第6話 第315回御前会議
中央宮殿の最奥にある謁見の間
そこは普段の謁見の間とは違い、王国の中枢を担う者だけが入ることを許された、重厚で静かな部屋だった。長大な会議机の上には、昨年度の国家財政をまとめた資料、王国軍の最新編制表、そしてシルウァニア王国周辺の地図が並べられている。
上座には父上――国王アウレリウス。
その隣には第三王妃セレネ。
そして、王太子となった俺――レノウィウス。
少しして。
重い扉が開いた。
最初に入ってきたのは、軍務卿アトラシート伯爵だった。その後ろには財務卿ペクーニア伯爵が続き、さらに外務卿、内務卿、法務卿、教務卿兼宮内卿マスドリート子爵が続いていく。
その後から、軍務を担う子爵たちが入室した。
第二軍団軍団長。
第三軍団軍団長。
第四軍団軍団長フェルディナン子爵。
第五軍団軍団長カシウス子爵。
最後に、法衣男爵位を持つ王立士官学校校長が入室する。
これで法衣貴族は全員揃った。
続いて領地貴族が入ってくる。
エクウス伯爵。
プラエシディウム伯爵。
ウィーヌム子爵。
彼らがそれぞれ所定の席へ着くと、最後に扉が閉じられた。
室内から私的な会話が消える。
ここにいるのは、王国の政治、財政、外交、軍事、司法、教育を担う者たちだ。
そして今から。
その全員で、一つの問題について判断する。
シルウァニア王国との戦争。
父上がゆっくりと顔を上げた。
「これより、第315回御前会議を開催する」
静かな声だった。
だが、その声が響いた瞬間、室内の空気が変わった。
「まず最初に、財務卿から昨年度の国家財政について報告を受ける」
「はっ」
ペクーニア伯爵が立ち上がった。
手元の資料を開く。
「では、昨年度の国家収支について報告させていただきます」
その声に合わせて、俺も資料へ目を落とした。
「昨年度の国家収入総額は、大金貨一万五百二十三枚と金貨四千枚となりました」
以前より明らかに増えている。
その理由は。
昨年まで存在していたガルディシア伯爵家が、もう存在しないからだ。
「まず、通常の市場税、人頭税などを合わせた税収が、大金貨四千二百枚です」
これは昨年と同額。
王国民から徴収する通常税収は、大きく変化していない。
「次に、フレトゥム海峡関税です。昨年度の総関税収入は大金貨七千四百八十枚でした」
ここまでは以前と同じ。
「しかし、ガルディシア伯爵家が断絶し、その領地が王領へ編入されたことにより、これまで同家へ分配されていた王国側の収益を国庫へ計上することが可能となりました」
ペクーニア伯爵が数字を指す。
「カヴィーレスターン・スルタン国との協定により、総額の半分である大金貨三千七百四十枚がアンティクイランド王国側の収入となります。そして従来、この金額は王家とガルディシア伯爵家で折半しておりました」
「つまり」
俺が口を挟む。
「昨年まで王国側に計上されていたのは大金貨千八百七十枚」
「はい」
「そして今年からは三千七百四十枚が、そのまま王国の収入になる」
「その通りです」
海峡を握っていたガルディシア伯爵家の力が強かった理由が、改めて数字として見えてくる。
「次に、王家事業による収入が大金貨千七百五十枚」
「闘技場、賭博事業、運輸業の三部門からの収益です」
「上納および納付金が大金貨七百九十五枚」
「そして国庫に蓄積された資金から発生する利息収入が、大金貨三十八枚と金貨四千枚です」
ペクーニア伯爵は資料を閉じた。
「以上を合計し、昨年度の歳入は旧ガルディシア伯爵家の関税収入を王家が最終的に受け取ったため大金貨一万五百二十三枚と金貨四千枚となります」
会議室にわずかなざわめきが起こった。
俺も数字を見ながら考える。
昨年度より。
海峡関税の王国取り分が大金貨千八百七十枚増えた。
