第73話 宴
婚約式が終わった日の夕刻、王宮では両国の王族と貴族を招いた婚約祝いの宴が開かれた。昨夜まで王宮が戦場になっていたことを考えれば、こうして再び大広間に楽団の音色が響き、卓上へ料理が並び、貴族たちが礼装に身を包んで談笑している光景は不思議なものだった。まだ修復の終わっていない場所も多く、警備の数も普段より遥かに多い。それでも、今日だけは内乱を乗り越えた王国が新しい未来へ進み始めたことを示すため、宴は予定通り盛大に行われることになった。
大広間の正面にはアンティクイランド王家の紋章が掲げられ、その左右には両国の旗が並べられている。王家の席には父上が座っていた。毒の影響はまだ残っているものの、昨日までの瀕死の状態からは明らかに回復しており、少なくとも公の場へ姿を見せられるほどには戻っている。そして、その少し離れた場所にはエクィトゥム王国の国王ではなく、今回の婚約を祝うために滞在を続けている王太子フィリウスが席を取っていた。その隣にはエクィトゥムから来た使節たちが並び、宴の主役である俺とティアは、王族席の中央に近い場所に座っている。
俺は杯を手にしながら、広間全体を見渡した。
昨夜までだったら、ここにいる貴族の中にも第二王子派として反乱へ加担していた者がいたはずだ。今は拘束され、取り調べを受けている。そう考えると、目の前で笑顔を浮かべながら乾杯している者たちが全員、単純に一枚岩の味方というわけではないことくらい分かる。これから先、俺は王太子として、そうした人間関係も含めて王国をまとめていかなければならない。
やがて楽団の演奏が止まり、父上が立ち上がった。
「本日は、我が息子レノウィウスの立太子と、エクィトゥム王国第三王女グラーティア殿下との婚約を祝うため、この場に集まってくれたことに感謝する」
広間が静かになる。
父上の声にはまだ若干の力の弱さが残っていたが、それでも国王としての威厳は失われていない。
「昨夜、王宮は大きな混乱に見舞われた。国王として、そして父として、あの夜を思えば決して軽々しく語れるものではない。しかし、我が国は今日ここにある。そして、我が息子は王太子となり、我が国とエクィトゥム王国との間には新たな絆が結ばれた」
その言葉に、大広間の空気が引き締まる。
「今日という日が、両国にとって新たな時代の始まりとなることを願う」
父上が杯を掲げる。
「レノウィウスとグラーティア殿下の未来、そしてアンティクイランド王国とエクィトゥム王国の友好に」
貴族たちも一斉に杯を掲げた。
「両殿下の未来に!」
乾杯の声が響き、宴が始まる。
料理が次々と運ばれてくる。王宮料理人が腕を振るった料理に加え、エクィトゥム王国から持ち込まれた酒や果実を使った料理も並び、両国の交流を象徴するような構成になっている。俺は料理へ手を伸ばしながら、ふと隣のティアを見る。
「昨日は本当に大変だったのに、今日は普通に宴会なんだな」
小声で言うと、ティアも同じように周囲へ聞こえない声で答える。
「王族って、忙しいね」
「そうだな」
思わず笑ってしまう。
昨夜は王宮で生死を懸けて戦っていた。
今日は婚約祝いの宴。
王族の生活というのは、どうしてこうも感情の切り替えが激しいのだろう。
「でも」
ティアが少しだけ視線を落とす。
「こういう時間があるのも、悪くないと思う」
「ああ」
俺も頷いた。
「そうだな」
今くらいは、昨日のことを全て忘れられなくてもいい。ただ、目の前にあるものを喜んでもいいのだと思った。
◆
宴が進むにつれて、両国の貴族たちによる挨拶が増えていった。
「王太子殿下、ご婚約、誠におめでとうございます」
「ありがとうございます」
「グラーティア殿下とのご婚約によって、両国の関係はこれまで以上に強固なものとなりましょう」
「そう願っています」
同じような言葉を何度も受けながら、俺は一人一人に丁寧に答えていく。
以前の俺なら、この手の社交に少し疲れていただろう。しかし、今は王太子として、この場そのものが政治の一部であることを理解している。
婚約を祝う宴であると同時に、今日から始まる新しい王国の秩序を周囲へ示す場でもある。
ヴィクトリアがいなくなった。
ルキウスもいない。
第二王子派は大きく崩れた。
そして、その直後に第一王子である俺が王太子となり、エクィトゥム王国の第三王女と婚約した。
これから先、国内の貴族たちがどのような判断をするのかを考えれば、この宴に参加している者たちの表情一つ一つにも意味がある。
そんなことを考えていると。
「王太子殿下」
声を掛けられた。
振り返ると、フィリウス王太子だった。
「フィリウス王太子殿下」
「改めて、ご婚約おめでとうございます」
「ありがとうございます。エクィトゥム王国の皆様にも、ご出席いただけて嬉しく思っています」
「こちらとしても、重要な日ですから」
フィリウスは笑顔だった。
