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氷の奇公子 ~変人王子の生存術~  作者: 佐藤湊
第3章 第二王妃ヴィクトリア
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第72話 婚約式

 立太子の儀が終わった翌日。


 王宮には、昨日までとは違う静かな緊張が漂っていた。内乱から二日が経ち、第四軍団と第五軍団の残党の処理や負傷者の収容、王宮各所の修復、反乱に関与した貴族たちの身柄の確認など、やるべきことはまだ山ほど残っている。それでも、昨日の成人式と立太子の儀を終えたことで、王国の政治的な混乱は一つの区切りを迎えていた。そして今日、最後に残されている大きな行事がある。俺とティアの婚約式だ。


 朝の執務を終え、控えの間で式典の最終確認をしていると、侍従が静かに入ってきた。


「殿下、グラーティア殿下がお見えです」


「分かった」


 そう返してから、俺はふと時計を見る。婚約式まではまだ時間がある。ティアがこの時間に来ることは聞いていなかった。


「どこに?」


「衣装の最終確認が終わったとのことで、殿下へご挨拶をされたいと」


「そうか」


 俺は立ち上がった。


 扉が開く。


 そして。


 俺は、言葉を失った。


「……」


 そこにいたティアは、昨日まで俺が見ていた王女とは少し違っていた。


 淡い色合いを基調とした花嫁衣装。布地は幾重にも重ねられているのに重たさを感じさせず、動くたびに細かな刺繍が柔らかく揺れる。胸元から裾へ流れる刺繍には、エクィトゥム王家ゆかりの花を思わせる意匠が細やかに施され、その上には小さな宝石が控えめに散りばめられている。派手さだけを追求した衣装ではない。それでも王女としての気品を失わず、光を受けた布の一つ一つが、彼女のためだけに作られたものなのだと分かるほど美しかった。


 昨日、俺は銀の装飾と碧い宝石を散りばめた王太子の冠を頭に載せた。


 今日は。


 その俺の隣に立つための衣装を、ティアが身につけている。


「……どうしたの?」


 ティアが少し首を傾げる。


 俺は、ようやく我に返った。


「いや」


「さっきから何も言わないけど」


「……見惚れてた」


 正直に言うと、ティアの頬が少しだけ赤くなった。


「そういうの、急に言わないでよ」


「本当にそう思ったから仕方ないだろ」


「……もう」


 ティアは恥ずかしそうに目を逸らす。


 俺は改めて彼女を見た。


 王女としての衣装は今までも何度も見てきた。舞踏会でも、社交界でも、公式の場でも、ティアはいつも美しく着飾っていた。それでも今日の姿は違う。まだ婚約式であり、結婚式ではない。それなのに、花嫁を思わせる衣装を身につけたティアを見ていると、否応なくその先の未来まで想像してしまう。