ガルディシア伯爵家を潰したことによって、国家財政そのものが大きく変わったのだ。
「続いて、歳出について報告します」
ペクーニア伯爵が次の資料を開く。
「昨年度の通常支出総額は、大金貨七千七百四十二枚です」
「最も高額なのが法衣貴族への俸禄。大金貨二千百枚」
「外交費、大金貨千八百七十枚」
「インフラ維持・整備費、大金貨千五百枚」
「軍事費、大金貨千二百枚」
「治安維持費、大金貨五百枚」
「宮廷費、大金貨二百九十七枚」
「教育費、大金貨二百五十枚」
「民生費、大金貨二十五枚」
ここまでで、通常支出の全てだった。
「なお、昨年度は帝国との緊張による臨時軍事費は計上しておりません」
以前とは違う。
帝国はアイティクイランド王国への直接的な軍事行動を選ばなかった。
だから。
昨年度の支出は通常支出だけで済んでいる。
「結果、昨年度の財政黒字は大金貨二千七百八十一枚と金貨四千枚となります」
ペクーニア伯爵は一度資料を閉じた。
「そして、現在の国庫貯蓄は大金貨二万三千八百六十七枚と金貨四千枚です」
会議室に静かなざわめきが起きる。
ペクーニア伯爵は続けた。
「これに昨年度の歳入、大金貨一万五百二十三枚と金貨四千枚を加えることで、現在利用可能な国家貯蓄は、大金貨三万四百六十一枚と金貨八千枚となります」
俺は数字を見つめる。
かなりの金額だ。
だが。
「ここで、財務卿として一つ上奏があります」
ペクーニア伯爵の声が変わった。
「申してみよ」
父上が答える。
「現状の国家財政であれば、対シルウァニア王国戦において、大金貨一万枚を追加の戦費として使用することが可能です。総力戦でエクイトゥム王国が戦うのですから我々も相応の損害を覚悟せねばなりません。」
空気が変わった。
「一万枚?」
アトラシート伯爵が確認する。
「はい」
ペクーニア伯爵は頷いた。
「大金貨一万枚を軍事費へ投入したとしても、なお大金貨二万四百六十一枚と金貨八千枚の国家貯蓄が残ります」
さらに続ける。
「通常支出を維持するための財政余力も失われません。王国の税収、王家事業、海峡関税による収入も今後継続して見込めます」
「つまり」
俺が言う。
「戦争に一万枚を使っても、国家そのものが財政的に危機へ陥る可能性は低い」
「はい。少なくとも、現時点の財政状況であれば」
ペクーニア伯爵ははっきり答えた。
「財務卿として、大金貨一万枚までの追加戦費支出を承認して問題ないと判断しております」
父上が頷いた。
「軍務卿」
「はっ」
今度はアトラシート伯爵が立ち上がった。
「財務卿の報告を踏まえ、王国軍の実際の遠征能力について再計算いたしました」
資料が配られる。
「現在、アンティクイランド王国が戦時に動員できる公的兵力は、諸侯軍一万五百人、中央軍六千六百人。合計一万七千百人です」
俺は数字を確認する。
これは以前から決めていた戦時兵力だ。
「さらに、正式な王国軍以外に、信用性を確保できる組織的な傭兵団を複数雇用することが可能です」
「総数は?」
「五千人」
つまり。
「一万七千百人に五千人を加えれば、総戦時兵力は二万二千百人」
「はい」
アトラシート伯爵が答える。
「これが、今回の戦争において王国が確保できる最大の戦時兵力となります」
俺は資料をめくった。
「ただし、その二万二千百人全てをエクィトゥム王国へ送るわけではない」
「その通りです」
アトラシート伯爵は地図へ視線を移した。
「王国には周辺国との国境、王都、主要港湾、交通拠点があります。これらを完全に無防備にすることはできません」
「そのため、遠征に参加させず国内に残す防衛兵力を五千人とします」
これで。
「遠征軍は」
「一万七千百人」
公式軍一万七千百人をそのまま遠征軍として運用し、傭兵五千人のうちではなく、総兵力二万二千百人から五千人を国内防衛へ残す。
