幕間 戦争の足音
シルウァニア王国南西部。険しい山々に囲まれた高地に築かれた王宮は、平地に存在する他国の華やかな宮殿とはまるで違っていた。太い丸太を組み上げた武骨な木造建築で、壁や柱には巨大な毛皮や山岳地帯で狩られた獣の剥製が飾られ、天井から吊るされた角や牙が灯火に照らされている。豪華な絹や金銀細工はほとんど見当たらず、代わりにそこには、寒さと飢えと戦いに耐えてきた山岳民族の歴史そのものが刻み込まれていた。その最奥に設けられた謁見の広間では、シルウァニア王国国王ヴァレリウス・レクス・モンタヌスが、各地から集まった族長たちを前に立っていた。
ヴァレリウスは、シルウァニア王国において「武王」と呼ばれる男だった。武勇に優れ、自ら何度も戦場に立ち、山岳部族の戦士たちから絶大な信頼を得ている。王としての権威も、王冠や宮廷の格式によって支えられているわけではない。自ら剣を取り、部族の戦士たちと同じ雪と泥の中を歩き、敵と戦ってきた実績そのものが、彼を王として認めさせているのだ。
そのヴァレリウスの正面には、二人の大族長をはじめとする大小様々な部族の族長が座っていた。
一人は北東部を支配し、セプテントリア連合公国と国境を接するソルフィエート族族長、セウェル・アル・ソルフィエート。北東部最大の勢力を持ちながら、戦争に対しては穏健な考えを持つ人物として知られている。もう一人は北西部を支配するルペリウス族族長、カエルス・アル・ルペリウス。シルウァニア王国とエクィトゥム王国の戦争では幾度となく最前線へ立ち、エクィトゥム軍との戦いを誰よりも知る猛将だった。
ヴァレリウスは、二人を順番に見つめた。
「セウェル。カエルス。お前たちにも、もう分かっているだろう」
低い声が広間へ響く。
「エクィトゥムが来る」
その言葉に、広間に集まった族長たちの間から僅かなざわめきが起こった。
カエルスが口を開く。
「ようやく、か」
「そうだ」
ヴァレリウスは頷いた。
「これまでのような小競り合いではない。我々が迎えるのは、エクィトゥム王国との決戦だ」
カエルスの表情が変わる。
「……向こうは本気なのだな」
「本気どころではない」
ヴァレリウスは壁に掛けられた大きな地図へ歩み寄った。そこにはシルウァニア王国の山岳地帯と、エクィトゥム王国との国境、二つの主要侵攻路が描かれている。
「我々は知っている。奴らがどう戦うのか。どれだけの兵を持ち、どうやって我々を追い詰めるつもりなのかも、すでに分かっている」
カエルスが地図を見る。
「北から来るか」
「北だけではない」
ヴァレリウスは南側へ指を移した。
「奴らは複数の戦線を作るだろう。我々の兵を分散させ、動かし、判断を誤らせ、その隙を突いてくる」
「つまり、これまでのエクィトゥムとの戦争とは違う」
「そうだ」
武王ヴァレリウスは、静かに答えた。
「これまでの戦争では、互いに奪い、押し返し、いずれ引くことができた。しかし、今回は違う。奴らは我々の国そのものを取りに来る」
その言葉に、広間が静まり返った。
シルウァニア王国は人口およそ百万人。
平地に広大な都市国家を築いているわけではない。山岳地帯に点在する部族が長い歴史の中でまとまり、一つの王国を形作った国家だ。王都が陥落したからといって、すぐに国家が崩壊するわけではない。その代わり、山々に散らばる各部族そのものが戦いを続けることになる。
だからこそ。
今回の戦争は、シルウァニア王国にとって生き残りを懸けた戦いだった。
「セウェル」
ヴァレリウスが北東部族長へ視線を向ける。
「お前は、この戦争に反対するか」
