第16話 歩兵基礎訓練
春の基礎教育が一通り終わり、季節が夏へ移ろうとしていた。王立士官学校では、夏季休暇に入る前に恒例の武術大会が行われることになっており、一年生たちの訓練も少しずつ大会を意識したものへ変わり始めていた。ただし、教官たちは個人戦の技量だけを伸ばそうとはしなかった。士官学校は剣士や槍兵を一人ずつ強くする場所ではなく、将来部隊を率いる人間を育てる場所だからだ。そこで夏季の歩兵基礎訓練では、それまで習ってきた剣術や槍術を単独で扱うのではなく、実際の歩兵部隊を想定した集団戦闘の訓練が本格的に始まった。特に重点を置かれたのが、盾と片手剣を組み合わせた歩兵、そして投げ槍を用いる兵士の運用だった。
朝の訓練場に集められた俺たちの前で、歩兵戦術を担当する教官が木製の盾を掲げた。「今日から諸君が学ぶのは、剣の振り方ではない。盾を持った兵士が、集団の中でどう戦うのかだ」と言いながら、教官は自分の前へ盾を構え、片手剣を右手へ持った。「盾と片手剣を使う歩兵は、個人戦なら両手剣や長槍を持つ兵士より攻撃力で劣ることもある。しかし、集団になった時に初めて本当の価値が生まれる。盾で敵の攻撃を受け、隣の兵士と間隔を合わせ、互いの死角を補いながら前進する。重要なのは一人で勝つことではなく、隣の兵士と一緒に生き残ることだ」
木製の盾を受け取る。片手で持つには、それなりに重い。もう片方の手には訓練用の片手剣が渡された。教官の指示で十人ずつ横一列に並ぶ。最初はただ盾を構えるだけだったが、それだけでも難しかった。盾を下げれば首や胴が狙われる。上げすぎれば足元が空く。前へ出すぎれば隣との間隔が広がり、逆に下がれば隊列全体に穴が生まれる。教官は一人ずつ見ながら、何度も姿勢を修正させた。「盾兵は自分だけを守るのではない。自分の盾の端が、隣の兵士の生存率を上げる。逆に一歩でも位置を間違えれば、その隙間から敵が入り込み、隣の兵士まで巻き込まれる。だから盾の大きさも重要だが、それ以上に隊列が重要になる」
やがて訓練は前進へ移った。「盾を前へ!」「足並みを揃えろ!」「前進!」号令に合わせて十人が一斉に進む。だが、数歩も進まないうちに隊列が崩れた。体格の違い、歩幅の違い、経験の違いが、そのまま隊列の乱れになって表れる。「止まれ!」教官が叫ぶ。「今のままでは、正面から敵が来たら簡単に崩される。お前たちは自分の足だけで歩いている。集団歩兵は隣の兵士の足も意識しろ。一人で速く歩く必要はない。十人が同じ速度で動く方が重要だ」
何度も繰り返しているうちに、少しずつ動きが揃っていく。俺の左隣には平民出身の学生がいて、右隣には騎士家の令息がいる。身分は全く違う。それでも今は、盾の端を合わせ、互いの歩幅を確認しながら歩いている。王立士官学校が身分を越えてクラスや班を組ませる理由が、ここではっきりと分かった。戦場では、隣にいる人間を選べない。だからこそ、普段から身分の違う者同士で動く訓練をしておかなければならない。
次に行われたのは、片手剣による攻撃だった。ただ前列が盾を構えているだけでは敵は倒せない。だからこそ、盾兵には「盾で受ける者」と「その盾の陰から攻撃する者」という役割が生まれる。教官は俺たちへ木剣を構えさせると、模擬敵の隊列へ向かって前進させた。「盾を捨てるな! 剣を振るために身体を開きすぎるな!」と声が飛ぶ。片手で剣を使う分、両手剣ほどの威力はない。しかし盾を構えたまま相手へ接近し、盾で敵の攻撃を受け、その隙に片手剣を差し込むという戦い方なら、集団の中で安定した戦闘ができる。
