第72話 婚約式
立太子の儀が終わった翌日。
王宮には、昨日までとは違う静かな緊張が漂っていた。内乱から二日が経ち、第四軍団と第五軍団の残党の処理や負傷者の収容、王宮各所の修復、反乱に関与した貴族たちの身柄の確認など、やるべきことはまだ山ほど残っている。それでも、昨日の成人式と立太子の儀を終えたことで、王国の政治的な混乱は一つの区切りを迎えていた。そして今日、最後に残されている大きな行事がある。俺とティアの婚約式だ。
朝の執務を終え、控えの間で式典の最終確認をしていると、侍従が静かに入ってきた。
「殿下、グラーティア殿下がお見えです」
「分かった」
そう返してから、俺はふと時計を見る。婚約式まではまだ時間がある。ティアがこの時間に来ることは聞いていなかった。
「どこに?」
「衣装の最終確認が終わったとのことで、殿下へご挨拶をされたいと」
「そうか」
俺は立ち上がった。
扉が開く。
そして。
俺は、言葉を失った。
「……」
そこにいたティアは、昨日まで俺が見ていた王女とは少し違っていた。
淡い色合いを基調とした花嫁衣装。布地は幾重にも重ねられているのに重たさを感じさせず、動くたびに細かな刺繍が柔らかく揺れる。胸元から裾へ流れる刺繍には、エクィトゥム王家ゆかりの花を思わせる意匠が細やかに施され、その上には小さな宝石が控えめに散りばめられている。派手さだけを追求した衣装ではない。それでも王女としての気品を失わず、光を受けた布の一つ一つが、彼女のためだけに作られたものなのだと分かるほど美しかった。
昨日、俺は銀の装飾と碧い宝石を散りばめた王太子の冠を頭に載せた。
今日は。
その俺の隣に立つための衣装を、ティアが身につけている。
「……どうしたの?」
ティアが少し首を傾げる。
俺は、ようやく我に返った。
「いや」
「さっきから何も言わないけど」
「……見惚れてた」
正直に言うと、ティアの頬が少しだけ赤くなった。
「そういうの、急に言わないでよ」
「本当にそう思ったから仕方ないだろ」
「……もう」
ティアは恥ずかしそうに目を逸らす。
俺は改めて彼女を見た。
王女としての衣装は今までも何度も見てきた。舞踏会でも、社交界でも、公式の場でも、ティアはいつも美しく着飾っていた。それでも今日の姿は違う。まだ婚約式であり、結婚式ではない。それなのに、花嫁を思わせる衣装を身につけたティアを見ていると、否応なくその先の未来まで想像してしまう。
婚約。
その先にある結婚。
そして、そのさらに先には。
王と王妃。
俺たちは、これからそういう未来へ進んでいく。
「……変じゃない?」
ティアが小さな声で尋ねた。
「全然」
「本当に?」
「ああ。むしろ、きれいすぎて困るくらいだ」
「困るって何?」
「俺が何を言えばいいのか分からなくなる」
ティアが笑った。
「レノでも、そんなことあるんだね」
「あるさ」
俺も笑う。
その瞬間だけは、昨夜までの戦争も、父上の毒も、ヴィクトリアとルキウスの死も、遠いところへ消えたような気がした。
けれど。
それは、決して忘れたわけではない。
むしろ逆だった。
これから先へ進むために、昨日までの全てを背負ったまま、俺たちはここにいる。
◆
婚約式の直前。
俺は式典会場へ向かう前に、一人で廊下に立っていた。
昨日、王太子の冠を載せてもらった場所を思い出す。
銀の装飾。
碧い宝石。
父上の手。
そして、「今日より、お前は我が国の王太子だ」と言われた瞬間。
あれから一日しか経っていない。
それなのに、俺にはもっと長い時間が流れたように感じられた。
そして今日。
俺はティアと婚約する。
王太子として。
アンティクイランド王国とエクィトゥム王国を結ぶ者として。
けれど、本当の意味では。
俺はただ、幼馴染だった少女と未来を約束する。
それだけなのかもしれない。
「殿下」
声が聞こえた。
振り返ると、フィリウス王太子が立っていた。
「フィリウス王太子殿下」
「昨日は大変な一日でしたね」
「……はい」
「今日、この婚約式を予定通り行えるとは思っていませんでした」
「俺もです」
フィリウスは少しだけ笑った。仮面のような笑顔の奥に冷徹な光を浮かべながら。
「ですが、こうして予定通り進められたことは、エクィトゥム王国としても喜ばしいことです」
「ありがとうございます」
「それに」
フィリウスはティアがいる方向へ目を向けた。
「妹があれほど楽しそうな顔をしているところを見るのは、久しぶりです」
「……そうですか」
「ええ。だから、兄としては安心しています」
俺は少しだけ頭を下げた。
「大切にします」
それだけを答えた。
フィリウスは満足そうに頷いた。
「では、参りましょう。王太子殿下」
その呼び方を聞いて、俺は少しだけ笑う。
昨日までは第一王子だった。
今は王太子だ。
そして。
今日からは婚約者も持つ。
扉の向こうから、儀礼官の声が響いた。
「間もなく、婚約式を開始いたします」
俺は一度だけ深く息を吸った。
そして、扉の向こうへ進んだ。
◆
会場に入った瞬間、多くの視線が俺たちへ集まった。
俺は王太子として正装している。
昨日の立太子の儀で頭に載せた冠は今日は身につけていないが、王太子であることを示す礼装が施され、胸元には王家の紋章が刻まれている。
そして、その隣にはティア。
花嫁を思わせる淡い衣装。
刺繍。
宝石。
長い髪。
その姿を見た瞬間、昨日以上に胸を打たれた。
やっぱり。
きれいだ。
それしか思いつかなかった。
