第74話 アイティクイ・エクイトゥム同盟成立
婚約祝いの宴から一夜が明けた。王宮は再び公的な空気に包まれていた。昨日までの二日間に続いた成人式、立太子の儀、そして婚約式は王族にとって大きな節目だったが、今日行われるのは、それらとは性質の異なる、両国の将来を直接左右する重要な外交行事である。アンティクイランド王国とエクィトゥム王国の間で長く協議されてきた軍事同盟と貿易協定について、最終的な条文が確認され、両国の全権を持つ者が正式に署名する日だった。
会場となったのは、中央宮殿の謁見の間だった。昨日まで王族たちが重要な儀礼を執り行い、内乱の最中には兵士たちが行き交った場所も、今日は外交文書へ署名するための場として整えられている。正面には両国の国旗が並べられ、その中央には長大な机が置かれ、机上には二冊の分厚い条約文書がそれぞれ豪華な装丁を施されて置かれていた。軍事同盟の条約と貿易協定の条約である。羊皮紙の表紙には両国の紋章が刻まれ、封蝋にも王家の紋章が押されている。その光景を見るだけで、今日の署名が単なる友好確認ではなく、二つの王国の関係そのものを正式に変える行為なのだと実感させられた。
俺はその机の一方に腰を下ろしている。
正面にはエクィトゥム王国王太子フィリウス・アウレリア・デイ・エクィトゥムが座っていた。エクィトゥム王国側の全権大使として、国王に代わって正式な署名を行う立場にある。そして俺もまた、昨日正式に王太子となったことで、父上から両条約の締結に関する全権を委ねられていた。まだ王太子になって二日しか経っていないという事実を考えれば不思議な気分だったが、昨日までの俺と今日の俺では、王国を代表して交渉し、署名する資格そのものが違う。肩書きが変われば責任も変わる。その重さを、俺は改めて感じていた。
俺の左右には、アンティクイランド王国側の外交・財務・軍務を担当する関係者が席を並べている。エクィトゥム王国側にも宰相を兼ねるオスティエール公爵をはじめ、外交、軍務、財務、交易を担当する者たちが控えている。謁見の間の後方には両国の高位貴族が数多く並び、今回の条約が正式に結ばれる瞬間を見届けようとしていた。昨日までの婚約祝いの宴とは違い、今日の空気には酒も音楽もなく、代わりに一つ一つの言葉と署名の意味を見極めようとする、政治家特有の静かな緊張が満ちている。
俺は隣に置かれた文書へ目を落とした。
軍事同盟。
両国の一方が外敵による侵略を受けた場合の相互支援、一定の情報共有、共同軍事行動に関する協議、軍事顧問団の交換、そして戦時における補給協力など、数多くの条項が細かく定められている。これまでの両国の関係を考えれば、かなり踏み込んだ内容だった。特に、シルウァニア王国との戦争を控えているエクィトゥム王国にとって、アイティクイランド王国の正式な軍事協力を得られる意味は大きい。
一方、アイティクイランド王国にとっても、この軍事同盟には大きな意味がある。自国だけでは到底対処できない規模の戦争や外交的圧力が生じた際、エクィトゥム王国という大国の支援を受けられるという事実そのものが、安全保障上の価値を持っている。昨日まで俺が考えていた「小国としてどう生き残るか」という問題に対しても、この条約は一つの答えになる。
そして、その隣には貿易協定の条文がある。
両国間の関税の引き下げ、主要街道と港湾の相互利用、商人への安全保障、特定商品の輸出入に関する優遇措置、交易拠点の整備、そして戦時であっても一定量の物資を安定して流通させるための取り決めまで含まれている。アイティクイランド王国にとっては、慢性的な穀物不足を補う交易路を拡大し、輸入先を確保することにもつながる。エクィトゥム王国側にとっても、アイティクイランド王国を経由した南方・西方との交易を拡大できるため、双方に利益がある。