教官はさらに難しい訓練を用意していた。敵役の学生が正面から木剣を振り下ろす。前列の盾兵が盾で受ける。その瞬間、隣の兵士が半歩前へ出て片手剣を振る。だが、最初はほとんど全員が失敗した。自分が攻撃しようとすると、どうしても隊列が乱れる。自分で敵を倒したいという気持ちが先に出てしまうからだ。「違う!」と教官が叫ぶ。「今のは一人の勝負だ。戦場では、お前が敵を倒すことより、隣の兵士が攻撃できる状態を作ることが重要な場合がある。盾で敵を止め、隙を作り、その隙を別の兵士が使う。そうやって一人ではなく十人で一人の敵を倒すのが歩兵戦闘だ」
俺はその言葉を聞きながら、前世で読んだ戦史を思い出していた。個々の兵士の剣技だけで勝負が決まるわけではない。むしろ、集団で盾を並べ、敵の攻撃を受け止め、その後ろから片手剣や槍で攻撃する歩兵は、装備そのものよりも隊列と規律によって強さを得る。だから軍隊には規律が必要なのだ。強い兵士十人を集めても、好き勝手に動けばただの十人だ。しかし、十人が一つの意思で動けば、一つの武器になる。
◆
昼前になると、訓練の内容は投げ槍へ変わった。教官が長さの異なる訓練用投げ槍を並べると、生徒たちはそれぞれ一本ずつ受け取った。
「投げ槍は、剣や槍と違って接近する前に敵へ攻撃を加えるための武器だ。だが、ここでも個人の投擲技術だけを見てはいけない。投げ槍を使う歩兵は、敵へ接近しすぎる前に攻撃し、敵の隊列を乱し、それから盾兵や槍兵の後ろへ戻る。つまり、投げることより『いつ投げるか』の方が重要だ」
教官は標的を前方へ設置した。だが、単純な的当てではなかった。距離の異なる複数の標的があり、それぞれに「敵歩兵」「敵指揮官」「敵騎兵」と役割が設定されている。
「全員、勝手に投げるな。号令に従え」
隊列を作る。前列には盾と片手剣を持った歩兵、その後ろに投げ槍を持った兵士が並ぶ。
「敵歩兵接近!」
投げ槍を構える。
「まだだ」
敵役が近づいてくる。
「まだ!」
さらに近づく。
「投げろ!」
一斉に投げ槍が飛んだ。
何本もの槍が空を切って前方へ突き刺さる。敵役の隊列が一瞬崩れる。
「今!」
教官の号令。
盾兵が前進する。
これが投げ槍歩兵の役割なのだと、実際に動いてみて初めて理解できた。投げ槍で敵を一人ずつ倒すことが目的ではない。敵の隊列を乱し、勢いを削ぎ、その間に盾兵を前へ出す。場合によっては敵の騎兵へ投げて進路を変えさせたり、敵の指揮官を狙って指揮系統へ混乱を与えたりする。つまり、投げ槍は「遠くから敵を倒すためだけの武器」ではなく、歩兵戦闘へ入る前に敵の形を崩すための武器なのだ。
教官はさらに、投げ終えた兵士がどうするのかを確認した。「投げた後に突っ立っているな! 武器を失ったなら、すぐに後退して盾兵の後ろへ戻れ!」と怒鳴る。確かに、投げ槍を使った後は両手が空くわけではない。投げた後の兵士は一時的に戦闘能力が低下する。だからこそ、盾兵が前へ出て安全な場所を作り、その後ろへ戻る必要がある。
俺たちは何度も繰り返した。敵が近づく。投げ槍を投げる。敵の隊列が乱れる。盾兵が前へ出る。投げ槍を持っていた兵士は後退する。盾兵が敵の攻撃を受け、片手剣を持った兵士が反撃する。その一連の動作が途切れなく繋がった時、初めて一つの歩兵部隊として機能する。
◆
