第5話 ヘーロース商会長令嬢リア・ヘーロース
王立士官学校での生活が始まってから数日が経ち、俺はようやくこの学校独特の空気にも少しずつ慣れ始めていた。王立貴族学院とは何もかもが違う。授業の内容も、学生同士の関係も、教官たちの態度も、そして何より、この学校では「身分」と「実力」が複雑に絡み合っている。
入学したばかりの頃は、それが少し分かりにくかった。
王立貴族学院を卒業した貴族は、士官学校内でも明らかに上位の身分として扱われる。俺のような王族はもちろん、爵位持ち貴族も高い位置にいる。その次に、王立貴族学院へ進学できた騎士家の子女。そして、その下には学院へ子供を送れるほど裕福ではなかった騎士家の子女や、法衣男爵家の次男・三男などがいる。さらに平民出身者が続く。
つまり。
俗にいう「スクールカースト」のかなりの部分が、そのまま身分によって決まっている。
王立貴族学院を卒業した者は、士官学校へ来た時点で明確に一段上の扱いを受ける。それは教官が露骨に差別しているという意味ではない。むしろ教官たちは徹底して平等に扱おうとしている。それでも、生徒同士の間では家格や家の財力、これまで受けてきた教育の差が自然と表れてしまう。
ただし。
ここには一つ、面白い例外がある。
家格だけでは、人間の立場は決まらない。
例えば、貧しい騎士家の子女と、王都でも名の知れた裕福な商家の子女を比べた場合。身分そのものでは騎士家の子女の方が上だ。しかし、騎士として必要な武具や馬を用意することすら難しい家と、莫大な財力を持ち、王国中の商人と繋がっている商家を比べれば、学校内で影響力を持つのは後者だったりする。
実際、この学校ではそうした例が珍しくない。
そして、俺がそれを改めて実感したのは、ある日のことだった。
「では、次の生徒」
教官が名簿を見る。
「エリシア・デイ・フェルディナン」
「はい」
一人の少女が立ち上がった。
俺が目を向ける。
エリシアだった。
王立貴族学院でも同じ時間を過ごしてきた少女。先のアイティクイ・エクィトゥム戦争で家が功績を挙げ、その後フェルディナン騎士家は男爵家へ、そして内乱後には子爵家へ昇格した。今では第四軍団軍団長となったフェルディナン子爵の娘であり、次期王太子妃となるティアの側近としても正式に立場を与えられている。
そんなエリシアが。
剣を腰に帯びた状態で、士官学校の教室へ立っていた。
「フェルディナン子爵家、エリシアです。三年間、よろしくお願いします」
落ち着いた声。
王立貴族学院にいた頃と比べても、かなり堂々としている。
教官が頷いた。
「次」
そして。
「グラーティア・アウレリア・デイ・エクィトゥム」
その名が呼ばれた瞬間、教室の空気が僅かに変わった。
「はい」
ティアが立ち上がる。
第三王女。
そして俺の婚約者。
王立士官学校では、王族や上級貴族も軍事教育を受けることになる。当然ながら、ティアもここへ来ることになった。彼女は王女であると同時に、武術もかなりの腕前を持っている。さらに魔力を持ち、炎熱魔法を扱う魔法使いでもある。
「エクィトゥム王国第三王女、グラーティア・アウレリア・デイ・エクィトゥムです。よろしくお願いいたします」
ティアが一礼する。
当然、教室は少しざわついた。
エクィトゥム王国の王女。
しかも。
俺の婚約者。
それを知らない者の方が少ないだろう。
クラス分けにはしっかりと校長が気を利かせてくれたようだ。
「王太子殿下と王女殿下が同じ学年なのか……」
「それにフェルディナン子爵令嬢までいる」
「凄い学年だな」
そんな声が聞こえる。
俺は苦笑した。
確かに。
こうして並べてみるとかなり濃い。
だが、王立士官学校の面白いところは、そんな身分の高い者たちと同じ教室に平民も普通にいることだった。
そして。
「次」
教官が名簿をめくる。
「コリウス・デイ・ガイウシア」
「はい」
立ち上がったのは、コリウスだった。
ガイウシア子爵家長男。
王立貴族学院時代からの知り合いだ。
「ガイウシア子爵家長男、コリウスです。騎士として王国へ仕えるため、この学校で必要な全てを学びたいと思っています。よろしくお願いします」
以前より少しだけ逞しくなったように見える。
士官学校へ来る以上、コリウスも当然ながら軍事の道を意識しているのだろう。
俺は小さく頷いた。
これで王立貴族学院時代からの知り合いが、また一人増えた。
だが。
その日、俺が最も興味を持ったのは、彼らではなかった。
別の少女だった。
◆
王立士官学校では、クラス分けについても王立貴族学院とは大きく違っていた。
王立貴族学院では、身分や家格、人間関係がある程度考慮されていた。しかし、士官学校では入学後のクラス編成について、一つの明確な方針がある。
身分を完全に無視して、成績と能力を基準にした上でシャッフルする。
つまり。
王太子の隣に伯爵令息がいることもある。
その隣に平民がいることもある。
その向かいには騎士家令嬢が座り、斜め前には商家の令嬢がいる。
家格によってクラスを分けることはしない。
これには明確な理由があるらしい。
「戦場では、身分の違う者同士が同じ部隊に入る」
以前、校長が説明していた。