 婚約。


 その先にある結婚。


 そして、そのさらに先には。


 王と王妃。


 俺たちは、これからそういう未来へ進んでいく。


「……変じゃない?」


 ティアが小さな声で尋ねた。


「全然」


「本当に?」


「ああ。むしろ、きれいすぎて困るくらいだ」


「困るって何?」


「俺が何を言えばいいのか分からなくなる」


 ティアが笑った。


「レノでも、そんなことあるんだね」


「あるさ」


 俺も笑う。


 その瞬間だけは、昨夜までの戦争も、父上の毒も、ヴィクトリアとルキウスの死も、遠いところへ消えたような気がした。


 けれど。


 それは、決して忘れたわけではない。


 むしろ逆だった。


 これから先へ進むために、昨日までの全てを背負ったまま、俺たちはここにいる。


              ◆


 婚約式の直前。


 俺は式典会場へ向かう前に、一人で廊下に立っていた。


 昨日、王太子の冠を載せてもらった場所を思い出す。


 銀の装飾。


 碧い宝石。


 父上の手。


 そして、「今日より、お前は我が国の王太子だ」と言われた瞬間。


 あれから一日しか経っていない。


 それなのに、俺にはもっと長い時間が流れたように感じられた。


 そして今日。


 俺はティアと婚約する。


 王太子として。


 アンティクイランド王国とエクィトゥム王国を結ぶ者として。


 けれど、本当の意味では。


 俺はただ、幼馴染だった少女と未来を約束する。


 それだけなのかもしれない。


「殿下」


 声が聞こえた。


 振り返ると、フィリウス王太子が立っていた。


「フィリウス王太子殿下」


「昨日は大変な一日でしたね」


「……はい」


「今日、この婚約式を予定通り行えるとは思っていませんでした」


「俺もです」


 フィリウスは少しだけ笑った。仮面のような笑顔の奥に冷徹な光を浮かべながら。


「ですが、こうして予定通り進められたことは、エクィトゥム王国としても喜ばしいことです」


「ありがとうございます」


「それに」


 フィリウスはティアがいる方向へ目を向けた。


「妹があれほど楽しそうな顔をしているところを見るのは、久しぶりです」


「……そうですか」


「ええ。だから、兄としては安心しています」


 俺は少しだけ頭を下げた。


「大切にします」


 それだけを答えた。


 フィリウスは満足そうに頷いた。


「では、参りましょう。王太子殿下」


 その呼び方を聞いて、俺は少しだけ笑う。


 昨日までは第一王子だった。


 今は王太子だ。


 そして。


 今日からは婚約者も持つ。


 扉の向こうから、儀礼官の声が響いた。


「間もなく、婚約式を開始いたします」


 俺は一度だけ深く息を吸った。


 そして、扉の向こうへ進んだ。


              ◆


 会場に入った瞬間、多くの視線が俺たちへ集まった。


 俺は王太子として正装している。


 昨日の立太子の儀で頭に載せた冠は今日は身につけていないが、王太子であることを示す礼装が施され、胸元には王家の紋章が刻まれている。


 そして、その隣にはティア。


 花嫁を思わせる淡い衣装。


 刺繍。


 宝石。


 長い髪。


 その姿を見た瞬間、昨日以上に胸を打たれた。


 やっぱり。


 きれいだ。


 それしか思いつかなかった。


 俺たちは指定された位置へ立つ。


「これより、アンティクイランド王国王太子レノウィウス・ゲンス・デイ・アンティクイランド殿下と、エクィトゥム王国第三王女グラーティア・アウレリア・デイ・エクィトゥム殿下の婚約式を執り行います」


