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氷の奇公子 ~変人王子の生存術~  作者: 佐藤湊
第4章 二つの生を越えて
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第19話 弓・弩訓練 後編

 翌朝。


 王立士官学校の朝は、昨日の弓・弩訓練を引きずるような空気から始まった。訓練場へ向かう学生たちの中には、腕や肩を気にしている者もいる。弓を長時間引き続けたせいで普段とは違う場所に疲労が残っているらしく、何人かは歩きながら肩を回していた。一方で、昨日の訓練で自分の適性を見つけた生徒たちは、それを誰かに話したくて仕方がないらしい。特に弩で高い成績を出した平民の男子生徒は、昨日までとは明らかに表情が違っていた。


 俺はそんな様子を横目に見ながら訓練場へ向かった。昨日の自分の射撃については、すでに頭の中で整理している。弓では風を意識しすぎた時に余計な修正が入る。弩では装填速度にまだ改善の余地がある。どちらも致命的な欠点ではない。ならば、今日はそこを直せばいい。感情的に引きずる必要はなかった。


 訓練場へ到着すると、昨日と同じ弓・弩担当の教官が待っていた。


「昨日の疲れが残っている者もいるだろう」


 教官は集まった学生たちを見渡した。


「だが、戦場では昨日の訓練で疲れたから今日は休み、などという都合のいいことは起こらない。疲労した状態でも正確に撃てるか。それも射手の能力だ」


 何人かの学生が苦笑する。


 教官もそれを気にした様子はなかった。


「今日は昨日より実戦に近い。まず、移動しながらの射撃を行う。その後、複数の標的を優先順位に従って撃ち分ける。最後に、限られた矢と弩矢をどう使うかを各自に判断させる」


