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氷の奇公子 ~変人王子の生存術~  作者: 佐藤湊
第4章 二つの生を越えて
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幕間 その頃、帝国では

 アエテリア帝国。


 その広大な版図の中央部に位置する皇宮では、王立士官学校で新年度が始まったのとほぼ同じ頃、一つの報告が皇帝のもとへ届けられていた。


「……以上が、アイティクイランド王国で発生した内乱についての最終報告となります」


 広大な執務室の中央には、大きな地図が広げられている。アエテリア帝国を中心とし、その西方に位置する諸王国まで描かれた地図には、数多くの印が付けられていた。


 その正面に座っているのは、アエテリア帝国第五次ポテンス朝初代皇帝、ホスティス・インペラトル・ポテンス・アエテリア。


 帝国の歴史において、新たな時代を切り開いた皇帝である。


 彼は報告書へ視線を落としたまま、しばらく何も言わなかった。


「第二王妃ヴィクトリアによるクーデターは失敗」


「はい」


「第四軍団と第五軍団は鎮圧」


「はい」


「国王アウレリウスは生存」


「その通りです」


「第二王妃、第二王子は死亡」


「はい」


「そして」


 ホスティス皇帝が報告書を一枚めくる。


「カヴィーレスターン軍も第一王子側へ寝返った」


「はい」


 皇帝は小さく息を吐いた。


 期待していた結果ではない。


 帝国がアイティクイランド王国へ直接軍を差し向ける必要が生じることもなく、むしろ状況は自分たちが望んでいたものとは逆方向へ進んでいた。


 ヴィクトリアが帝国へ送ろうとしていた密書も、すでに露見している。


 彼女が企てていたのは、カヴィーレスターンを利用して国内を混乱させ、その後に帝国軍を呼び込むこと。


 そして。


 帝国からの「救援」を受けたという既成事実を作り、アイティクイランド王国を帝国へ従属させることだった。


 本来なら。


 帝国にとって、それは非常に都合のいい展開だった。


 大軍を派遣する必要すらない。


 アイティクイランド王国の内部から帝国への従属を求める勢力を成立させ、その要請に応じるだけでいい。


 帝国軍が「救援者」として入ればいい。


 戦費も。


 人的損失も。


 外交的な非難も。


 可能な限り抑えられる。


 だが。


 その計画は崩れた。


「アイティクイランド王国の第一王子は」


 ホスティス皇帝が尋ねる。


「現在、王太子となっております」


「年齢は」


「十五歳です」


「十五歳……」


 皇帝はわずかに眉を動かした。


「そして、エクィトゥム王国第三王女との婚約を成立させ、その直後にエクィトゥム王国との軍事同盟と貿易協定を結んだ」


「その通りです」


「さらにカヴィーレスターンとも関係を構築し、現在では三国による軍事同盟の成立まで進んでおります」


 そこで初めて。


 皇帝の目が地図へ向いた。


 アイティクイランド王国。


 エクィトゥム王国。


 カヴィーレスターン・スルタン国。


 三つの国家を結ぶ線が、地図上で一本の政治的なまとまりを作っている。


「正式名称は?」


「大陸西部三国同盟です」


「そうか」


「まだ正式には定着しておりませんが、ルイーナエ大戦時の諸国連合に見立て、『第二次諸国連合』と呼ぶ者も増えているようです」


「……第二次諸国連合」


 ホスティス皇帝はその名を口の中で転がした。


 悪い名前ではない。


 少なくとも。


 帝国から見れば、非常に注意すべき名前になりつつある。


「この同盟は、帝国を仮想敵としているのか?」


「現時点で、明確にそう宣言した事実はありません。しかし、カヴィーレスターンは第四次カヴィーレスターン戦争で大敗して以来、帝国への対抗力を求めており、エクィトゥム王国との軍事同盟を強く望んでいました」