「ならば、軍事教育を受ける段階から身分だけで人間を分けてしまえば、軍人として成長できない」
確かに。
実際の軍では、平民兵士を貴族の指揮官が率いることになる。
同じ軍団の中には騎士も兵士もいる。
魔術を使える者もいれば、使えない者もいる。
だからこそ。
士官学校では、身分による壁を可能な限り取り払っている。
軍は。
実力がなければどうにもならない。
家柄だけでは敵を倒せない。
爵位だけでは兵士を率いることもできない。
戦場で判断を誤れば、身分など関係なく部隊が死ぬ。
その思想が、この学校の校風そのものになっている。
ただし。
魔力だけは。
実力でどうにかなるものではない。
「魔力を持つ者と、持たない者では訓練内容が違うからな」
教官が説明していた。
魔力を持っているのは貴族だけではない。
これも、士官学校へ入って初めて知ったことだった。
通常、魔力を持つ者は貴族に多い。
しかし、貴族家が没落して平民となった家の中にも、魔力を持つ人間はいる。
そもそも、爵位を失ったからといって、その家の血から魔力が突然消えるわけではない。
騎士家の次男以下などは、家督を継げずに平民となることが多い。
そして、そうした人々が平民と結婚すれば、代を重ねるごとに魔力を持つ者は少なくなっていく。
血が薄れていくからだ。
だが。
中には、平民へ落ちた後も、同じように魔力を持つ家同士で婚姻を続ける家もある。
そうした家では、平民身分でありながら魔力を持つ者が生まれることがある。
つまり。
魔力を持つ=貴族
ではない。
平民の中にも、魔力持ちは存在する。
そのため士官学校では、魔力持ちの学生だけを集めた魔術教育の授業が別に用意されている。
身分では分けない。
魔力の有無で分ける。
それが士官学校の基本だった。
◆
そして。
その日の午後。
俺は教室で一人の少女と顔を合わせた。
「リア・ヘーロース」
教官が名前を呼ぶ。
立ち上がった少女を見て、俺は少しだけ目を細めた。
黒髪。
緑眼。
少女らしい華奢さはあるものの、その立ち姿には妙に隙がない。
「リア・ヘーロースです。よろしくお願いします」
簡潔な挨拶。
しかし。
その瞳には、周囲を観察するような慎重さがあった。
教室の何人かが、小声で反応する。
「ヘーロースって、三大商会の……」
「商会長令嬢?」
「でも平民だろ?」
そう。
リアは平民だ。
通常、平民には姓がない。
だが、かつて貴族だった家が平民へ落ちた場合、その家には貴族の血筋を示す姓が残ることがある。
ただし。
貴族なら名前と姓の間に入る「デイ」がない。
リア・ヘーロース。
だから彼女は平民だ。
それでも。
ヘーロース商会は王国三大商会の一つ。
家格では貴族に遠く及ばないが、商会が持つ財力と情報網を考えれば、学校内での影響力は決して低くない。
むしろ。
身分制度だけを見れば下位にいるはずなのに、実際の人間関係では貴族家の令息令嬢からも一目置かれる。
まさに、士官学校の「例外」だった。
そんなリアが。
自己紹介を終えた後。
俺の方へ歩いてきた。
「レノウィウス殿下」
「何だ?」
リアは周囲をちらりと見た。
「これから仲良くしていきたいと思っていますので、一つ教えて差し上げることがございます」
俺は少しだけ眉を上げた。
リアが俺へ近づき、声を落とす。
「帝国出身の『とても優秀』な新入生が数人ほど入学しています」
一瞬。
俺の思考が止まった。
だが、表情には出さない。
アエテリア帝国。
この国にとって最も警戒すべき大国。
そして今。
王立士官学校には、軍事知識を学ぶための大量の情報が集まっている。
ここに帝国出身者がいる。
それだけなら、単なる留学生という可能性もある。
だが。
リアはわざわざ「とても優秀」と言った。
何人いるのかも。
誰なのかも。
何のために来たのかも。
断定していない。
ただ。
警告だけを置いていった。
それも。
商会長令嬢としての情報網を持つリアが。
俺はリアを見る。
緑色の瞳は笑っていなかった。
だが、口元には薄い笑みが浮かんでいる。
「……そうか」
俺も周囲に聞こえない程度の声で答える。
「とても良い贈り物だった」
リアの目が僅かに細くなる。
俺は続けた。
「これからも『仲良く』したい」
「ありがとうございます、殿下」
それだけだった。
だが。
十分だった。
これは単なる挨拶ではない。
情報の交換。
そして。
互いに相手の意図を探るための、最初の一手だ。
◆
リアが席へ戻った後、俺は教室全体を見渡した。
王立貴族学院から来た貴族。
騎士家。
下級貴族。
商家。
平民。
そして、魔力を持つ者。
魔力を持たない者。
身分によってクラスを分けない。
実力を重視する。
それでも、生まれた家による差は確かに存在する。
この学校は。
王国社会そのものを、小さく切り取ったような場所なのかもしれない。
そして、その中には。
帝国から来た「とても優秀」な生徒がいる。
誰なのか。
まだ分からない。
だが。
王立貴族学院では派閥争いを経験した。
王宮では内乱も経験した。
そして今度は。
軍事教育の場で。
帝国の影が姿を見せた。
俺は何事もなかったように教官へ視線を戻した。
だが。
これから三年間。
ここでは、剣や魔術だけを見ていればいいわけではなさそうだった。




