行った。その後も本来の課外学習である行軍や山岳移動、河川渡河などを続けている途中、シルウァニア軍の斥候部隊と遭遇戦になった。第1学年と第2学年に死傷者が出るという結果になったが、学校側は予定していた教育課程を中断することなく、そのまま通常授業へ戻していた。
そして秋から、士官候補生たちは本格的な戦術教育へ入る。
この日の授業は、小隊戦術、分隊指揮、そして偵察だった。
教室ではなく、校内の広大な訓練場に候補生たちが集められている。訓練場には土を盛って作った丘陵、木材で作られた簡易的な建物、森林を模した区画、街道を示す細い道などが設置されており、一つの小さな戦場が作られていた。
「今日から諸君らは、ただ命令された通りに動く訓練をやめる」
壇上に立った教官が候補生たちを見渡した。
「これまで学んできたのは、兵士として必要な基礎だ。だが、士官候補生である以上、それだけでは足りない。諸君ら自身が状況を判断し、部下へ命令を出し、任務を達成しなければならない」
俺は腕を組んだまま、訓練場の模型を眺めていた。
夏の課外学習で実際に敵と遭遇した直後だからなのか、以前よりも教官の言葉が具体的に感じられる。
実際の戦場では、教官が横に立って「次はこうしろ」と教えてくれるわけではない。
敵が突然現れる。
予定していた道が使えなくなる。
部隊の一部が遅れる。
情報が間違っている。
そういう状況で、自分で決断しなければならない。
「本日の演習は一つの作戦として行う」
教官が地図を広げた。
「偵察部隊が敵を発見し、その情報を小隊へ伝達する。小隊は敵情に応じて行動を決定し、その一部を分隊単位で運用する。つまり、本日の三つの授業を別々に行うわけではない」
候補生たちがざわめく。
「偵察から始まり、分隊指揮を経て、小隊戦術へつなげる。」
俺は少しだけ興味を持った。
なるほど。
単独の技術ではなく、一連の流れとして訓練するわけか。
「演習区域はここから北側の模擬森林地帯まで。敵役は第三学年の候補生が担当する」
教官が地図上の一点を指した。
「諸君らの任務は、街道を通って後方へ向かう輸送隊を安全に通過させること。そのために敵の位置を確認し、必要ならば迂回路を確保する」
敵を倒せ、とは言わない。
任務は輸送隊の通過。
俺はその部分を聞いて、少しだけ頷いた。
「ただし、一つ条件を追加する」
教官が続けた。
「敵の正確な兵力は不明とする」
周囲から小さなどよめきが起きる。
「敵の情報が少ない状態から始めろということだ。偵察して情報を集め、その情報を基に判断しろ」
教官が一歩下がった。
「では、開始」
俺たちは一斉に動き始めた。
まず偵察班が前へ出る。
俺の所属する班にもルリウスがいた。別のクラスで普段はあまり一緒に訓練することはないが、こうした実習では同じ班になることがある。
「殿下、あの丘の向こうを確認してきます」
「分かりました。ただし深入りはしないでください。敵を見つけたら位置だけ確認して戻りましょう」
「承知しました」
ルリウスたちは森林へ入っていった。
俺は後方で地図を確認する。
今回の訓練では、敵の位置が分からない。
ならば、まず情報を得る必要がある。
しばらくすると、ルリウスが戻ってきた。
「殿下、敵を確認しました」
「規模は?」
「正確には分かりません。ただ、森林の奥に歩兵が十数人。それと、丘の反対側にも人影があります」
「二つに分かれている?」
「そのように見えます」
俺は地図を見る。
もし敵が二手に分かれているなら、街道をそのまま進むのは危険だ。
「どちらが主力かは?」
「不明です」
「分かりました。現時点では判断しません」
ここで敵を一つの部隊だと決めつければ、偵察で得た情報そのものを誤って解釈することになる。
「偵察班をもう一組、東側へ」
「はい」
別の候補生が走っていく。
しばらくすると、今度は別の報告が入った。
「東側には敵はいません!」
「では、敵は森林と丘の間にいる可能性が高い」
俺は地図上の街道を指した。
「輸送隊はここで一度停止させます」
「停止させるんですか?」
候補生が尋ねる。
「今の情報だけでは敵の正確な位置が分かりません。無理に前進させる必要はありません」
教官がこちらを見ていた。
まだ何も言わない。
演習だから当然だ。
俺たち自身で判断させるつもりなのだろう。
そのとき、遠くから伝令役の候補生が走ってきた。
「敵が動きました!」
全員の視線が集まる。
「どこへ?」
「森林から街道方向です!」
俺は地図を見る。
敵が動いた。
しかし、こちらの偵察によってその動きが把握できた。
「分隊を二つに分けます」
俺は周囲の候補生へ向き直った。
「第一分隊は街道を維持。第二分隊は丘の北側へ回ってください」
「目的は?」
分隊長役の候補生が尋ねる。
「敵を撃破することではありません。敵の進路を確認し、輸送隊が通過できる場所を確保します」
「了解!」
それぞれの分隊が動き始める。
俺はその動きを見ながら、地図を確認する。
敵は街道へ向かっている。
