第59話 冬の社交界
冬の社交界が始まった。
王都の貴族たちが集まるこの時期、王立貴族学院も普段とは少し違う空気に包まれていた。冬季休暇へ入る前のこの時期は、学院内で学ぶ貴族子弟たちにとっても、卒業後の進路や家同士の縁談、将来仕える主家などを考える重要な時期であり、上級生ほど社交の場へ顔を出す機会が増える。今年は特に、俺たちの学年が春に卒業を迎えることもあり、周囲の視線はいつも以上にこちらへ向けられていた。
俺自身も、暗殺未遂事件によって数か月学院を離れていたが、冬の社交界が始まる頃には以前とほぼ変わらない生活へ戻れるところまで回復していた。まだ長時間の激しい運動には医師から制限を受けているものの、学院で授業を受けたり、社交の場へ出たり、王宮で政務をこなしたりする程度なら問題ない。だからこそ、久しぶりに戻った学院の舞踏室を見渡した時、懐かしさを感じると同時に、ここから春までに片付けなければならないことの多さを改めて実感していた。
今度の春には、俺は十五歳になる。
王立貴族学院を卒業し、成人を迎える。
その後、立太子の儀を受ける。
そして、ティアとの婚約式が行われる。
さらに、エクィトゥム王国との軍事同盟と貿易協定も正式に調印される予定になっている。どれ一つとして、俺個人だけの問題ではない。王位継承、エクィトゥム王国との外交、軍事協力、経済関係、そして王国貴族たちの今後の立場まで、全てに影響する。
つまり、この冬の社交界はただの社交ではない。
春に行われる一連の儀式と条約締結を滞りなく進めるための、最後の準備期間だった。
「殿下、お戻りになられたのですね」
声をかけてきたのは、第一王子派に属する若い伯爵家の令息だった。
「ああ。心配をかけたな」
「とんでもありません。殿下がお元気になられて、本当に安心しました」
「ありがとう」
俺が微笑んで答えると、彼も安心したように笑った。
以前なら、この程度の会話はただの挨拶で終わっていたかもしれない。
だが、今は違う。
「実は、春の式典について父からいくつか話を聞いております」
「そうか」
「卒業式と成人式、それに立太子の儀まで同日に行われるとなると、相当な規模になるでしょうね」
「さらに婚約式もある」
そう告げると、令息は少しだけ目を見開いた。
「ええ。社交界では、その話でもちきりです。エクィトゥム王国第三王女との正式な婚約ですから」
「そうだな」
「それだけではありません。エクィトゥム王国との軍事同盟と貿易協定まで同日に調印されるという話も出ています」
「その予定だ」
「それは……かなり大きな転換ですね」
俺は周囲を見た。
近くでは別の貴族たちが話をしている。
第一王子派。
かつて第二王子派だった者たち。
中立を装っていた家。
そして、今では俺の側へ近づこうとしている家。
学院内の派閥争いは、武術大会によって事実上決着した。
だから今度は、卒業後の王国を誰が支えるのかという問題になる。
「春以降、王国の政治もかなり変わるでしょう」
俺がそう言うと、令息は頷いた。
「殿下が王太子になられるのであれば、我々も今後の立場を考えなければなりませんから」
「だからこそ、今はまだ急いで立場を決める必要はない」
「……え?」
令息が少し驚いた表情をする。
「春の儀式が終われば、お前たちの進む道も自然と変わる。だが、それまでは今の関係を崩す必要はない。これまで第一王子派として共に動いてきた者には、これまで通り学院での役割を果たしてもらえばいい」
「殿下は、我々を試しているわけではないのですか?」
「そんなつもりはない」
俺は穏やかに答えた。
「王太子になるからといって、明日から全員の態度を変えろと言うつもりもない。春に正式な立場が変わるのであれば、その時に必要な体制を整えればいい」
令息は少しだけ安心したように笑った。
「分かりました。殿下らしいお言葉です」
「そうか?」
「はい。もっと厳しく言われるものかと思っていました」
「俺は必要以上に人へ圧力をかける趣味はない」
そう答えると、令息は笑った。
それから少しして、別の貴族家の令嬢が俺の前へ来た。
「殿下、少しよろしいでしょうか」
「ああ」
「私の家から、春の婚約式について確認したいことがあるそうです」