誰が見ても、妹の婚約を心から喜ぶ兄にしか見えない。
だが。
俺は、その笑顔の奥にあるものを知っている。
フィリウスは冷静だ。
極めて冷徹でもある。
感情で動くより、国家の利益を優先して判断する人間だということを、俺はこれまでの交流の中で何度も感じていた。だからこそ、彼がティアを大切に思っていることと、国家の利益を優先して判断できることは、決して矛盾しないのだろう。
「昨日は、大変なものを見せてしまいました」
俺がそう言うと、フィリウスは少しだけ目を細めた。
「王太子殿下」
「はい」
「昨日の件について、私は決して忘れません」
「……」
「ですが、それを理由に今日の婚約を見直すつもりもありません」
フィリウスは穏やかに笑う。
「むしろ逆です」
「逆?」
「昨日の夜、私はエクィトゥム王国の同盟相手がどのような危機に直面し、そしてそれにどう対処するのかを、この目で見ました」
その笑顔は変わらない。
「結果として、貴国の王太子殿下がどのような人物なのかを、以前より正確に知ることができたと思っています」
「……それは、褒め言葉として受け取っていいのでしょうか」
「もちろんです」
即答だった。
だが、その言葉の裏に何を考えているのかまでは、簡単には読めない。
それがフィリウスという男だった。
俺も少しだけ笑う。
「あなたも、相変わらずですね」
「どういう意味でしょう?」
「笑っているのに、何を考えているのか全く分からない」
その瞬間。
フィリウスがほんの僅かに目を細めた。
「それはお互い様でしょう」
「そうかもしれません」
二人とも笑う。
それ以上は言わない。
だが。
これで十分だった。
俺たちは互いに、ただの王族として挨拶しているのではない。
これから軍事同盟を結び、貿易協定を結び、さらに妹と婚約した俺を通じて深く関係する二人の政治家として、互いの力量を見定めている。
それでも。
この宴の中心にあるのは、そんな駆け引きだけではなかった。
「お兄様」
ティアがやってきた。
「何を話してるの?」
「大したことではありませんよ」
フィリウスが穏やかに答える。
「あなたの婚約者が、思った以上に手強い人物だったという話です」
「……何それ」
ティアが呆れたように兄を見る。
俺は思わず笑ってしまった。
「安心してくれ。俺も同じことを考えていたところだ」
「二人とも、変なの」
ティアが少しだけ笑う。
その姿を見て、俺は思った。
ヴィクトリアが守ろうとしたアイティクイの民。
父上が守ってきた王国。
フィリウスが背負っているエクィトゥム王国。
そして、ティア。
俺がこれから守るべきものは増えている。
だが。
それが嫌だとは思わなかった。
◆
宴がさらに進むと、両国の貴族たちは次第に打ち解け始めた。
アンティクイランド側の貴族とエクィトゥム側の貴族が互いに酒を交わし、交易や領地の産物について話している。これまで直接交流する機会の少なかった家同士が、今回の婚約をきっかけに新しい商取引や外交関係を築こうとしているのが分かる。
「我が領では近年、葡萄酒の生産が増えておりまして」
「それは興味深い。こちらでは海産物の取引が盛んですから、相互に――」
そんな会話がいくつも聞こえる。
俺はそれを見ながら、昨日まで戦場だった王宮が、今は再び外交の場所へ戻っていることを実感した。
国は。
こうやって続いていくのだろう。
戦争が終わっても。
反乱が終わっても。
その後には商人が動き、貴族が交渉し、兵士が再編され、人々が日常へ戻っていく。
それを可能にするために、王がいる。
そして。
これからは俺も、その責任を担う。
父上が少し離れた場所から俺を見ている。
目が合う。
父上は小さく頷いた。
俺も頷き返した。
その瞬間。
ティアが隣から声を掛ける。
「レノ」
「何だ?」
「今日は、楽しんでる?」
俺は少しだけ考えた。
「……ああ」
本当に。
今日は、そう言っていい日なのだと思う。
「それならよかった」
ティアも笑う。
俺は杯へ目を落とした。
その向こうに、昨日までの戦争も、ヴィクトリアの陰謀も、ルキウスの死も、父上が倒れた夜もある。
けれど。
今日ここにあるのは、それらを越えた後の未来だ。
王太子になった俺。
婚約者となったティア。
そして、両国の新しい関係。
この宴は、その始まりを祝うために開かれている。
俺は杯を持ち上げた。
「ティア」
「うん」
「これからも、よろしくな」
「こちらこそ」
杯が静かに触れ合った。
その音は、昨夜の剣戟とはあまりにも違っていた。
だが。
俺は、その音の方がずっと好きだった。
王国が戦場になった夜を越えて。
今日、俺たちは新しい未来を祝っている。
その未来には。
アンティクイランド王国があり。
エクィトゥム王国があり。
そして。
俺とティアがいる。
婚約祝いの宴は、夜が更けても続いていた。