俺はその数字を確認する。
「つまり、戦争に参加できる最大の遠征兵力は一万七千百人」
「はい」
「そして国内防衛軍として五千人を残す」
「その通りです」
父上が頷いた。
「では、その一万七千百人をどれだけ長く維持できる?」
アトラシート伯爵は一瞬資料へ目を落とした。
「そこが今回、最も重要な点です」
軍務卿は地図を広げた。
「シルウァニア王国は山岳国家です。エクィトゥム王国と異なり、我が国から直接大規模な補給を行うのは難しい。さらに、遠征先が山岳地帯となるため、輸送効率も平地戦より大幅に低下します」
「つまり、戦費一万枚を全て兵士の給与に使えるわけではない」
「はい。食料、武器、矢、弩、馬、輸送用の家畜、衣服、天幕、医薬品、工兵資材など、必要な物資は非常に多い」
アトラシート伯爵が別の資料を示す。
「そこで、三つの段階に分けて計算しました」
「第一段階。出征準備と集結」
「第二段階。シルウァニア王国内での継続的な戦闘」
「第三段階。負傷者の後送や交代兵力を含めた長期戦への移行」
俺は黙って聞く。
「一万七千百人の遠征軍を、出征直後から最大戦闘状態で維持した場合、第一段階を含めて約一年」
「……一年」
「はい」
アトラシート伯爵は頷いた。
「ただし、これは『一万七千百人全員が継続的に前線へ展開し続ける』ことを前提とした厳しい試算です」
「戦闘を行っていない後方部隊を含めれば?」
「戦闘強度によります。攻勢を抑え、占領地の警備や兵站維持を中心とする場合、約一年半まで延ばすことが可能です。当初の計画の三~四ヶ月から大幅に増加しました。」
俺は地図を見る。
「では、実際にシルウァニア王国で本格的な戦闘を継続できる期間は?」
アトラシート伯爵は、はっきり答えた。
「約一年です」
会議室が静まり返る。
「一年を超えれば戦争を続けられないという意味ではありません。ただし、その場合は大規模な補充、追加徴募、あるいは追加戦費が必要になります」
「つまり」
俺は言った。
「今回の大金貨一万枚を上限とするなら、我々が現実的に想定できる本格的な遠征戦は一年程度」
「その通りです」
アトラシート伯爵は頷いた。
「なお、エクィトゥム王国の主力軍やカヴィーレスターン軍と共同して戦うことを前提にすれば、我が軍だけでシルウァニア王国全土を占領し続ける必要はありません。重要なのは、遠征軍一万七千百人が一年間、戦線へ参加し続けられるだけの能力を維持することです」
俺はゆっくり頷いた。
これは。
かなり重要な数字だ。
エクィトゥム王国の作戦そのものは、シルウァニア王国側から見て南部と南西部で敵主力を誘導して分散させ、北西部から主力を投入するという大規模なものだ。
その中でアンティクイランド王国が一万七千百人を投入する。
そして。
一年間の継戦能力を確保する。
それなら。
十分に意味がある。
「傭兵五千人について、確認したい」
俺が尋ねる。
「傭兵団のみを雇用するという理解でよいな?」
「はい。個人傭兵は信用性に問題があるため、今回の動員対象から除外します。長期的な契約と組織的な指揮系統を持つ傭兵団のみを採用します」
「その五千人も遠征軍に加えるのか?」
「はい」
俺は頷いた。
「ならば」
資料を見る。
「一万七千百人の王国軍に、傭兵五千人を加えて二万二千百人の戦時総兵力」
「そして、そのうち五千人は国内防衛として残す」
「最終的な遠征兵力は一万七千百人」
「はい」
軍務卿が答える。
つまり。
今回の王国の戦時体制はこうなる。
戦時総兵力二万二千百人。
そのうち。
国内防衛軍五千人。
そして。
シルウァニア王国への遠征軍一万七千百人。
それが。
アンティクイランド王国が現実的に出せる限界だ。
◆
俺は会議室にいる全員を見渡した。
