第9話 地理・歴史
入校査閲を終えてからしばらくすると、王立士官学校での本格的な授業が始まった。これから三年間、俺たちは軍事だけを学ぶわけではない。戦争を指揮するためには、自国の歴史を知らなければならず、世界の地理を知らなければならず、そして実際に兵士たちを動かす戦場の地形を理解しなければならない。そのため第一学年の最初には、軍事学の基礎として「王国史・軍事史」「地理学」「地形学」が組まれていた。
最初の授業の日、教室へ入ると、黒板には大きく「王国史・軍事史」と書かれていた。教壇に立っているのは、王国軍の軍事史を専門とする教官だった。年齢は五十代ほど。いかにも軍人らしい厳格な顔つきをしているが、声は落ち着いていて聞き取りやすい。
「諸君。軍人になる者が歴史を知らなくてどうする」
開口一番、そんな言葉から授業が始まった。
「戦争は突然始まるものではない。国家が存在し、民族が存在し、宗教が存在し、そして過去の戦争や外交の積み重ねがあって、ようやく一つの戦争が起こる。我々が今から学ぶのは、単なる昔話ではない。現在の王国がなぜ存在し、なぜ今の国境を持ち、なぜ周辺諸国とこのような関係にあるのか、その理由を学ぶのだ」
教官は黒板の一番上へ、最初の年号を書いた。
アエテリア歴0年。
「全ての始まりは、ここからだ」
教室の空気が静かになる。
「アエテリア大陸に氷雪の女神グラシエルが降臨し、人々を生み出したとされている。これが現在のアエテリア諸民族における最古の神話であり、多くの歴史書において、ここをアエテリア歴の起点としている」
俺は黒板を見ながら頷いた。
氷雪の女神グラシエル。
アイティクイ人が信仰している神でもある。
そして、その信仰は現在の氷属性にも繋がっている。
「だが、我々がここで学ぶのは神話だけではない。アエテリア歴700年、大陸東部から謎の遊牧民族が進出を開始した」
教官が新しい年号を書く。
アエテリア歴700年。
「彼らは当時のアエテリア人の諸国家を次々に攻撃し、勢力を拡大した。そしてアエテリア歴750年には、その勢力は大陸西海岸へ到達する。既存のアエテリア諸国は次々に滅亡し、最終的に遊牧民族によって巨大国家が成立した」
黒板には、続いて大きく書かれる。
アエテリア帝国。
「現在、世界最大の超大国として知られるアエテリア帝国の成立である」
その言葉を聞きながら、俺は少し考えた。
帝国は最初から帝国だったわけではない。
異民族による大規模な征服と統合によって成立した国家。
「この時代、旧来のアエテリア人たちは激しい迫害を受けた。宗教も文化も、かつての国家も失われ、多くの人々が帝国の支配下へ組み込まれていった」
教官はさらに年表を進める。
「アエテリア歴950年。旧アエテリア人の武装勢力が大陸南西部の一部地域、レクィエリアを占領した」
俺はその名前に少し反応する。
レクィエリア。
今の王都と同じ名前だ。
「彼らはアエテリア帝国との交渉の末、帝国側から『アンティクイ』と呼ばれる古き神の民を名乗ることを約束させられた。そして、帝国の属国としてアンティクイ公国を建国した。公都はレクィエリア」
俺は黒板の文字を見つめる。
俺たちの国の起源だ。
帝国に支配された古代アエテリア人。
その末裔がアンティクイ人と呼ばれ、レクィエリアを中心とするアンティクイ公国を築いた。
だが。
「そして、アエテリア歴1270年」
教官が大きく数字を書く。
「ここが現在のアンティクイランド王国にとって最も重要な年だ」
教室中の視線が黒板へ集まった。
「アエテリア帝国が、諸国連合との大戦。ルイーナエ大戦に敗北した。この混乱に乗じて、アンティクイ公国は帝国から独立を宣言する。」
教官はゆっくりと言った。
「こうして成立した国家こそ、アンティクイランド王国である」
「そして独立を宣言した方こそアンティクイランド王国初代国王マグヌス・ゲンス・デイ・アンティクイランド陛下だ。レノウィウス王太子殿下の祖父に当たる。建国の父だ。学力考査に出るぞ。覚えておけ。」
俺はその言葉を聞きながら、なんとも不思議な感覚になった。
今、自分が王太子として存在している国は。
帝国から逃れた人々が築いた国だ。
そして、その帝国と今も国境を接している。
「諸君」
教官がこちらを見る。
「国家の歴史を覚える時、年号だけを暗記するな。なぜその国家が成立したのかを理解しろ」
「アンティクイランド王国はなぜ存在するのか。なぜ帝国を警戒し、外交に多額の費用を使うのか。なぜエクィトゥム王国との関係が重要なのか」
その一つ一つが、歴史の結果なのだ。
「そして現在」
教官は最後に黒板へ書いた。
アエテリア歴13015年。
「我々はこの時代を生きている」
教室が静まる。