午後になると、今度は盾兵と投げ槍兵を組み合わせた模擬集団戦が行われた。訓練場の両側に二つの班が並び、片方が攻撃側、もう片方が防御側になる。どちらも同じような人数で、前列には盾と片手剣を持つ歩兵、その後ろには投げ槍を持つ兵士が配置された。
「この訓練では、敵を全滅させることが目的ではない。敵の隊列を崩し、自分たちの隊列を維持し、与えられた地点を確保すること。それが任務だ」
教官の説明が終わる。
開始の合図。
両隊がゆっくり近づいていく。
「まだだ」
ホリウスが班長として声を掛ける。俺たちの班では彼が指揮を任されていた。俺の方を一度見るが、俺は何も言わずに任せる。彼は三百人規模のリウス傭兵団の中で育っただけあり、集団の距離感や速度を意識するのが上手かった。
「敵が近づいたら、まず投げ槍。盾兵はその後」
「了解!」
敵との距離が縮まる。
「……まだ」
ホリウスが待つ。
さらに近づく。
「投げろ!」
投げ槍が一斉に飛ぶ。
敵の隊列が乱れる。
「前へ!」
盾兵が一斉に進み、俺もその列へ入った。盾を構えたまま進み、敵の木剣が盾へぶつかる。衝撃が腕へ伝わった瞬間、隣の学生が片手剣を振る。俺もその隙へ木剣を入れる。
敵は一歩下がる。
さらに押す。
しかし、相手もすぐに隊列を立て直す。
「止まるな!」
ホリウスの声。
「左、少し開いてる!」
俺が左へ半歩詰める。
盾が並ぶ。
隊列が再び一つになる。
ほんの数秒のことだった。
だが、その数秒の間に、俺たちの班は「個人の集まり」から「一つの部隊」へ変わっていた。
訓練終了の笛が鳴った。
双方が武器を下ろす。
教官が近づいてくる。
「悪くない」
珍しく褒める声だった。
「特に、投げ槍から盾兵への移行は良かった。誰か一人が先走らず、隊列を維持したまま接近できている」
ホリウスが一礼する。
「ありがとうございます」
「ただし、まだ弱点もある。お前たちは敵の正面だけを見ている。戦場では側面を取られれば、盾の隊列は簡単に崩れる。次は側面攻撃を想定した訓練を行う」
そう言って教官は次の準備へ向かった。
俺は盾を見下ろした。
重い。
片手剣も決して軽くない。
投げ槍も一本持つだけなら問題ないが、複数持って行軍するとなれば負担になる。
それでも。
こうした武器が組み合わさることで、一つの歩兵部隊が生まれる。
剣術の強い兵士。
盾を上手く扱える兵士。
投げ槍を正確に投げられる兵士。
そして。
それぞれが自分の役割を理解し、勝手に動かず、隣の兵士を信頼して戦う。
それが歩兵戦闘なのだ。
◆
夏季休暇が近づくにつれ、武術大会への準備も少しずつ本格化していった。大会では個人武術の成績も評価されるが、士官学校の教育として重視されているのは、個人の強さだけではない。そのため一年生の訓練では、個人戦の稽古と並行して、今日のような集団戦闘の訓練が何度も行われることになった。
ある日の訓練終了後、俺は訓練場の端から班員たちを眺めていた。王立貴族学院を卒業した者、騎士家の子女、裕福な商家の子女、平民。士官学校の中では、確かに身分による上下関係が存在する。それでも、盾を並べる時には爵位など関係ない。自分が遅れれば隣の兵士が危険になる。自分が勝手に前へ出れば隊列に穴ができる。誰かが敵を受け止めてくれなければ、自分が攻撃できない。
軍事教育を受ければ、身分より実力が重要になる。
その意味が。
俺は少しずつ分かってきた気がした。
そして、夏季休暇前の武術大会へ向けた訓練は、まだ始まったばかりだった。