条文を確認しながら、俺は昨日のことを思い返した。
ヴィクトリアは、帝国へ従属することでアイティクイの民を守ろうとした。
彼女はこの国に未来がないと考えた。
だから、より大きな力に頭を下げてでも国を残そうとした。
俺は、その考えを否定した。
だが。
ならば俺は、この国をどう守るのか。
その答えの一つが、今、目の前にある。
帝国に従属するのではなく、エクィトゥム王国と対等な立場で同盟を結ぶ。
外国の軍事力に支配されるのではなく、外交と交易によって複数の国との関係を築き、自国が簡単には切り捨てられない位置を作る。
それが、俺の選んだ道だ。
「レノウィウス王太子殿下」
フィリウスの声で、俺は顔を上げた。
「条約文の最終確認は終えられましたか?」
「はい。こちらでは問題ありません」
「我が国側も同じです」
フィリウスは穏やかな笑顔を浮かべている。
相変わらずだ。
表面上は非常に柔らかい。
妹の婚約を心から喜んでいる兄にも見える。
しかし、その笑顔の奥にあるものを、俺は昨日の宴でも改めて感じ取っていた。フィリウスは感情だけで政治を判断する人間ではない。ティアを大切に思っていたとしても、エクィトゥム王国の利益を損なう判断を簡単に受け入れるような人物ではない。それどころか、必要と判断すれば身内に対してさえ厳しい決断ができるだろう。
だからこそ、俺もこの場では王太子として向き合う。
昨日の婚約式では義理の兄になる人物だった。
今日は、同盟国の全権大使だ。
「では」
フィリウスが文書へ目を落とした。
「軍事同盟協定から参りましょう」
「お願いします」
両国の担当者が条文の最終確認を行う。
第一条。
相互の独立と主権を尊重すること。
第二条。
いずれか一方が第三国から武力攻撃を受けた場合、両国は協議の上、必要な軍事支援を行うこと。
第三条。
軍事情報を可能な限り共有し、両国の安全保障に重大な影響を与える情報については速やかに通報すること。
第四条。
戦時において必要となる物資や補給について、両国は可能な限り協力すること。
そして、そのほかにも細かな条文が続いていく。
最後まで読み上げられたところで、謁見の間が静かになった。
儀礼官が立ち上がる。
「両国の全権大使にお伺いいたします。以上の条約内容について、両国政府を代表して同意されますか」
「同意します」
俺は答えた。
「同意します」
フィリウスも続く。
その瞬間、後方に控えていた貴族たちから小さなどよめきが起こった。
軍事同盟が。
正式に成立する。
昨日までとは違う。
もう、エクィトゥム王国とアイティクイランド王国は、単に友好的な関係にある二国ではない。
互いの安全保障に責任を持つ同盟国になったのだ。
俺は羽根ペンを受け取った。
机の上に置かれた条約文書へ、自分の名を書く。
「レノウィウス・ゲンス・デイ・アイティクイランド」
書き終える。
次にフィリウスが署名する。
「フィリウス・アウレリア・デイ・エクィトゥム」
両国の署名が並ぶ。
条約を担当した者たちも確認を行い、最後にそれぞれの国璽が押される。
封蝋へ王家の紋章が刻まれた瞬間、会場から大きな拍手が起こった。
俺は一度だけ条約文書を見る。
たった一冊の文書。
だが。
この紙一枚によって、二つの王国の未来が変わる。
そして。
ここからが、もう一つの協定だった。
「続いて、両国間貿易協定の署名へ移ります」
新しい文書が机上へ置かれる。
こちらには軍事同盟とは違う、より細かな数字と条件が並んでいる。
関税率。
輸出入品。
港湾使用料。
交易路。
商人の保護。
通行税。
穀物輸入。
そして、戦争時の優先供給。
アイティクイランド王国にとっては、どれも国家の命運を左右する問題だ。
俺は財務担当者の説明を受けてから、改めて条文を確認した。