「つまり、諸君がこれから学ぶ歴史の最後には、今、この瞬間がある。そして明日からの出来事は、まだ歴史書には書かれていない」
教官が俺たちを見渡す。
「それを作るのは、諸君自身だ」
その言葉が妙に胸へ残った。
俺たちは歴史を学んでいる。
だが。
ここにいる俺たちは。
これから歴史を作る側でもあるのだ。
◆
歴史の授業の次に行われたのが、軍事史だった。
「では、歴史を学んだところで、今度は戦争の歴史を学ぶ」
軍事史の教官は、黒板へ大きな地図を描いた。
「国家の歴史を理解するだけでは、戦争の本質は見えてこない。戦争が起きた理由、戦争がどのように進み、なぜ勝者と敗者が分かれたのかを研究する必要がある」
ルイーナエ大戦。
帝国と諸国連合。
アンティクイ公国の独立。
その後の周辺諸国との戦争。
教官は一つ一つを取り上げていく。
「重要なのは、兵士の数だけではない」
また、その言葉だ。
「戦争には、兵力、補給、地形、外交、経済、情報、士気、政治が関わる。例えば、兵力が多くても補給が途絶えれば敗れる。強固な要塞を持っていても、周囲の土地を失えば孤立する。勝利したとしても、戦費によって国家財政が崩壊すれば、それは本当の意味での勝利とは言えない」
俺は先日の御前会議を思い出した。
国家貯蓄。
戦費。
兵力。
継戦能力。
あれは、軍事史で学ぶことを今の国家運営として実際にやっている。
「これが軍事史を学ぶ意味だ。過去の戦争を覚えれば、未来の戦争で同じ失敗を繰り返さずに済む」
俺は筆記用具を動かしながら、静かに頷いた。
前世で歴史を読んでいた頃とは違う。
今は歴史の知識が、そのまま自分の判断材料になる。
◆
数日後。
今度の黒板には、別の文字が書かれていた。
地理学。
「軍事において、国境線を知ることは非常に重要だ」
教官が地図を広げる。
巨大なアエテリア大陸の地図だった。
「まず、アンティクイランド王国の位置を覚えろ」
指が南西部へ移動する。
「アンティクイランド王国は、アエテリア大陸南西部に位置する」
その西側。
「西には、アエテリア帝国に次ぐ大国、エクィトゥム王国」
東側。
「セパラーティオ川を挟んで、世界最大の超大国アエテリア帝国」
北側。
「山岳民族の小国、シルウァニア王国」
そして南側。
「海峡を挟んで、砂漠地帯を基盤とし交易によって富を得ているカヴィーレスターン・スルタン国」
俺は地図を見つめた。
なるほど。
改めて見ると。
アンティクイランド王国は、本当に厄介な場所にある。
西には大国。
東には超大国。
北には軍事国家。
南には交易国家。
逃げ場がない。
「大陸全体を見れば、東部から中東部にかけてアエテリア帝国が広がり、大陸西部にはエクィトゥム王国、大陸北中西部にはシルウァニア王国、大陸南中西部にはアンティクイランド王国、北部にはセプテントリア連合公国が存在する」
教官はさらに南へ指を動かした。
「海を挟んだ大陸南部にはカヴィーレスターン・スルタン国がある。ただし、カヴィーレスターンの北東部は帝国領と陸続きだ」
つまり。
カヴィーレスターンは完全に孤立した国ではない。
帝国とも接している。
アンティクイランドとも海峡を挟んで接している。
それだけに外交関係も複雑になる。
「そして、エクィトゥム王国とシルウァニア王国の間にはジェヲラ山脈が存在する」
地図上で大きな山脈が描かれる。
「この山脈は、エクィトゥム王国とシルウァニア王国の間を隔てている。エクィトゥム王国側には大規模な平地が広がっているが、シルウァニア側には広大な森林地帯、シルウァニア大森林が存在する」
「国境を越える大軍の移動が難しい理由の一つだ」
俺はその山脈を見つめた。
シルウァニア王国が山岳民族の軍事国家になった理由が、地図を見れば分かる。
山がある。
森林がある。
大軍を動かしにくい。
逆に言えば。
守る側にとっては、それほど有利な土地なのだ。
「次に、アンティクイランド王国内部を見ろ」
教官が地図を拡大する。
「王国は大きく四つの地域に分けて考えることができる」
北部。
「北部は馬の生産が盛んだ。特に荷役馬の生産は王国経済にとって重要であり、王家独自の運輸業にも利用されている」
中部。
「中部ではワインとオリーブの生産が盛んだ」
南西部。
「南西部にはフレトゥム海峡と船舶の補給港が存在する。海上交易における重要拠点だ」
南東部。
「南東部には王都レクィエリアがあり、世界最大級の湾岸交易都市として発展している」
王都。
そう聞いた瞬間。
俺の頭に一つの数字が浮かんだ。
人口十五万人。
「王国全体の人口は約百二十万人」
教官が続ける。
「そのうち王都レクィエリアには約十五万人が集中している」
十五万人。
王国人口の八分の一近くが王都にいる。
「これは近年、大きな問題になっている」
