第61話 夜の始まり
卒業式を終えた俺たちは、そのまま王宮へ移動した。今夜は卒業を祝うための正式な晩餐会が開かれる。出席者は卒業生だけではなく、国王アウレリウスをはじめとする王族、主要貴族、学院関係者、そして卒業生たちの家族まで含まれており、王宮の大広間は普段とは比べものにならないほど華やかな空気に包まれていた。壁際には王家の紋章が飾られ、長い卓には数多くの料理と酒が並び、楽団の奏でる音楽が広間全体へ穏やかに響いている。今日という日だけを見れば、誰もが未来を祝うために集まったのだと思うだろう。
だが、俺だけは知っている。
この夜が終わる頃。
ヴィクトリアが動く。
父上へ毒が盛られる。
第四軍団と第五軍団が王宮へ向かう。
そして、俺たちは内乱を迎える。
だからこそ、俺は会場へ入る前にもう一度だけ周囲を確認した。第一王子宮にはサナとティアが待機することになっている。グラフィルは王宮内外の情報を集めながら、異変があれば即座に俺へ知らせる。第一軍団はあらかじめ決めた配置についており、第二軍団と第三軍団も事態が起きればすぐに動ける。父上の食事と飲み物についても通常以上に確認しているが、露骨な警戒を見せれば敵へ計画の露見を悟られるため、表面上は普段と変わらない宴として処理している。
「殿下」
護衛が小声で呼ぶ。
「準備は整っております」
「ああ」
俺は短く頷いた。
これでいい。
後は。
敵が動くかどうか。
それだけだ。
◆
大広間へ入ると、すでに多くの貴族が集まっていた。
「卒業、おめでとうございます!」
「第一王子殿下、誠におめでとうございます」
「このたびのご卒業、心よりお祝い申し上げます」
次々に声をかけられる。
俺は一人ずつ丁寧に応じた。
「ありがとうございます」
「今後とも王国のために励みます」
今日ばかりは、どの貴族も俺を「これからの王太子」として見る視線を隠していない。卒業式での拍手が示したように、学院内で第一王子派が勝利してから、俺を取り巻く環境は大きく変わった。
少し離れたところにはエリシアの姿もある。
フェルディナン男爵令嬢となった彼女は、今夜も貴族令嬢としての立場を崩さず、周囲からの祝辞へ丁寧に応じている。俺と視線が合うと、軽く頭を下げた。
「殿下」
「エリシア。今日はおめでとう」
「ありがとうございます。殿下も、ご卒業おめでとうございます」
「ありがとう」
それだけの短いやり取りだったが、エリシアがこうして男爵令嬢として堂々と立っている姿を見ると、これまでの出来事が改めて遠いものに思える。
学院に入った頃。
派閥争い。
武術大会。
戦争。
そして、今夜。
俺は視線を移した。
父上がいる。
アウレリウスは今夜も国王として堂々と振る舞っている。
その隣には第二王妃ヴィクトリア。
彼女もまた、何も知らない者が見れば、息子の卒業を喜ぶ王妃にしか見えない。
穏やかな表情。
落ち着いた仕草。
周囲の貴族への自然な応対。
それが逆に不気味だった。
「レノ」
ティアが隣へ来る。
「どうしたの?」
「いや」
俺はヴィクトリアから視線を外した。
「少し緊張しているだけだ」
「……そう」
ティアは、それ以上聞かなかった。
ただ、俺の隣から離れなかった。
◆
やがて晩餐が始まった。
料理が運ばれ、酒が注がれ、卒業生たちへ祝辞が贈られていく。
「今年の卒業生たちは、特に優秀な者が多かった」
学院関係者がそう語る。
貴族たちも笑顔で応じる。
「第一王子殿下を筆頭に、今後の王国を担う方々ですからな」
「学院内の争いも終わりました。これからは新しい時代になるでしょう」
そんな会話があちこちから聞こえてくる。
俺はそれを聞きながら、食事を口へ運んだ。
いつもと同じ味がする。
それが妙に印象に残った。
何も起きていない。
少なくとも、まだ。
そして、王の席へ料理が運ばれた。
父上の食事は他の者とは別に用意され、毒見役が確認する。
それは王族の晩餐では当然のことだった。
毒見役が料理を確認する。
問題はない。
その後、父上の前へ料理が置かれる。
