第18話 白薔薇の湯と社交界
白薔薇の香りが、浴室いっぱいに広がっていた。
「……ふぅ」
俺は湯船に浸かりながら、思わず息を吐く。
湯はほんのりと白く濁っている。
浮かんでいるのは、グラシエル教の聖花――白薔薇。
花弁が湯の表面にいくつも浮かび、温かな湯気とともに甘く淡い香りを漂わせている。
「これが……白薔薇風呂か」
「はい。王族の聖別洗礼式では、古くから行われている慣例でございます」
湯船の外で、ゼバズが答える。
「グラシエル教において白薔薇は、清浄と再生、そして慈愛の象徴とされております」
「なるほど」
俺は浮かんでいる花弁を指先でつつく。
……なんというか。
五歳児が入るには、やたらと豪華な風呂だ。
しかも今日は朝から洗礼式。
その後は親族からの祝福。
そして今度は社交界へのお披露目。
「……疲れた」
思わず本音が漏れた。
ゼバズが僅かに笑う。
「まだ一日目でございます」
「……聞きたくなかった」
「申し訳ございません」
そう言いながらも、ゼバズは楽しそうだった。
俺は湯に身体を預ける。
今日一日だけで、いったい何人の人間に会っただろう。
王族。
貴族。
神官。
大商人。
そして――。
洗礼式で現れた、あの剣。
俺は右手を見る。
当然、今は何も持っていない。
神器から生み出された剣は、儀式の終了後に神殿によって保管されることになった。
五歳の俺が持ち歩けるようなものではないらしい。
……まあ、当然か。
あれが本当に神の神器なのだとすれば、俺一人の判断で扱えるような代物ではない。
それに。
俺自身、まだ剣術をまともに習い始めたばかりだ。
神器を手にしたからといって、急に強くなるわけではない。
「……俺は、まだ何もできない」
ぽつりと呟く。
剣も。
魔法も。
政治も。
社交も。
全部これからだ。
だからこそ――。
「まずは、覚えるしかないな」
そう呟いた。
しばらくして。
身支度を終えた俺は、王宮の大広間へ向かっていた。
扉の前には、すでに父上と母上が待っている。
母上は俺を見ると、優しく微笑んだ。
「まあ。とても似合っていますよ、レノ」
「ありがとうございます、母上」
今日の俺は、普段とは違う衣装を身につけている。
白を基調とした礼装。
そこに王家を示す紋章が刺繍されている。
肩には淡い青の飾り布。
……かなり重い。
五歳児に着せる服じゃないだろ。
そう思ったが、口には出さない。
父上が俺の肩に手を置く。
「緊張しているか?」
「少しだけ」
「そうか」
父上は笑った。
「無理に話す必要はない。今日はお前を知ってもらうための日だ」
「はい」
母上も頷く。
「困ったら私のところへいらっしゃい」
「はい、母上」
その言葉に少し安心した。
扉の向こうから、音楽が聞こえてくる。
そして――。
「第一王子殿下、御入場!」
扉が開いた。
一瞬。
大広間にいた全員の視線が、こちらへ向いた。
「…………」
多い。
朝の礼拝堂よりも多く感じる。
壁際には多くの貴族。
中央には高位貴族たち。
さらにその奥には、大商人や有力者たち。
皆、着飾っている。
女性たちのドレス。
男性たちの礼服。
宝石。
家紋。
爵位を示す装飾。
……これが、この国の社交界か。
俺は父上と母上に挟まれるようにして歩く。
視線が痛い。
いや。
正確には、見られているだけだ。
だが、全員が俺のことを観察しているように感じる。
当然だ。
今日は俺のお披露目なのだから。
そして――。
「おお……」
「第一王子殿下だ」
「思っていたよりも……」
「洗礼式で神器が反応したという話は本当なのか?」
小さな声が、あちらこちらから聞こえてくる。
……聞こえてるんだけど。
俺、五歳児なんだけどな。
そんなに見られても困る。
俺はなるべく周囲を見ないようにして、前を向いた。
すると。
一人の貴族が近づいてきた。
「第一王子殿下。ご挨拶をお許しいただけますでしょうか」
父上が頷く。
「許す」
貴族は深く頭を下げた。
「お目にかかれましたこと、光栄に存じます」
「こちらこそ」
俺も頭を下げる。
すると、その貴族は少し驚いたような顔をした。
「……ご立派ですな」
「ありがとうございます」
それだけだった。
貴族は再び頭を下げ、下がっていく。
……意外と普通だ。
そう思った。
しかし。
一人が下がれば、また別の人間が近づいてくる。
「殿下、我が家は――」
「殿下、本日は――」
「第一王子殿下におかれましては――」
次々と挨拶が続いていく。
俺は父上や母上の助けを借りながら、一人ずつ応じていった。
名前。
爵位。
領地。
家柄。
何度も同じような挨拶を繰り返す。
正直――疲れる。
けれど。
その中で、俺は少しずつ理解し始めていた。
この場にいる人たちは、単純に俺を祝福するためだけに来ているわけではない。
俺が誰なのか。
どんな性格なのか。
どれほど父上や母上から信頼されているのか。
そして――。
俺が、王位継承順位第一位の王子として、どのような人間なのか。
皆が見ている。
五歳の子供を見る目ではない。
「…………」
俺は無意識に母上の姿を見る。
母上は少し離れたところで、貴族たちと話している。
いつもの優しい笑顔。
それを見て、少しだけ安心した。
俺はまだ五歳だ。
この世界のことも。
この国のことも。
まだ何も知らない。
だから。
今は、知っていけばいい。
そう思った。
そのとき――。
「殿下」
背後から声がした。
振り返る。
そこには、一人の男が立っていた。
「少々、お耳に入れておきたいことがございます」
「……あなたは?」
「しがない商人でございます。」
王宮の社交界に参加できる時点でしがない商人な訳がない。
それにそもそも商人が社交界に来ることができるのか?
男は周囲を確認する。
そして。
俺にだけ聞こえるほどの小さな声で言った。
「本日の洗礼式……随分と、大きな話題になっております」
「神器のことですか?」
「ええ」
その男は微笑んだ。
だが、その目は笑っていなかった。
「王国中が、殿下に注目することになるでしょう」
「…………」
「どうか、お気をつけください」
「何に?」
俺が尋ねる。
しかし。
男はそれ以上何も言わなかった。
「失礼いたします」
一礼して、人混みの中へ消えていく。
俺はその背中を見つめた。
……なんだったんだ?
その意味を理解するには。
俺はまだ――五歳だった。
そして。
この日の社交界で俺が交わした会話の一つ一つが、後になって重要な意味を持っていたことを。
このときの俺は、まだ知らなかった。
次回、第一章の起承転結の転に入ります!