教官は南東部へ指を置いた。
「王都人口を支えるためには大量の食料が必要になる。しかし、王都周辺の南東部は世界最大級の湾岸交易都市として発展した都市圏であり、食料生産に適した農地が十分ではない。さらに南西部の補給港周辺でも、港湾と交易関連産業が発展する一方、食料生産は限定的だ」
つまり。
王都と港湾都市には、人がいる。
だが。
食料を作っているわけではない。
「そのため王国は、地方から食料を移送するだけでは足りず、交易による輸入に大きく依存している」
俺は眉をひそめた。
以前から知っていたことだ。
だが、地図として見ると。
危険性がはっきり分かる。
「王都レクィエリアを中心とした王領南東部や主要街道では、北部で生産された荷役馬を利用した王家独自の運輸業などによって交通網が整備され、レクィエリア経済地域が形成されている」
教官が街道を線でなぞる。
「これは経済上は非常に効率がいい。だが、戦時には弱点になる」
「海峡が封鎖されれば?」
俺が尋ねると、教官が頷いた。
「その通りだ、レノウィウス殿下」
教室の視線が少し集まる。
「海上交易が止まれば、王都と補給港周辺は深刻な食料不足に陥る可能性がある。さらに王都への食料供給を支える交通網が破壊されれば、王国経済そのものが大きく揺らぐ」
だからこそ。
海峡は守らなければならない。
港湾も。
街道も。
王都も。
そして、北部の農業地帯も。
地理は。
単なる地図の暗記ではなかった。
国家の弱点そのものだった。
◆
そして、その数日後。
最後の授業。
地形学。
教官は教室へ入るなり、一枚の地図を黒板へ貼り付けた。
「地理学と地形学は似ているが、別物だ」
最初の言葉から、そう言った。
「地理学では、どこに何があるのかを学ぶ。地形学では、その土地が軍事行動にどのような影響を与えるのかを学ぶ」
なるほど。
「例えば、同じ平地でも、乾燥した土地と湿地では軍隊の移動速度が全く違う。山岳地帯では街道一本の価値が跳ね上がる。河川があれば渡河能力が問題となり、森林があれば偵察と補給が難しくなる」
教官は黒板へ図を描く。
「まず覚えろ。地形が軍隊の行動を決める」
山。
川。
森。
谷。
平野。
街道。
港。
要塞。
それぞれが軍隊の移動速度、陣形、補給、視界、射程、撤退経路へ影響する。
「アンティクイランド王国北部を考えてみろ」
教官が地図を示す。
「馬の生産には適した地域でも、山岳部が増えれば大規模な騎兵運用は難しくなる。一方で平地なら騎兵は有効だ」
「中部の農業地域では、街道や河川が補給路として重要になる。特にセパラーティオ川は中部の生産物を運ぶだけでなく、帝国との国境を形成する」
「つまり、この河川は経済上重要であると同時に、軍事上の危険地域でもある」
俺は頷いた。
地理学で学んだことを、軍事的な意味へ変換していく。
「では、フレトゥム海峡を考えてみろ」
教官が南へ指を向けた。
「ここは交易路であり、食料輸入路であり、海軍基地でもある。では、敵がここを封鎖した場合、アンティクイランド王国はどうなる?」
誰かが答えた。
「交易が止まります」
「それだけではない」
教官は続ける。
「食料輸入が止まる。港湾都市の経済活動が止まる。商船が入れない。運輸業も打撃を受ける。王都への物資輸送が滞る。そして王都の人口を支えられなくなる」
つまり。
戦争において海峡を守れなければ。
戦場で一度も敗北していないのに。
国家そのものが崩れる可能性がある。
「これが地形学だ」
教官は言った。
「敵軍を倒すだけが戦場ではない。敵がどこへ来なければならないのか。どこを守らなければ国家が維持できないのか。どこを失えば補給線が切れるのか。その全てを土地から読み取る」
俺は地図を見つめた。
今まで。
地図はただの国境と街道の図だと思っていた。
だが。
違う。
地図の中には。
国家の生存条件が書かれている。
王都。
港。
海峡。
河川。
農地。
街道。
山脈。
森林。
全てに意味がある。
「最後に、一つだけ覚えておけ」
教官が地図を指した。
「優れた指揮官は、地図を見て軍隊を想像する」
「さらに優れた指揮官は、地図を見て敵がどう動くかを想像する」
教官はそこで少し間を置いた。
「そして最も優れた指揮官は、地図を見て、その戦争によって国家そのものがどうなるかまで考える」
俺は、その言葉を聞いて黙り込んだ。
それは。
先日の御前会議で自分が考えていたことと同じだった。
戦争へ一万七千百人を出せる。
大金貨一万枚を使える。
継戦能力は約一年。
だが。
国内防衛を五千人残す必要がある。
食料輸入を止めるわけにはいかない。
戦争だけを考えて、国内を空にすることはできない。
軍事と国家は分けて考えてはいけない。それが今回の授業の結論だった。