「そして、それをアイティクイランド王国の第一王子が仲介した」


「はい」


 皇帝は再び黙る。


 アイティクイランド王国。


 これまでは、帝国にとってそれほど重要な国家ではなかった。


 小さい。


 軍事力も限定的。


 経済力も決して大きくない。


 そして、帝国とエクィトゥム王国の間に存在する緩衝国家。


 本来なら。


 帝国がわざわざ積極的に手を出すほどの国ではない。


 むしろ。


 存在していることそのものに価値があった。


 帝国とエクィトゥムの間で直接的な緊張が生じない。


 そのための緩衝地帯。


 それ以上でも、それ以下でもなかった。


 だからこそ。


 ヴィクトリアから話が持ち込まれた時、皇帝は計画を利用する価値があると判断した。


 帝国軍が大軍を動かす必要もない。


 内部から崩れるなら、それを利用すればいい。


 だが。


 失敗した。


 そして今。


 アイティクイランド王国は、エクィトゥム王国と王族婚姻を結び、軍事同盟まで締結している。


 さらにカヴィーレスターンまでそこへ加わった。


「陛下」


 側近が口を開いた。


「このままでは、アイティクイランド王国が帝国にとって脅威となる可能性があります。今のうちに圧力を――」


「ならない」


 皇帝は即座に答えた。


 側近が言葉を止める。


「アイティクイランド王国そのものは、依然として小国だ」


「ですが、エクィトゥムとカヴィーレスターンが――」


「だからこそだ」


 ホスティス皇帝は地図を指でなぞった。


「我々が注目すべきなのは、アイティクイランドそのものではない。エクィトゥムとカヴィーレスターンそれにセプテントリアだ」


 皇帝の視線が三つの国家へ移る。


「アイティクイランドが小国のままであるなら、帝国がそこへ直接関与する意味は薄い。あの国を無理に従属させようとすれば、エクィトゥムを刺激することになる。カヴィーレスターンとの同盟も強めるだろう」


「では、放置するのですか」


「放置とは違う」


 皇帝は冷静に言った。


「観察する」


 それだけだった。


「アイティクイランド王国がどこまでエクィトゥムへ依存するのか。カヴィーレスターンがどこまでこの同盟を維持できるのか。三国の利害が一致しているのか、それとも帝国という共通の脅威を理由に一時的に結びついているだけなのか」


 ホスティス皇帝の目は冷たかった。


「三つの国が同じ目的を持っているとは限らない。国家同士の同盟など、利益が食い違えば簡単に揺らぐ」


「……なるほど」


「今、我々が無理に手を出せば、その三国を本当に一つにまとめることになる」


 側近が黙る。


「それは避けるべきだ」


 皇帝は静かに椅子へ背を預けた。


「アイティクイランド王国を無傷で編入する機会は失われた」


 その言葉には、悔しさよりも冷静な判断があった。


「ならば、もう追う必要はない」


 皇帝にとって国家とは。


 感情で執着するものではない。


 利益を得られるなら利用する。


 得られないなら、別の場所へ目を向ける。


「アイティクイランド王国は、しばらくそのままにしておけ」


「はい」


「帝国にとって重要なのは、あの小国ではない」


 皇帝は地図のさらに東方へ視線を移した。


「帝国の未来にとって、もっと重要な土地がある」


 側近が静かに頭を下げる。


「では、アイティクイランド王国に対する積極的な工作は停止します」


「いや」


 皇帝は一度だけ訂正した。


「工作を完全に止める必要はない。情報は集め続けろ。ただし、国家予算と軍事力を割くほどの価値はないということだ」


「承知しました」


 報告書が閉じられる。


 アイティクイランド王国。


 その国は。


 帝国にとって、目を離すべき存在ではない。


 だが。


 今すぐ手を伸ばす必要もない。


 それが。


 ホスティス・インペラトル・ポテンス・アエテリアの判断だった。


 内乱によって帝国が手に入れようとしていたものは、手に入らなかった。


 しかし。


 帝国は傷ついていない。


 兵士も失っていない。


 財政も消耗していない。


 外交的な失敗も致命的ではない。


 ならば。


 失敗した計画にいつまでも執着する必要などない。


「次の報告を」


「何についてでしょうか」


 皇帝は地図を見たまま答えた。


「エクィトゥムだ」


 その一言で。


 部屋の空気が変わった。


 アイティクイランド王国という緩衝国家から。


 帝国に次ぐ大国へ。


 皇帝の視線は、すでに次の対象へ移っていた。


 こうして。


 アイティクイランド王国を巡る帝国の直接的な関心は、一度薄れることになった。


 だが。


 それは平穏の始まりではない。


 帝国が。


 より大きな相手へ目を向けただけだった。

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