父上は何も疑うことなく食事を続ける。
俺はその様子を遠くから見ていた。
これだけ警戒していても。
毒は、食べた直後に症状が出るとは限らない。
だから、毒見役が無事だからといって安全とは言えない。
それが今回の計画だった。
遅効性。
つまり。
今すぐには分からない。
父上が一皿目を食べ、二皿目を終え、酒を飲む。
それでも何も起きない。
宴は続いた。
卒業を祝う音楽が流れ、貴族たちは酒を交わし、卒業生たちは友人同士で話をする。
ヴィクトリアも笑っている。
俺も、時々笑って応じる。
まるで。
本当にただの卒業パーティーのようだった。
そして。
時間が過ぎていった。
◆
やがて宴も終盤に差しかかった。
卒業生たちが最後の挨拶を交わし、貴族たちも少しずつ席を立ち始める。
父上も立ち上がった。
「今日はよくやったな、レノ」
「ありがとうございます、父上」
「正式な成人と立太子は春だが、今日でお前が一つの大きな段階を終えたことに変わりはない」
「はい」
父上が微笑む。
「楽しんでこい。学院最後の日なのだからな」
「父上も、今日はゆっくり休んでください」
「ああ」
父上はそう答え、王族の居住区域へ戻るために会場を後にした。
俺はその背中を見送った。
まだ何も起きていない。
だが。
これで宴は終わった。
ここからが本番だ。
俺はすぐにグラフィルへ合図を送った。
「国王陛下の様子を確認してくれ」
「承知しました」
グラフィルが動く。
俺も第一王子宮へ向かう準備を始めた。
◆
夜。
王宮が昼間の喧騒を失い、各所の明かりも少しずつ消えていく。
卒業パーティーは終わった。
王族や貴族たちはそれぞれの部屋へ戻り、卒業生たちも自室や宿泊場所へ向かっている。
表面上は。
全てが無事に終わった。
だが。
国王の執務室近く。
寝室へ戻っていたアウレリウスの身体に、異変が起きた。
「……っ」
国王は胸元へ手を当てた。
身体が、妙に重い。
息苦しい。
先ほどまで何ともなかったはずなのに、急に視界が揺れ始める。
「陛下?」
近くにいた侍従が顔色の変化に気づく。
「どうされました?」
「……少し、具合が……」
アウレリウスが椅子へ手をつく。
しかし。
力が入らない。
「陛下!」
侍従が慌てて支える。
その直後。
王の身体が大きく傾いた。
「医師を!」
廊下へ叫び声が響く。
「国王陛下が倒れられた!」
同じ頃。
王の食事を確認した毒見役も、別室で突然倒れていた。
医師が駆けつける。
脈を確認する。
呼吸を確認する。
そして。
「……毒の可能性があります!」
その一言が、静まり返った夜の王宮を震わせた。
卒業パーティーは。
もう終わっている。
だが。
本当の夜は。
ここから始まる。
◆
ほぼ同時刻。
王宮の別の場所。
ヴィクトリアの部屋には、すでに数人の侍女と側近が集まっていた。
「報告を」
「国王陛下が倒れました」
「毒とのことです」
「医師が治療に入っています」
ヴィクトリアは静かに目を閉じた。
そして。
ゆっくりと立ち上がる。
「……始まったのですね」
その声には、動揺など一切なかった。
「はい」
側近が頷く。
ヴィクトリアは窓の外へ目を向ける。
王宮の夜は静かだった。
まるで何も起きていないかのように。
「第四軍団と第五軍団へ伝えてください」
ヴィクトリアが静かに命じる。
「国王陛下を保護する」
「第一王子による国王陛下への暗殺未遂の疑いがあると」
「王宮の安全を確保し、王族居住区域を封鎖するように」
側近が深く頭を下げる。
「承知しました」
ヴィクトリアは最後に一言だけ告げた。
「今夜をもって、王国は変わります。我が国は再び灼熱竜の僕となるのです。」
そして。
長い間、準備されてきた計画が動き始めた。
王宮の外では。
第一軍団が、静かに配置についていた。
そして王宮のさらに外では。
第四軍団と第五軍団が、進軍を開始しようとしていた。
卒業式の日は終わった。
だが。
新しい王国の最初の夜は。
まだ始まったばかりだった。