「どうぞ」
「エクィトゥム王国との正式な婚姻関係が成立することになりますが、両国の貴族間でも婚姻を進める方針になるのでしょうか?」
なるほど。
俺は少し考えた。
「それについては、王家同士の婚約と、貴族間の婚姻を同じものとして扱う予定はない。ただ、両国の関係が強化される以上、将来的にそうした縁が増えることは十分に考えられるだろう」
「ありがとうございます」
令嬢は安心したように頭を下げる。
こうした会話が、次々と続いた。
軍事同盟について確認したい家。
貿易協定によって利益を得られる可能性を尋ねる商業貴族。
エクィトゥム王国へ人材を派遣できるか探る家。
春の立太子後に王太子府へ仕官したいと考えている者。
そして、卒業後も俺との関係を維持したいと考える貴族たち。
どれも表向きは穏やかな会話だった。
だが、その一つ一つが春以降の王国を形作る。
俺はそれを理解したうえで、誰に対しても丁寧に応じていった。
今ここで、無理に人を囲い込む必要はない。
むしろ重要なのは、春になった時に突然新しい体制を作るのではなく、今のうちから周囲へ自然に受け入れさせておくことだ。
「レノ」
背後から声がした。
振り返る。
「ティア」
そこには、冬の社交界用の装いに身を包んだティアが立っていた。
「随分忙しそうだね」
「ああ。春のことを考えると、今のうちに話しておくことが多い」
「私の方も似たようなものだよ」
ティアが苦笑する。
「エクィトゥム王国側の貴族からも、婚約式についていろいろ聞かれてる」
「そうか」
「それに、軍事同盟と貿易協定のことも」
ティアは少しだけ周囲を見た。
「こうして見ると、本当に大きなことなんだね」
「ああ」
俺も周囲を見る。
冬の社交界に集まった貴族たち。
笑い声。
音楽。
料理。
華やかな衣装。
だが、その裏では、春に成立する新しい王国の形を見据えて、誰もが自分の立場を考えている。
「ティア」
「なに?」
「君の家から、何か要望は来ている?」
「ううん。お父様は、婚約式そのものについては王家に任せるって言ってた。ただ、軍事同盟についてはかなり気にしているみたい」
「そうだろうな」
「特にシルウァニア王国戦」
「うん」
ティアは少しだけ表情を引き締める。
「私の国も、あの戦争に参加することになる」
「そうだな」
「……戦争が終わったら」
ティアが小さく呟く。
「今よりもっと、両国の関係が深くなるんだよね」
「その予定だ」
俺は頷いた。
「軍事同盟と貿易協定は、そのための土台になる」
「婚約も?」
「ああ」
ティアが少しだけ顔を赤くする。
「……やっぱり、まだ慣れない」
「俺もだ」
「本当に?」
「本当だ」
ティアは少し笑った。
「よかった」
俺たちがそんな話をしている間にも、周囲では貴族たちがそれぞれの動きを続けている。
俺はここで、改めて一つの方針を決めた。
春までに必要なのは、形式的な儀式の準備だけではない。
王太子として支持を固めること。
エクィトゥム王国との同盟に反対する勢力を増やさないこと。
貿易協定によって利益を得る貴族を把握すること。
卒業後に王太子府を支える人材を見極めること。
そして、婚約そのものを王国貴族に自然なものとして受け入れさせること。
そのために、俺はこの冬の社交界で、できるだけ多くの人間と話すことにした。
誰を信用するのか。
誰が何を望んでいるのか。
誰が春以降の体制に適応しようとしているのか。
逆に、誰が今も第二王子派の敗北を受け入れていないのか。
それらを見極める。
表面上は、ただの社交だった。
だが。
俺にとって、この冬の社交界は春へ向けた最後の準備期間だった。
卒業。
成人。
立太子。
婚約。
軍事同盟。
貿易協定。
半年も先ではない。
春はもう、すぐそこまで来ている。
俺は舞踏室の中央へ目を向けた。
華やかな音楽が響いている。
貴族たちは笑い合い、酒を交わし、未来について語っている。
その中で。
俺もまた、未来の王太子として静かに根を張っていく。
春の日。
全ての儀式が滞りなく行われるように。
そして、その先の王国を自分の手で支えられるように。
この冬、俺は社交界の中で一つずつ、春への道筋を作っていった。