王国には金がある。
大金貨一万枚を追加戦費として支出できる。
軍事力も。
王国軍一万七千百人。
傭兵団五千人。
合計二万二千百人。
そのうち国内に五千人を残し、一万七千百人を外へ出す。
そして。
大規模な遠征戦を約一年。
それが今のアンティクイランド王国の現実的な限界。
父上が口を開いた。
「他に意見はあるか?」
誰もすぐには答えなかった。
やがて。
「一点、申し上げます」
外務卿が立ち上がった。
「今回の戦争は、エクィトゥム王国が主導する戦争です。したがって、我が国の遠征軍だけで勝敗を決める必要はありません。重要なのは、一万七千百人を戦場へ投入し、エクィトゥム王国軍と連携して戦果を挙げることです」
「その通りです」
俺は頷いた。
「そして、カヴィーレスターンからも三万三千の兵が加わる予定です」
会議室の者たちが頷く。
エクィトゥム。
アンティクイランド。
カヴィーレスターン。
それぞれが別の規模の軍を持ち寄り、シルウァニア王国へ向かう。
「ならば、戦費一万枚の支出は妥当と判断します」
ペクーニア伯爵が言った。
「国家貯蓄を大きく毀損しますが、現状の収入構造であれば、直ちに国家財政が危機へ陥る水準ではありません。また、海峡関税の王国収入が大きく増加したことで、戦争後の財政再建能力も以前より高まっております」
アトラシート伯爵も頷いた。
「軍務としても、一万七千百人の遠征軍を一年程度維持できるなら、エクィトゥム王国の作戦へ十分な戦力を提供できます」
父上は最後に俺を見る。
「レノ」
「はい」
「王太子として、お前はどう考える」
俺は一度、目の前の資料を見つめた。
財政。
兵力。
補給。
継戦能力。
すべての数字が並んでいる。
大金貨一万枚。
二万二千百人。
国内防衛五千人。
遠征軍一万七千百人。
継戦能力は約一年。
それ以上を望むなら。
追加徴募か追加戦費が必要になる。
「賛成します」
俺は答えた。
「ただし、戦争が一年以内に終わることを期待して戦うのではなく、一年を我々が持っている上限として扱うべきだと思います」
父上が頷く。
「つまり?」
「エクィトゥム王国との共同作戦において、我が国の一万七千百人が一年間戦えることを前提に計画を立てる。ただし、半年、一年と区切って戦況を再評価し、必要なら撤退や兵力再編を選べるようにするべきです」
アトラシート伯爵が頷いた。
「合理的です」
「そして」
俺は続ける。
「国内に五千人を残すことは絶対条件です。戦争へ全軍を送れば、敵はシルウァニア王国だけではなくなります。国内の治安、国境、防衛、海峡、港湾を維持できなくなれば、戦争以前に国が崩れます」
父上が静かに頷く。
「分かった」
そして。
「では決定する」
父上は会議室全体を見渡した。
「対シルウァニア王国戦の追加戦費として、大金貨一万枚の支出を認める」
記録官がすぐに筆を走らせる。
「戦時総兵力は二万二千百人。うち国内防衛軍五千人を残し、遠征軍一万七千百人をエクィトゥム王国へ派遣する」
さらに。
「傭兵団については、信用性と組織性を満たすものに限り、総数五千人まで雇用する」
「遠征軍の継戦能力については、現時点の戦費と兵站能力を前提とし、本格的な戦闘を約一年継続できるものとする」
最後に。
「これらを王国の正式な戦争方針として可決する」
静かな沈黙の後。
出席者たちが一斉に頭を下げた。
「承知しました」
こうして。
第315回御前会議において。
アンティクイランド王国は、対シルウァニア王国戦へ向けた具体的な財政・軍事方針を決定した。
大金貨一万枚。
二万二千百人。
国内防衛五千人。
遠征軍一万七千百人。
そして。
約一年。
それが。
今のアンティクイランド王国が、国家として戦争に差し出せる力の限界だった。




