第30話 偵察開始
翌朝。
空が白み始める頃には、コンキューウン男爵家の屋敷兼砦周辺に設営されていた天幕から、次々と士官候補生たちが出てきていた。
昨夜の行軍で疲労は残っている。
それでも、誰一人として気を抜いている様子はなかった。
今日から、いよいよ本格的な課外学習が始まる。
俺は天幕の外で装備を確認した。
背嚢。
水筒。
地図。
雨具。
野営道具。
そして偵察に必要な道具。
一つずつ確認していく。
昨日まではただの行軍だった。
だが、今日は違う。
これから俺たちは、シルウァニア王国との国境へ向かう。
目的は、敵軍が建造した防御壁の偵察。
もちろん、敵陣へ突入するわけではない。
しかし、相手が本当に敵軍である以上、何が起こるかは分からない。
「殿下」
声を掛けられて振り返る。
エリシアだった。
「おはようございます」
「おはよう」
「準備はできましたか?」
「うん。エリシアは?」
「私も問題ありません」
その後ろからティアとカイもやってきた。
「おはよう、レノ」
「おはよう」
「昨日はよく眠れたか?」
カイが聞いてくる。
「それなりに」
正直、あまり眠れてはいない。
明日から偵察だと思うと、どうしても頭が冴えてしまった。
「私も少し緊張してる」
ティアが言った。
「珍しいね」
「だって、敵国の防御施設を見に行くんだよ?」
確かにその通りだ。
俺は苦笑した。
「まあ、無理はしないことだな」
「レノもね」
「私は大丈夫」
口ではそう答えながら、心の中では自分自身にも言い聞かせていた。
――無理をするな。
今回の目的は戦闘ではない。
情報を集めて帰ってくることだ。
やがて全員が集合した。
900人の士官候補生が、再び学年ごとの3部隊に整列する。
その前に教官たちが並んでいた。
「これより、本日の課外学習を開始する!」
教官の声が響く。
「本日の目的は、国境付近の地形確認および偵察訓練である!」
昨日とは違い、生徒たちの表情は硬い。
誰もが、今日から先が普通の訓練ではないことを理解している。
「まず、各部隊は国境の関所兼砦まで移動する!」
地図が掲げられた。
「そこから先は、指定された範囲内で周辺地形を確認する!」
「確認事項は、地形、道路、水場、森林、丘陵、河川その他の軍事行動に影響を与える要素だ!」
俺は地図を見る。
国境線。
街道。
森林。
小さな川。
丘陵。
そして、その先。
シルウァニア側。
「なお、敵国側への越境は禁止する!」
教官が強く言った。
「今回の目的は偵察であり、戦闘ではない!」
「敵兵を発見した場合も、独断で接近してはならない!」
「発見した場合は位置を確認し、速やかに報告すること!」
俺は頷いた。
当然の指示だ。
相手が総動員状態のシルウァニア軍なら、こちらの存在を発見した時点で何らかの対応を取ってくる可能性がある。
「そして、もう一つ」
教官が言った。
「今回の偵察では、各部隊が見たものを正確に記録すること」
「推測と事実を混同するな」
その言葉は重要だった。
防御壁を見たとしても、「兵士が1000人いた」と思っただけでは情報にならない。
実際に確認できた人数。
確認できなかった部分。
視認した場所。
距離。
地形。
すべてを分けて記録する必要がある。
「以上だ!」
「各部隊、出発準備!」
900人が一斉に動き始める。
俺も地図をしまい、隊列へ戻った。
コンキューウン男爵家の屋敷兼砦を出発する。
昨日とは違い、進む方向は国境側だ。
街道を歩きながら、俺は周囲の地形を観察した。
街道の両側には森林が広がっている。
場所によっては視界が遮られるほど木々が密集している。
少し先には緩やかな丘陵。
さらにその向こうには川がある。
地図と照らし合わせる。
「……地図とほぼ一致している」
俺が呟くと、エリシアも地図を確認した。
「確かに」
「地図判読の訓練としては分かりやすいですね」
「うん」
ただし、俺は単なる訓練としては見ていなかった。
これから向かう場所は、実際の戦場になる可能性がある。
ならば、ここで得た地形情報は来年の戦争で役立つ。
俺たちは進み続けた。
しばらくすると、前方に大きな石造りの建造物が見えてきた。
昨日聞いた、国境の関所兼砦だ。
近づくにつれて、その規模が分かってくる。
街道を完全に塞ぐような門。
その両側には高い城壁。
城壁の上には見張り台。
さらに奥には兵舎と思われる建物がある。
「……かなり厳重ですね」
ティアが呟いた。
「国境だからな」
俺も周囲を見渡した。
門の周辺には兵士が配置されている。
ここがアンティクイランド王国側の最前線。
そして、この先に国境線がある。
俺たちは関所兼砦の手前で停止した。
「全隊、停止!」
号令が響く。
900人が一斉に足を止めた。
関所の兵士たちがこちらを見ている。
しばらくして、砦から一人の騎士が出てきた。
「王立士官学校の皆様ですね」
「はい」
教官が答える。
「本日から周辺で偵察訓練を行うと聞いております」
「その通りです」
騎士は俺を見ると、少し驚いた表情をした。
「王太子殿下も参加されるとは……」
「私も士官候補生の一人ですから」
俺はそう答えた。
騎士は一礼する。
「承知しました。では、現在確認されている国境周辺の状況を簡単にお伝えします」
俺たちはその説明を聞くことになった。
国境線の位置。
関所から見える範囲。
最近のシルウァニア側の動き。
そして、数日前から確認されている不審な動き。
ただし――。
「向こう側については、こちらから確認できる範囲が限られております」
騎士が言う。
「木々や地形に遮られているため、詳しい状況は分かっておりません」
俺は頷いた。
まさに、今回の課外学習の理由そのものだ。
情報が足りない。
だから見に来た。
「では、ここから先は各部隊で指定された範囲の確認を行う」
教官が言った。
「くれぐれも独断で国境へ近づきすぎるな!」
「異常を確認した場合は、必ず報告すること!」
俺は周囲の地図を確認する。
ここから先は、ただ歩くだけではない。
地形を見る。
敵の動きを見る。
そして――。
シルウァニア側に建造されているという防御壁を探す。
俺は国境の向こう側へ視線を向けた。
まだ何も見えない。
ただ、森の向こうには確かにシルウァニアがある。
そして、そのどこかに連合軍を迎え撃つための防御壁が建造されている。
「それでは――」
教官が号令をかけた。
「偵察開始!」
3つの部隊が、それぞれ指定された区域へ向かって動き始めた。
俺も仲間たちとともに歩き出す。
ここからが、本当の課外学習の始まりだった。