俺たちは指定された位置へ立つ。
「これより、アンティクイランド王国王太子レノウィウス・ゲンス・デイ・アンティクイランド殿下と、エクィトゥム王国第三王女グラーティア・アウレリア・デイ・エクィトゥム殿下の婚約式を執り行います」
儀礼官の声が響く。
俺はティアを見る。
その瞬間。
前世の光景が、一瞬だけ重なった。
夕暮れ。
帰り道。
幼稚園からずっと歩いてきた道。
隣にいた少女。
そして。
『俺、美咲のことが好きだ』
あの時の俺は、ただ一人の少女に気持ちを伝えただけだった。
未来がどうなるのかなんて考えていなかった。
ただ。
一緒にいられたらいいと思っていた。
けれど、その翌日に俺は死んだ。
答えは聞けなかった。
それから世界が変わった。
俺も、美咲も。
それぞれ別の人生を生きた。
なのに。
また会った。
そして今。
目の前にいる。
俺の婚約者として。
俺は、少しだけ笑った。
ティアも笑う。
儀礼官が言葉を続ける。
「両殿下には、両国の友好と繁栄のため互いに支え合い、正式な婚約を受け入れることを誓っていただきます」
「承知しました」
俺が答える。
ティアも続く。
「承知しました」
形式だけなら、それで十分だ。
けれど、俺たちにはそれ以上の意味がある。
これは国と国を結ぶ婚約であると同時に。
俺たち自身が選んだ未来でもある。
婚約の証を交換する。
ティアの手へ証を渡す。
そして、俺も彼女から証を受け取る。
その瞬間。
俺は思った。
前世の俺は、答えを待った。
今の俺は。
答えをもらっている。
しかも。
ただ好きだと言ってもらったわけではない。
これからの人生を共に歩くという約束を、目の前の彼女と交わしている。
それは。
あの日の俺には想像もできなかった未来だった。
◆
「これをもって、両殿下の婚約は正式に成立したものとします」
宣言と同時に、会場から大きな拍手が起こった。
アンティクイランド王国の貴族たち。
エクィトゥム王国から訪れた使節。
王族。
そして、フィリウス王太子。
誰もが、この婚約を二つの王国の未来を結ぶものとして祝福している。
俺はその拍手を聞きながら、隣に立つティアを見た。
ティアも俺を見る。
そして、人には聞こえないほどの小さな声で言った。
「……これで、本当に婚約者だね」
「ああ」
「変な感じ」
「俺もだ」
「昨日まで王太子じゃなかったのに」
「お前も昨日まで、ただの婚約予定だったからな」
「何それ」
ティアが笑う。
俺も笑った。
こんな時くらい。
素直に笑っていいのだと思った。
◆
式が終わり、来賓たちとの挨拶を一通り終えると、俺たちは人の少ない回廊へ出た。窓から差し込む午後の光が、ティアの花嫁衣装を照らしている。銀白色に近い刺繍が光を受け、その上に散りばめられた小さな装飾が淡く輝いていた。
俺はまた足を止める。
「……何?」
「いや」
俺はティアを見る。
「今日の衣装、本当に似合ってると思って」
「式の前にも言ってたよ」
「何度見てもそう思う」
「……そんなに?」
「ああ」
ティアは少し恥ずかしそうに笑った。
「でも、花嫁衣装なんて本当の結婚式まで着ないと思ってた」
「俺もだ」
「じゃあ、今日はちょっとだけ予行練習?」
「そうなるな」
「……結婚式の時は、もっと恥ずかしくなるのかな」
「多分な」
その言葉に、二人とも少し黙る。
婚約の先にあるもの。
結婚。
まだ先の話だ。
俺たちにはこれから王国を支え、政務を学び、外交を続け、ティアも王女としての役割を果たしていかなければならない。
それでも。
未来に「結婚」という言葉があること自体が、俺には不思議だった。
前世では。
俺と美咲の未来は、突然途切れた。
今世では。
その未来の先に、続きがある。
「ティア」
「何?」
「前世でさ」
ティアが少しだけ表情を変える。
「うん」
「あの時、俺は答えをもらえなかっただろ」
「……うん」
「ずっと、あれだけが心残りだった」
「私も」
ティアは静かに答えた。
「あの翌日から、ずっと後悔してた」
「……」
「もっと早く言えばよかったって。もっとちゃんと考えてればよかったって。いつでも答えられると思ってたから」
俺は黙って聞いた。
「でも」
ティアが俺を見る。
「今は、ちゃんと分かる」
その言葉が。
静かに胸へ落ちてきた。
「うん」
俺はそれ以上、何も言わなかった。
言う必要もなかった。
今ここにある婚約が。
その答えなのだから。
俺たちは、世界を越えた。
人生を越えた。
一度は途切れた未来を越えて。
そして、もう一度出会った。
幼馴染として。
王子と王女として。
そして今。
婚約者として。
俺はティアの隣に立つ。
この先に、結婚がある。
王としての人生がある。
王妃としての人生がある。
国の未来がある。
きっと、また困難はやってくる。
戦争もあるかもしれない。
政治的な対立もある。
いつか俺たち自身が、大きな選択を迫られる日も来るだろう。
それでも。
前世とは違う。
今度は。
俺たちには時間がある。
だから。
急ぐ必要はない。
今度こそ。
二人で、これからの未来を歩いていけばいい。
「ティア」
「うん?」
「これからも、よろしく」
ティアは少しだけ笑って。
「こちらこそ、レノ」
そう答えた。
その言葉だけで。
俺には十分だった。
かつて、答えを待ったまま終わった人生。
その続きを。
俺たちは今、別の世界で生きている。
そして今日。
その続きを始めるための約束を、正式に結んだ。