「この穀物輸入に関する条項ですが、戦時においても一定量の供給を維持することになっていますね」
「はい」
エクィトゥム側の担当者が答える。
「ただし、我が国自身が深刻な飢饉などに見舞われた場合には例外が――」
「そこは理解しています」
俺は頷いた。
互いに無理な約束をしない。
それも同盟には必要だ。
「この条件なら、こちらとして問題ありません」
フィリウスも文書へ目を落とす。
「エクィトゥム側も異論ありません」
「では」
再び羽根ペンが渡される。
俺は署名した。
続いて、フィリウスも署名する。
そして国璽が押された。
もう一度。
拍手が起こった。
今度は先ほどよりも大きかった。
軍事同盟だけではない。
貿易協定まで正式に結ばれた。
アイティクイランド王国とエクィトゥム王国。
政治。
軍事。
経済。
そして王族同士の婚約。
二つの国を結ぶ線が、いくつも重なったことになる。
フィリウスがゆっくり立ち上がる。
「これにより、我がエクィトゥム王国とアンティクイランド王国は、正式に同盟国となりました」
そして俺も立ち上がった。
「我がアンティクイランド王国も、エクィトゥム王国との友好と同盟を末永く維持することを誓います」
二人が握手を交わす。
ただの儀礼的な握手ではない。
昨日まで婚約者の兄として話していたフィリウスと、今日からは同盟国の代表として向き合う。
だが、フィリウスの表情にはいつも通り柔らかな笑顔が浮かんでいた。
「これから、長い付き合いになりそうですね」
「そうですね」
俺も笑う。
けれど。
互いに分かっている。
同盟国である以上、友好だけで関係が続くわけではない。
国益が異なる時には交渉しなければならない。
必要なら互いに譲歩することもある。
場合によっては、厳しく対立することもあるだろう。
それでも。
今日ここで結ばれた条約は、その全てを話し合うための基盤になる。
そして何より。
ティアとの婚約によって始まった両国の関係が、個人同士の結びつきだけで終わらず、正式な国家間関係へまで発展した。
俺は謁見の間を見渡した。
多くの貴族がいる。
父上もいる。
ティアもいる。
そしてフィリウスもいる。
昨夜まで王宮が戦場だったとは思えないほど、今は静かだった。
だが。
この静けさは、何もなかったから生まれたものではない。
内乱を越えた。
父上が生き残った。
俺は成人した。
王太子になった。
ティアと婚約した。
そして今日。
エクィトゥム王国との軍事同盟と貿易協定が正式に成立した。
俺は条約文書へもう一度視線を向ける。
ヴィクトリアが恐れていた未来。
大国に切り捨てられる小国。
帝国の都合で滅ぼされる国家。
その未来を避けるために、彼女は帝国への従属を選ぼうとした。
俺は違う道を選んだ。
複数の国と結びつき。
交易を広げ。
軍事的な支えを作り。
自分たちの国を守る力を少しずつ積み上げる。
まだ始まったばかりだ。
この条約だけで、アイティクイランド王国が大国になるわけではない。
明日から突然、国力が増えるわけでもない。
だが。
未来を自分たちで選ぶための土台はできた。
「レノ」
隣からティアの声が聞こえた。
「どうした?」
「なんだか、昨日から色々ありすぎて、まだ実感がない」
「俺もだ」
「でも」
ティアが静かに笑う。
「これで、本当に両国は一緒に進んでいくんだね」
「ああ」
俺は頷いた。
「これからだ」
そして。
俺は前を向いた。
昨日までの俺は、第一王子だった。
今は王太子。
隣には婚約者がいる。
目の前には同盟国の王太子がいる。
そして机の上には、両国の未来を記した二冊の条約文書がある。
俺はそれを見つめながら、静かに思った。
ここから先。
本当の意味で、王太子としての仕事が始まるのだと。
そして、この日
アイティクイ・エクイトゥム同盟が成立した