セウェルはしばらく黙っていた。
彼は穏健派だ。
無意味な戦争を好まない。
エクィトゥム王国との戦争を長引かせることが、シルウァニア王国にとってどれほどの負担になるのかも理解している。
「私は戦争そのものを望んではいません」
セウェルは静かに答えた。
「しかし、我々が戦わなければ、エクィトゥムは我々の土地へ入ってくるでしょう」
「そうだ」
「ならば」
セウェルは顔を上げた。
「戦うしかありません」
ヴァレリウスは頷いた。
「それでいい」
続いて、カエルスを見る。
「お前はどうだ」
ルペリウス族の族長は、獰猛な笑みを浮かべた。
「俺は、とうの昔に覚悟している」
カエルスは何度もエクィトゥム軍と戦ってきた。
「奴らが来るなら、こちらも迎え撃つ。山を知らない兵士が何十万来ようと、この国の山は我々の味方だ」
ヴァレリウスも笑った。
「そうだ。山は我らを守る」
だが。
その表情から笑みが消える。
「しかし、それだけでは足りない」
広間にいる族長たちが息を呑む。
「国境を守るだけではない。我々は国そのものを戦場にする」
「総動員か」
カエルスが尋ねた。
ヴァレリウスは頷いた。
「その通りだ」
そして。
王として。
武王として。
はっきりと命じた。
「シルウァニア王国全土に総動員令を発する」
一瞬。
誰も言葉を発さなかった。
「若者だけではない。老いた者も、女も、男も、戦える者はすべて戦う。弓を引けるなら弓を取れ。槍を持てるなら槍を持て。剣を扱えない者も、矢を作れ。鎧を直せ。食料を集めろ。馬を用意しろ。傷ついた者を治療しろ」
ヴァレリウスは広間全体を見渡した。
「戦場へ行ける者だけが兵士ではない」
拳を握る。
「この国を生かすために働く者も、すべて戦士だ」
セウェルが静かに頷いた。
「国民皆兵」
その言葉を聞いた族長たちが、次々に頷いていく。
それは、シルウァニア王国が古くから掲げてきた言葉だった。
国民皆兵。
山岳民族の小国。
しかし。
同時に軍事国家。
人口百万人。
その全てが、戦争という国家的危機に対して何らかの形で役割を担う。
戦場へ向かう者。
食料を運ぶ者。
武器を作る者。
傷病者を治療する者。
山道を守る者。
老人も。
女性も。
若者も。
動ける者は戦い、動けない者は国を支える。
「エクィトゥムが我々を呑み込もうとするなら」
ヴァレリウスは低く言った。
「山そのものを盾にして戦う」
カエルスが立ち上がる。
「ならば、ルペリウス族は北西部から戦士を出す」
「ソルフィエート族も準備を進めます」
セウェルも答えた。
「我々は、最後まで国を守る」
ヴァレリウスは二人を見て、力強く頷いた。
「ならば、各部族へ伝えろ」
王の声が広間を震わせる。
「エクィトゥム王国との決戦が始まる」
「そして、この戦争に敗れれば、我々は国そのものを失う」
「だからこそ」
ヴァレリウスは王冠を外すこともなく、ただ拳を握った。
「全員で戦う」
その夜。
シルウァニア王国の各地へ、王の命令が一斉に届けられた。
山道を駆ける騎馬。
部族の集会所へ集められる戦士たち。
武器庫から運び出される弓と槍。
集められる穀物。
鍛冶場から響く金属音。
村々では兵士となる若者たちが招集され、女たちは食料や衣服の準備を始め、老人たちは武器の修繕や物資の整理に取りかかる。
百万人の国家が。
一つの巨大な軍隊へ変わり始めていた。
そして。
エクィトゥム王国でも。
すでに巨大な軍勢が戦争へ向けて準備を始めている。
二つの国家の間に広がる山々。
その向こうから。
戦争の足音が。
すぐそこまで近づいていた。