 昨日より明らかに難しい。


 だが、当然だ。


 昨日が基礎なら、今日は応用。


 俺は黙って弓を受け取った。


              ◆


 最初の訓練は歩きながらの射撃だった。射手は一定の速度で移動しながら標的を狙う。立ち止まっている時より身体が揺れるため、当然ながら難易度は上がる。


「開始!」


 俺は歩きながら弓を構えた。


 左足。


 右足。


 呼吸。


 標的。


 昨日より意識することが多い。


 だが、動いていること自体は問題ではない。身体の揺れがどの程度なのかを把握し、その揺れが一定になる瞬間を見つければいい。


 弓を引く。


 一瞬だけ標的が視界の中央へ入る。


 放つ。


 矢が飛ぶ。


 命中。


「……」


 特に感情はない。


 次。


 今度は右へ移動しながら射る。


 命中。


 三本目。


 少し外れた。


 原因は明確だった。


 足を進めるタイミングと弦を放つタイミングが重なった。


 なら、次はずらす。


 四本目。


 命中。


「殿下、昨日より安定していますね」


 教官が言った。


「昨日の失敗を修正しただけです」


「それができるなら十分だ」


 教官はそれ以上褒めなかった。


 だが、そのやり取りを聞いていたエリシアは少しだけ複雑そうな顔をしていた。


 自分も昨日の失敗を修正してきた。


 それなのに、俺は昨日から今日で明らかに結果を改善している。


 負けたくない。


 そんな感情が顔に出ている。


「エリシア、次」


「はい!」


 呼ばれて前へ出る。


 彼女は深く息を吸ってから弓を構えた。


 昨日は射る直前に肩へ力が入っていた。


 今日は違う。


 一歩。


 二歩。


 三歩。


 歩きながら弓を引く。


 放つ。


 命中。


 次も命中。


 三本目も中央。


 教官が頷く。


「昨日よりいい」


「ありがとうございます」


 エリシアの顔に、明らかな喜びが浮かんだ。


 彼女は嬉しいのだろう。


 昨日の失敗を、自分自身の力で修正できた。


 その実感があるからだ。


 俺はその様子を見て、悪くないと思った。


 人間が成長する瞬間というのは、こういうものなのだろう。


              ◆


 続いて、優先目標射撃。


 射撃場には複数の標的が並べられた。単なる的ではない。それぞれに番号が振られ、一部には「指揮官」「騎兵」「弓兵」「歩兵」などの役割が設定されている。


「諸君に与えられる矢は十本」


 教官が言った。


「標的は二十。全てを撃つことはできない」


 学生たちの表情が変わる。


「なら、どうする?」


 俺は標的を見ながら考えた。


 指揮官。


 騎兵。


 弓兵。


 歩兵。


 普通に考えれば、敵の指揮能力や遠距離攻撃能力を奪う方が価値が高い。


 だが。


 敵が騎兵を使っているなら、まず騎兵を止めた方がいい場合もある。


 つまり。


 正解は状況次第。


「開始!」


 標的が動き始める。


 俺は最初に「指揮官」の標的を狙った。


 放つ。


 命中。


 次に弓兵。


 命中。


 その後、敵騎兵役の標的がこちらへ向かってくる。


 なら、次は騎兵。


 一射。


 命中。


 俺は残りの矢を見た。


 まだ七本。


 だが、無駄に使うつもりはない。


 歩兵は数が多いが、一人一人の価値は低い。


 指揮官を失えば。


 遠距離攻撃を奪えば。


 騎兵を止めれば。


 残りの歩兵は脅威が大きく下がる。


 だから、俺は歩兵の標的へは最低限しか撃たなかった。


「終了!」


 教官が結果を確認する。


 命中率は高い。


 使用した矢も少ない。


「殿下、何を基準に標的を選んだ?」


「敵の戦闘能力を短時間で大きく落とすことを優先しました」


「つまり、人数ではなく価値を見た?」


「はい」


 教官は頷いた。


「悪くない。射手に求められるのは、当てることだけではない。限られた弾薬をどこへ使うかを決める判断力も重要だ」


 その言葉を聞いていたティアが、少しだけ首を傾げていた。


「殿下って、弓を撃つ時までそんなことを考えているんですか?」


「考えない理由がないだろう」


「……やっぱり、殿下らしいですね」


 ティアは呆れたように笑った。


 だが、彼女自身も標的を撃つ時には真剣だった。


 昨日より明らかに慎重になっている。


 外したくない。


 そんな気持ちが分かりやすいほど表情に出ていた。


              ◆


 午後は弩術だった。


 今日は単なる装填速度の競争ではない。


「各自、十本の弩矢を持て」


 教官が言う。


「標的が近づいてくる。撃てる機会は限られる。何本使うか、いつ撃つかは自由だ」


 これも判断の訓練だった。


 俺は弩を構え、標的を待った。


 近づいてくる。


 まだ撃たない。


 もう少し。


 さらに近づいたところで撃つ。


 命中。


 すぐに再装填。


 次の標的。


 撃つ。


 命中。


 再装填。


 そこまでやったところで、教官が声を上げた。


「止まれ」


 俺は手を止める。


「どうして今撃った?」


「距離が最も安定していたからです」


「近づく前に撃つ方法もあっただろう」


「あります。ただ、外す可能性が上がります」


「だから確実に当てる方を選んだ?」


「はい」


 教官は頷いた。


「悪くない。弩は弓と違って、一射ごとの価値が重い。再装填に時間がかかるからな」


 その言葉の通りだった。


 弓なら連射できる。


 弩は一発撃ったら、次の一発までの準備が必要になる。


 だから。


 一発の価値が高い。


 俺はそれを理解した上で撃っていた。


 少し離れた場所では、先日の弩で高い適性を見せた平民の学生が今日も好成績を出していた。本人は明らかに嬉しそうだった。


「昨日より速い!」


 友人にそう言われて、笑っている。


「昨日、家に帰ってからずっと練習方法を考えてたんだ」


 その言葉を聞き、俺は少しだけその学生を見た。


 才能がある。


 そして、才能に気づいた後に努力している。


 それなら伸びる。


              ◆


 訓練の最後は、弓と弩を使った模擬戦形式だった。


 敵役が移動する。


 味方を示す標的も混ざる。


 弓兵は移動しながら射撃。


 弩兵は射撃位置を変えながら、どの地点で撃つか判断する。


 これはもはや単なる武器訓練ではない。


 射手としての判断力を測る試験だった。


 俺は標的を見ながら、冷静に状況を整理する。


 敵の動き。


 味方の位置。


 距離。


 風。


 残弾。


 撃つ価値。


 全てを頭の中で処理する。


「右!」


 教官の声。


 敵役が右から現れる。


 俺は即座に弓を引く。


 だが。


 一瞬だけ待つ。


 味方役が射線へ入っている。


 撃たない。


 味方が移動する。


 射線が開く。


 放つ。


 命中。


「よし!」


 教官の声。


 次の標的。


 今度は二つ。


 片方は遠い。


 片方は近い。


 近い方を先に撃つ。


 その理由は単純だった。


 遠い標的はまだ時間がある。


 近い標的は逃げる。


 そして。


 矢は一本しかない。


 命中。


 俺は次へ移る。


 反対側から、エリシアが射撃している。


 彼女も昨日とは違った。


 射る直前の迷いがなくなっている。


 昨日の失敗を修正し、今日一日で新しい感覚を掴んだのだろう。


 弩を持つ平民の生徒も、昨日以上に安定している。


 ティアは弓より弩の方が結果が良いことを少し悔しそうにしながら、それでも集中して標的を射抜いている。


 訓練が終わる。


「本日はここまで!」


 教官の声が響いた。


 学生たちが一斉に武器を下ろした。


 誰もが疲れている。


 だが。


 昨日とは少し違う顔をしている。


 昨日できなかったことが、今日はできるようになった。


 昨日外した矢が、今日は当たった。


 昨日遅かった装填が、今日は少し早くなった。


 そうした小さな変化が、それぞれの顔に表れていた。


 俺は弓を返却しながら、その様子を見ていた。


 俺自身に関して言えば。


 今日の課題は明確になった。


 移動射撃の安定性。


 弩の装填速度。


 そして、状況判断の速度。


 明日以降、そこを修正する。


 それだけだ。


 だが。


 その横では、エリシアが嬉しそうに自分の記録を確認している。


 ティアは自分の成績を見ながら、まだ納得していない顔をしている。


 弩で才能を見つけた平民の学生は、友人たちに囲まれて笑っている。


 ホリウス、ポリウス、ボリウスも、それぞれ今日の訓練について話し合っている。


 同じ訓練を受けても。


 感じるものは、人によって違う。


 それでいい。


 士官学校は。


 一つの人間を作る場所ではない。


 それぞれ違う人間を育て、その異なる能力を、いつか一つの軍へ組み込む場所なのだから。


 俺は夕暮れの射撃場を一度だけ振り返った。


 夏季休暇前の武術大会まで、あと少し。


 だが、その大会のためだけに訓練しているわけではない。


 今日の一射。


 今日の一撃。


 今日の失敗。


 その一つ一つが。


 いつか戦場で兵士たちの命を預かる時のための経験になっていく。


 そう考えながら、俺は静かに訓練場を後にした。

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