しかし、こちらは丘の地形を利用できる。
正面から押し返す必要はない。
敵が街道へ出てくる前に進路を限定すればいい。
「殿下」
ルリウスが戻ってきた。
「敵の一部が丘の反対側へ移動しています」
「人数は?」
「五人程度です」
「それなら、第二分隊だけで対応できます」
俺は地図を見た。
「第一分隊はそのまま。輸送隊を動かします」
「はい」
ここで一つ間違えれば、二つに分かれた敵に挟まれる。
しかし、今のところ相手はこちらの配置を知らない。
情報の差を利用できる。
輸送隊がゆっくりと街道を進み始めた。
そして――。
「敵役、前進!」
模擬敵を担当している第三学年が動いた。
森林から兵士役の候補生が姿を現す。
こちらの第一分隊が街道を塞ぐ。
第二分隊は丘の反対側へ回っている。
「接触!」
誰かが叫ぶ。
だが、教官からすぐに声が飛んだ。
「状況停止!」
模擬戦が止まった。
候補生たちが武器を下ろす。
俺は少し考えながら教官を見る。
「殿下、なぜ敵を正面から攻撃しなかった?」
教官から質問が飛んできた。
「任務が輸送隊の通過だからです」
「それだけか?」
「敵を正面から攻撃すれば、敵部隊の規模によってはこちらの損害が増えます。それなら街道を押さえたまま時間を稼ぎ、輸送隊を通す方が目的に適しています」
教官は頷いた。
「では、もし敵が予想以上に多かったら?」
「撤退します」
周囲から少し意外そうな空気が流れた。
「すぐに?」
「はい。輸送隊が通過できた時点で任務の大半は達成されています。そこで敵を追う必要はありません」
「……よし」
教官が言った。
「それが今日の小隊戦術で覚えてほしいことだ」
教官は候補生たち全員を見渡した。
「戦術とは敵を倒す技術ではない。与えられた任務を達成するために、兵力をどう使うかを考えることだ。」
俺は黙って聞いていた。
夏の遭遇戦とは違う。
あの時は突然敵が現れ、戦うしかなかった。
だが今日の演習では、最初に偵察を行い、情報を集め、その情報をもとに判断する時間があった。
同じ軍事行動でも、それだけで結果は大きく変わる。
「次は分隊指揮」
教官が言った。
「今度は諸君ら自身が、部下へ命令を出せ」
候補生たちが交代で分隊長役を務める。
俺の番が終わったあと、次にルリウスが指揮を担当した。
「第一分隊、丘の東側へ移動。敵を確認したら戦闘せず報告してください」
簡潔な命令だった。
「命令が短すぎる」
別の候補生が言う。
ルリウスは少し考えた。
「……では、敵を発見した場合はその場で停止し、敵の人数と方向を報告してください」
「よし」
教官が頷く。
「今のように、必要な情報を追加する。長すぎれば伝達に時間がかかる。短すぎれば誤解が生じる。指揮官には、その中間を判断する能力が必要だ」
俺はその様子を見ていた。
ルリウスも少しずつ指揮官としての経験を積んでいる。
普段は別クラスなのでこうした姿を見る機会は少ないが、なかなか悪くない。
最後に、再び偵察訓練が行われた。
今度は俺自身が偵察班へ入る。
森林へ入ると、さっきまでの模擬戦とは違って静かだった。
足音を抑えながら進む。
前方に敵役がいる。
俺は手を上げ、全員を止めた。
敵は八人。
位置は森林の奥。
こちらには気づいていない。
俺はその場で記録した。
「戻ります」
ルリウスが頷いた。
俺たちは来た道を戻る。
敵を発見した。
それで任務は達成だ。
わざわざ近づく必要はない。
訓練場へ戻ると、教官が記録を受け取った。
「敵兵力、八人。位置、森林中央。こちらには未接触。正確です」
教官が記録を閉じた。
「本日の三つの課程は、すべてここでつながっている」
候補生たちが聞いている。
「偵察で情報を得る。分隊がその情報をもとに動く。そして小隊指揮官が全体を見て、任務を達成する」
教官は訓練場を見渡した。
「どれか一つだけ優秀でも意味がない。偵察が間違えば指揮官は誤った判断をする。分隊が命令を理解できなければ作戦は崩れる。小隊指揮官が判断を間違えれば、正しい情報があっても失敗する」
そこで授業は終了となった。
俺は訓練場を離れながら、今日の演習を思い返した。
小隊戦術。
分隊指揮。
偵察。
どれも単独で学ぶものだと思っていたが、実際には一つの流れになっている。
夏の課外学習で経験した遭遇戦も、もし事前に十分な偵察ができていれば、結果は違っていたのかもしれない。
もちろん、今さらそれを考えても仕方がない。
ただ、今回の授業で何を学ぶべきなのかは、よく分かった。
「殿下」
訓練場を出たところでルリウスが声をかけてきた。
「何でしょう?」
「今日の授業、なかなか面白かったですね」
「そうですね」
「夏の課外学習を経験した後だからでしょうか。以前よりも分かりやすく感じました」
「私も同じです」
俺はそう答えた。
「実際に経験すると、机上で学ぶ内容の意味も変わりますから」
ルリウスは頷いた。
俺たちはそのまま校舎へ戻った。
次の授業がある。
今日はまだ一日が終わったわけではない。




