第66話 ガルディシア伯爵領では....
王宮が戦場へ変わっていた、まさにその頃。アイティクイランド王国南西部に位置するガルディシア伯爵領でも、別の戦いが始まっていた。夜の海から一隻、また一隻と船が姿を現し、月明かりの下で静かに陸へ近づいてくる。その船に掲げられている旗は、アイティクイランド王国のものではない。カヴィーレスターン・スルタン国の旗だった。
上陸した兵力は約三千。
大軍と呼ぶには中規模だが、ガルディシア伯爵領にとっては十分すぎる戦力だった。しかも彼らは、ただ海岸へ上陸して終わりではない。ヴィクトリアとの事前の取り決め通り、ガルディシア伯爵城へ向かって進軍を開始した。夜間だったこともあり、城側が異変を完全に把握するまでには時間がかかり、カヴィーレスターン軍はその間に城下へ迫っていく。
ガルディシア伯爵城には、当然ながら伯爵家直属の兵士が配置されている。しかし、現在城内にいる戦力は総勢二百六十人程度に過ぎなかった。これはガルディシア伯爵領全体の兵力ではない。領内の各地や港湾、街道、その他の拠点にも兵士が分散しているため、伯爵城そのものに常時置かれている兵力は限られていた。
そして。
ヴィクトリア側が想定していた通り、カヴィーレスターン軍は正面から三千人全員を突入させる必要すらなかった。
城壁の外で本隊が圧力をかける一方、少数の兵士が別の手段で城内へ入り込む。
「静かに」
夜陰に紛れ、数十人ほどの兵士が城壁近くへ集まっていた。
彼らの目的は、城門を破壊することではない。
門を開けることだった。
城内に潜り込んでいた協力者との連絡が取れた瞬間、内側から門の閂が外される。
重い城門が、ゆっくりと開いていく。
その瞬間。
「今だ!」
外で待機していたカヴィーレスターン兵が一斉に動いた。
開いた門から兵士たちが流れ込んでくる。城内の兵士たちが異変を察知した時には、すでに侵入した少数部隊が要所を押さえ、城門そのものを取り戻すことが難しい状態になっていた。
「敵襲だ!」
「カヴィーレスターン軍が城内へ入っているぞ!」
「門を閉めろ!」
怒号が飛び交う。
だが。
遅かった。
城門を開けた兵士たちは、混乱する城内の要所を次々に制圧していく。敵の数そのものは少ない。それでも、戦闘が始まった瞬間に城内の守備隊は大きく混乱していた。
二百六十人。
それが一つの指揮系統のもとで整然と動けるなら、決して少ない数ではない。
しかし今夜は違った。
夜襲。
門の内側からの侵入。
外から押し寄せる三千人の本隊。
そして、どこが突破口なのかすら把握できない状況。
守備兵たちは徐々に押し込まれていった。
「伯爵閣下をお守りしろ!」
ガルディシア伯爵家の騎士が叫ぶ。
「閣下を別棟へ!」
「無理です! そちらにも敵が回っています!」
城内の各所から悲鳴や怒号が響き、やがてその抵抗も一つずつ途切れていく。
カヴィーレスターン軍は、城を破壊することも、無意味に戦線を広げることもしなかった。目的は明確だった。
ガルディシア伯爵城の制圧。
そして、ガルディシア伯爵本人の確保。
「伯爵を探せ!」
「書斎だ!」
数人の兵士が一斉に走る。
やがて扉の前へ到着すると、兵士が声を上げた。
「ガルディシア伯爵! お命を頂くつもりはない! 武器を捨てて出てこられよ!」
返事はない。
兵士たちは顔を見合わせる。
「開けろ!」
扉が開かれる。
その奥にいたのは、ガルディシア伯爵プロディトル・デイ・ガルディシアだった。
「……カヴィーレスターン軍か」
プロディトル伯爵は状況を理解したように呟いた。
「なぜ我々を裏切った。それに、これだけの兵をどうやって……」
「詳しい話は後だ」
兵士が武器を向ける。
「伯爵閣下には、我々と共に来ていただく」
「私を捕えるつもりか?」
「はい」
プロディトル伯爵はしばらく黙っていた。
自分がここで抵抗しても、城内の状況を覆せないことは明らかだった。
すでに城内の大部分は制圧されている。
外には三千の兵。
援軍を呼ぶにも、通信手段を確保する余裕すらない。
やがて伯爵は、ゆっくりと両手を上げた。
「……分かった」
こうしてガルディシア伯爵は捕縛された。
それを確認すると、カヴィーレスターン軍の指揮官たちは城内の主要施設を次々と確保していく。武器庫、兵舎、城門、見張り台、そして領主の執務区画。わずかな時間のうちに、ガルディシア伯爵城は完全にカヴィーレスターン軍の掌握下へ入った。
戦闘は。
終わった。
だが。
この戦いには、少し奇妙なところがあった。
カヴィーレスターン軍は、ガルディシア伯爵領を本気で征服するために来たわけではない。
少なくとも。
本来の計画では、そうではなかった。
彼らはヴィクトリアからの要請によって、この国へ入った。
王宮のクーデターを支援するため。
国内の貴族へ圧力をかけるため。
そして。
その先にある何らかの報酬を受け取るため。
そのはずだった。
だからこそ。
ガルディシア伯爵城を制圧した後、指揮官の一人が城壁の上から夜のガルディシア伯爵領を見渡している時、別の兵士が近づいてきた。
「アイガード大族長」
「何だ?」
「城は確保しました。伯爵も捕縛済みです」
「そうか」
その男。
カヴィーレスターンの三大部族の一つ、ラシード族に次ぐ勢力を持つゼフィル族。
その大族長であり、今回の三千の兵を率いてきた男。
アイガード・ゼフィルは、静かに頷いた。
彼はスルタン本人ではない。
しかし、ゼフィル族を率いる大族長として、カヴィーレスターン国内でも極めて大きな影響力を持っている。
「戦力の損害は?」
「軽微です。想定よりも少なく済みました」
「そうか」
アイガードは再び、夜の街へ目を向ける。
ヴィクトリアから受けた依頼。
王宮でのクーデター。
カヴィーレスターン軍三千によるガルディシア伯爵領への進出。
そして、その後に与えられるはずの報酬。
アイガードにとって重要なのは、王宮で誰が勝つのかだけではない。
自分たちが何を得るのか。
それが最も重要だった。
「さて……」
アイガードは小さく呟いた。
「報酬を頂こうか」
一度、城内へ視線を戻す。
その目には、戦場を生き抜いてきた大族長らしい鋭さがあった。
「第一王子――」
そして。
静かに、その名を口にする。
「レノウィウス・ゲンス・デイ・アイティクイランド」
アイガード・ゼフィルは、そう呟いた。
ガルディシア伯爵城陥落
そして、王宮ではまだ別の戦いが続いていた。