 儀礼官の声が響く。


 俺はティアを見る。


 その瞬間。


 前世の光景が、一瞬だけ重なった。


 夕暮れ。


 帰り道。


 幼稚園からずっと歩いてきた道。


 隣にいた少女。


 そして。


『俺、美咲のことが好きだ』


 あの時の俺は、ただ一人の少女に気持ちを伝えただけだった。


 未来がどうなるのかなんて考えていなかった。


 ただ。


 一緒にいられたらいいと思っていた。


 けれど、その翌日に俺は死んだ。


 答えは聞けなかった。


 それから世界が変わった。


 俺も、美咲も。


 それぞれ別の人生を生きた。


 なのに。


 また会った。


 そして今。


 目の前にいる。


 俺の婚約者として。


 俺は、少しだけ笑った。


 ティアも笑う。


 儀礼官が言葉を続ける。


「両殿下には、両国の友好と繁栄のため互いに支え合い、正式な婚約を受け入れることを誓っていただきます」


「承知しました」


 俺が答える。


 ティアも続く。


「承知しました」


 形式だけなら、それで十分だ。


 けれど、俺たちにはそれ以上の意味がある。


 これは国と国を結ぶ婚約であると同時に。


 俺たち自身が選んだ未来でもある。


 婚約の証を交換する。


 ティアの手へ証を渡す。


 そして、俺も彼女から証を受け取る。


 その瞬間。


 俺は思った。


 前世の俺は、答えを待った。


 今の俺は。


 答えをもらっている。


 しかも。


 ただ好きだと言ってもらったわけではない。


 これからの人生を共に歩くという約束を、目の前の彼女と交わしている。


 それは。


 あの日の俺には想像もできなかった未来だった。


              ◆


「これをもって、両殿下の婚約は正式に成立したものとします」


 宣言と同時に、会場から大きな拍手が起こった。


 アンティクイランド王国の貴族たち。


 エクィトゥム王国から訪れた使節。


 王族。


 そして、フィリウス王太子。


 誰もが、この婚約を二つの王国の未来を結ぶものとして祝福している。


 俺はその拍手を聞きながら、隣に立つティアを見た。


 ティアも俺を見る。


 そして、人には聞こえないほどの小さな声で言った。


「……これで、本当に婚約者だね」


「ああ」


「変な感じ」


「俺もだ」


「昨日まで王太子じゃなかったのに」


「お前も昨日まで、ただの婚約予定だったからな」


「何それ」


 ティアが笑う。


 俺も笑った。


 こんな時くらい。


 素直に笑っていいのだと思った。


              ◆


 式が終わり、来賓たちとの挨拶を一通り終えると、俺たちは人の少ない回廊へ出た。窓から差し込む午後の光が、ティアの花嫁衣装を照らしている。銀白色に近い刺繍が光を受け、その上に散りばめられた小さな装飾が淡く輝いていた。


 俺はまた足を止める。


「……何?」


「いや」


 俺はティアを見る。


「今日の衣装、本当に似合ってると思って」


「式の前にも言ってたよ」


「何度見てもそう思う」


「……そんなに?」


「ああ」


 ティアは少し恥ずかしそうに笑った。


「でも、花嫁衣装なんて本当の結婚式まで着ないと思ってた」


「俺もだ」


「じゃあ、今日はちょっとだけ予行練習?」


「そうなるな」


「……結婚式の時は、もっと恥ずかしくなるのかな」


「多分な」


 その言葉に、二人とも少し黙る。


 婚約の先にあるもの。


 結婚。


 まだ先の話だ。


 俺たちにはこれから王国を支え、政務を学び、外交を続け、ティアも王女としての役割を果たしていかなければならない。


 それでも。


 未来に「結婚」という言葉があること自体が、俺には不思議だった。


 前世では。


 俺と美咲の未来は、突然途切れた。


 今世では。


 その未来の先に、続きがある。


「ティア」


「何?」


「前世でさ」


 ティアが少しだけ表情を変える。


「うん」


「あの時、俺は答えをもらえなかっただろ」


「……うん」


「ずっと、あれだけが心残りだった」


「私も」


 ティアは静かに答えた。


「あの翌日から、ずっと後悔してた」


「……」


「もっと早く言えばよかったって。もっとちゃんと考えてればよかったって。いつでも答えられると思ってたから」


 俺は黙って聞いた。


「でも」


 ティアが俺を見る。


「今は、ちゃんと分かる」


 その言葉が。


 静かに胸へ落ちてきた。


「うん」


 俺はそれ以上、何も言わなかった。


 言う必要もなかった。


 今ここにある婚約が。


 その答えなのだから。


 俺たちは、世界を越えた。


 人生を越えた。


 一度は途切れた未来を越えて。


 そして、もう一度出会った。


 幼馴染として。


 王子と王女として。


 そして今。


 婚約者として。


 俺はティアの隣に立つ。


 この先に、結婚がある。


 王としての人生がある。


 王妃としての人生がある。


 国の未来がある。


 きっと、また困難はやってくる。


 戦争もあるかもしれない。


 政治的な対立もある。


 いつか俺たち自身が、大きな選択を迫られる日も来るだろう。


 それでも。


 前世とは違う。


 今度は。


 俺たちには時間がある。


 だから。


 急ぐ必要はない。


 今度こそ。


 二人で、これからの未来を歩いていけばいい。


「ティア」


「うん?」


「これからも、よろしく」


 ティアは少しだけ笑って。


「こちらこそ、レノ」


 そう答えた。


 その言葉だけで。


 俺には十分だった。


 かつて、答えを待ったまま終わった人生。


 その続きを。


 俺たちは今、別の世界で生きている。


 そして今日。


 その続きを始めるための約束を、正式に結んだ。

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